第20話

 レドニスは外套に一枚だけ引っかかっていた葉を摘み上げた。縁が波型をしたそれはブナの葉である。つやつやとしてまだ新しいその葉は、どうやら乱暴な風か、この辺りを棲処とする鳥だかにもぎ取られ、レドニスの肩に落ちてきたものであるらしい。さらりと滑り落ちた髪を、滑らかな所作で耳にかけたイーリアがレドニスの指からブナの葉を受け取った。陽射しを透かした彼女の髪の毛は、角度によっては美しく輝く銀糸のようにも見える。

「村でまじない師をするのでは、駄目かしら」

 イーリアの声色は明るく作られたものであったが、対照的に表情は沈んでいた。

「わたし手伝うわ。あなたにはまじないの才能があるから、村をきっとずっとよくしていける。それに、おばあさんはもういないというのに、レドまでいなくなってしまったらもうこの村は立ち行かないもの」

「それなら、俺よりきみの方が向いている。みんなはきみのことを慕っているから」

「レド、わたし一人じゃ無理だわ」

「きみ一人で大丈夫だ」

 此方へ伸ばされかけた手を、レドニスはそっと手のひらで押し留めた。

「もう、今のきみには十分この村でまじない師を務めるだけの知識と経験があるよ。俺が保証する」

 イーリアがぽつりと言った。

「どうしても、魔術師になるのね」

 その淋しげな響きは、レドニスの胸をきりきりと痛めつけた。しかし、もう決めたことなのだ。戒めるように拳を強く握り、手のひらへ爪を立てる。俺はこのメイズの村を出て、魔術を学ぶ。そうして神殿に仕え、この国を支える礎の一つとなるのだ。二十歳は弟子入りするには既に遅すぎる、これ以上迷っている時間はない。

「トラヴィアに行かなくては、まともな魔術は学べない。イーリア……俺は、俺に与えられた力を活かさなければと、そう思うんだ。どうしても魔術師になって、この国を守りたい」

 きみの住むこの国を、とは言えなかった。

「何も会えなくなるわけじゃない。一人前になったら、きっとここに帰ってくるよ。イーリア、約束するから待っていてくれないか」

 イーリアが小さく頷いた。二度、三度と重ねて頷く。そして、レドニスの胸に顔を押し付けた。嫋やかな腕がおずおずと背中に回される。心臓がまた痛むような心持ちがして、レドニスはイーリアの華奢な身体を抱擁した。イーリアの髪からは微かにくちなしと乳香の混ざったような匂いがした。細い指が白くなるほどにレドニスの外套を強く摑む。レドニスは彼女を壊れるほどにきつく抱き締めた。このときのことを、レドニスは生涯忘れないだろうと思った。



 三日をかけて山を越え、トラヴィアに辿りついたのは四日目の明け方であった。時間こそかかったが危険な旅ではなかった。レドニスは街が目覚め出し、店がちらほらと開きはじめるまでの間宿屋の一つの軒下に座り込んで休んだ。魔術の都であり、ルーメス教の中心地であるトラヴィアの街は目的地であるメルパトス神殿を中心として整然と道が敷かれているので、迷う心配はなかった。大きな風車さえ見失わなければ、どう歩こうといずれは神殿に辿りつく。

簡単に腹拵えをしたあとで神殿へと向かったレドニスは、悠々と回転する八枚羽根の風車と天を衝くような八角錐の尖塔とをある種の感動に打たれて見上げた。メルパトス神殿は美しい石造りであった。レドニスはその前に堂々と広がる緩やかな石階段の半ばで佇んでいた。立ち止まっているレドニスの横を、上等な長衣を纏い、腕に沢山の書物を抱えた若者が降りていく。紅玉なのか尖晶石スピネルなのか、紅い石の嵌った腕環を身につけた彼はこの神殿で働く魔術師の一人であるらしい。

意識して見てみれば、何人もの魔術師が絶え間なくここを行き来していた。また一人、老いた男が降りてくる。後ろに弟子らしき若い魔術師を従えて、ゆっくりではあるが杖に頼らずしっかりと石段を踏みしめている。男はレドニスの横を通り過ぎようとして、ふと立ち止まった。翠の鋭いまなざしがレドニスを貫く。

「君、魔術師志望かね」

 重々しい声が耳朶を打ち、ぼんやりと彼の姿を追っていたレドニスは我に返って口を開いた。

「そうです、おっしゃる通りです。ご存知だったら教えていただきたいのですが、私はまずどこへゆけばいいのでしょう」

「名前は何という」

 男はレドニスの質問を丸っきり無視してそう尋ねた。弟子が目を丸くして、レドニスと男とを見比べる。階段を上がってきた二人組の魔術師が、レドニスたちを見てひそひそと声を交わし合うのが分かった。レドニスは戸惑いながら答えた。

「レドニスです。メイズの村から来ました」

「今から弟子入りというには薹が立っているように思うが。これまでどこかで魔術を学んだことはあるかね」

「いえ、しかし簡単なまじないの心得は」

 男はレドニスの全身を値踏みするように眺め回したあとで、サルバローザと名乗った。



「あのときさ、レドニスお前、見どころがあるって思われたんだよ」

 食事の席でパンを千切りながら、ライネルが快活に笑った。何を隠そう彼があの日サルバローザに付き従っていた弟子である。あの後――レドニスにとっては予想だにしないことだったが――レドニスはサルバローザの弟子となったのだ。ライネルは兄弟子ではあるが、年が近いということもあってレドニスに気安く接してくれるのだった。

「訳が分からないな。まだ何もしちゃいなかったどころか、阿呆のように口を開けて神殿を見上げていただけだぞ」

「だけど、事実お前は優秀じゃないか。もうアイレイムの呪法を習得したんだろう? 俺だってそれが使えるようになったのは最近のことだぜ。兄弟子が俺であったことに感謝しろよな、ここは色々な意味でおっそろしいところだからな。ただでさえ魔術師って生き物は嫉妬深い」

「私に特別な才があるとは思わないよ。するべき努力をしているだけだ」

 豆のスープを一口啜り、大仰に肩を竦めてみせたレドニスにライネルが呆れ顔で人差し指を突きつけた。

「いいか、その台詞を他の奴の前で絶対に言うなよ。あと俺の前でその私ってのはやめろ」

 むずむずする、と言いながらライネルは干しイチジクを摘まんだ。ライネルの視線を軽く往なして、レドニスは頬杖を突く。自分に向けられる周囲の嫉妬と羨望の視線には気付いていた。食堂に向かうのに廻廊を通れば、隠す気のないひそひそ声がレドニスとライネルの全身に絡みつくのだから、気付かぬ方が難しい。

――二十歳を過ぎてからあのサルバローザに弟子入り、一体どうやって取り入ったんだ?

――おそろしく難解なメイゼンの書を二日で読破したらしい。

――焼灼魔術をもう習得していると聞いたぞ。サルバローザが奴のことをルドメオ会で高く評価していたとか。

――おいおい、冗談だろう? 何か狡い手を使ったに決まってる。

――見ろよ、お高くとまって。サルバローザに気に入られているから、いい気になってやがんだ。一度痛い目を見せてやりたいもんだが。

――おいおい、喧嘩に魔術はご法度だぞ。

 正義漢で一本気なところがあるライネルはその度に目くじらを立てたが、当人であるレドニスの方は一向に気にならなかった。言いたいやつには言わせておけばいい。どうせ努力して見返してやろうという根性も、直接危害を加えてくる度胸もない連中だ。

「自分で気付いてるか知らないが、お前の態度はときどき傲慢に見える。誤解されるぞ」

「嫌われるのは慣れてる」

「レドニス、敵なんて、作らなくて済むなら作らない方がいい」

 ライネルの瞳には兄弟子らしい案ずるような色が浮かんでいた。心根の優しい男だと思う。レドニスは頬杖を突くのを止めた。声を和らげ、「そうだな」と頷いてみせると、ライネルは微かにほっとしたような表情を見せた。

「まあ実際、師匠は人を見る目があるからな。師匠自身も有能な魔術師だが、隠された才能を見抜く力があるんだ。何より、俺を弟子にしていることからも分かるだろ?」

「言ってろ」

 鼻の横を擦ってわざとらしくおどけてみせたライネルの足を自分の爪先で軽く小突き、レドニスは笑い声を上げた。ライネルも肩を揺らす。彼の短い癖っ毛が楽しげに跳ねるのを見て、レドニスはふと呟いた。

「ライネルは今年で六年目か」

「ああ。お前よりか二年先輩だが、実力は今の時点でどっこいどっこいってところだな。認めたくはないけど、下手したらお前の方が先なんじゃないか? 心臓石を貰うのは」

 思えば、村を出てきてから既に四年が経っていた。レドニスからすればあっという間のようだったがイーリアにとってはどうだろう。こんなに経ってしまえば、もうとうに誰かと一緒になってしまっただろうか。その想像はレドニスの胸に小さなとげのように食い込んだ。

「お前はメイズの出身なんだっけ」

 黙っているレドニスをよそに、行儀悪くテーブルに肘を突いたライネルが思い出したように言った。

「そもそもお前、何故魔術師になろうと思った? 今更だけど、ずっと気になってたことではあるんだ。それも二十歳を過ぎてからだなんて」

「本当に今更なことを聞くんだな。理由は色々あるさ」

 レドニスはまた少し笑って、考えながら喋った。

「魔術師になって、昔俺を軽んじた村の人間を見返してやりたかった。国の役に立ちたかった。そして、何よりもまじないが好きだったからかな。まじないを深めていく過程において、より高度な魔術を学びたいと思うようになるのは自然だろう?」

 嘘ではなかったが、全くの本心ではなかった。

 本当は、イーリアに認めてもらいたかったのだと思う。四年前には自分でも上手く説明できなかった自分の本心が、今のレドニスには理解できた。俺は、魔術師になって、立派になった俺を見てほしかった。守られる存在ではなく、守る存在としての俺を見てほしかったのだ。レドニスは成長して大人の男になり、イーリアよりも随分と背が伸びて力だって強くなった。しかし、レドニスの中では、自分はいつまでもイーリアに顔を拭われている小さな子どものままだった。

「まあ、そうか。そうだな」

 ライネルはレドニスの説明に一応は納得したようだった。

「ライネルはファルヴィアの出身だったか。お前こそ、何故トラヴィアに? ファルヴィアといえばこの国の首都だろう、高名な魔術師が沢山いる筈だ。わざわざここまで来なくても魔術を学べたんじゃあないのか?」

「俺は、師匠に学びたかったから」

 麦酒の入った杯を空にしてから、ライネルは照れたように笑った。

「師匠がファルヴィアの出身だってことは知ってたか? 俺の実家の近く。俺の親父が子どものころ、馬車に轢かれて命にかかわる大怪我をしたんだけど、それを助けたのが師匠だったんだよ。それで、親父は命の恩人だと言って昔からサルバローザの話ばかりした。だから、小さな頃からサルバローザは俺にとっての憧れだったんだ。絶対に弟子はとらないと言われていたのを半年通い詰めて、六年前やっと師匠に弟子入りできたときにはそれはもう嬉しかった。それに、やっぱり魔術といったらトラヴィアだよ、神殿もあるし。この国において魔術と光信仰は切っても切れないものだからな」

 そうか、と答えてレドニスは麦酒を呷った。


 食事を終えて、ライネルと共に食堂を出る。

ここメルパトス神殿は、神殿と言えど魔術師が質の高い教えを受けるためのこの国の事実上の最高学府であり、同時に多くの神官や巫女、神殿に仕える魔術師たちの居住空間でもあった。神殿は大きく分けて正面にある拝殿とも呼ばれる礼拝堂、風車があり最も大きく目立つ本殿、西塔、東塔から構成されている。広大な神殿ではあるが、実のところルーメス教を信仰する一般のひとびとが足を踏み入れることが許されているのはこのうちのごく一部、身廊と翼廊の上部に作られたバラ窓の美しい三廊式の礼拝堂のみである。本殿には大広間や食堂、広大な書庫など。西塔にはレドニスとライネルを含む魔術師たちの宿舎、東塔には魔術を扱わない神官や巫女たちの宿舎があった。本殿にのみ地下空間が存在し、位の高い一握りの神官や魔術師のみが立ち入ることを許されている。そこにはルースから賜わった神聖不可侵のしるしが存在するのだとか、表立っては行うことのできない政治的な会合の場であるのだとか、はたまた全ての聖職者と神殿付き魔術師の長であるザウツレン最高神祇官のごく個人的なスペースであるのだとか、様々な噂がまことしやかに囁かれていた。レドニスの見立てでは、飛び交う予測の殆ど全てがてんで的外れだ。

 西塔に戻るべく廻廊を歩いていると、すれ違いざまに誰かに勢いよく肩をぶつけられた。衝撃によろめいてたたらを踏み、ライネルに支えられる。思わず相手を睨みつけると、見知った顔だった。

「ハウロ」

「これはこれはサルバローザ氏のお気に入り、神殿が出来て以来例を見ないと言われる天才レドニス様じゃあないか。名前を覚えていていただけたとは光栄だぜ」

 仲間を引き連れてにやついているこの若い男は、サルバローザには劣るがそれなりに名の知れた魔術師、バルンの一番弟子である。ひそひそと陰口を叩くだけの他の連中と違い、日頃から何かと直接的に絡んでくるハウロにレドニスは困惑していた。ライネルがハウロを鋭く睨みつける。

「お前、わざとぶつかっただろ」

「だったらどうなんだ? 何か文句があるか? お前にゃあ関係のない話だろ、それともお前はこいつの母親か何かなのか?」

 ハウロが笑い飛ばすと、取り巻きもくすくすと笑い声を上げた。ライネルの眦が吊りあがったのを見て、レドニスは彼の肩に手を掛けた。あくまでライネルに語りかけるように、聞こえよがしにハウロを挑発してやることにする。

「おい、ライネル。私は気にしない。口でも魔術でも勝てないもんだから、こういう馬鹿げたことをしたがる可哀想な奴なんだよ。それに、どうやら口の端に焼き菓子の屑が付いていることにも気付かないくらい私に夢中のようだ。肩くらい好きなだけぶつけさせてやるさ」

 今度はライネルが吹き出す番だった。ハウロの顔がみるみるうちに怒りで真っ赤になる。荒々しく菓子の屑を払った手が、そのままレドニスの首を絞め上げたそうに持ち上げられたが、すぐにその手は下げられた。顔を歪め、低い声で唸る。

「あまり調子に乗るなよ。後悔するぞ」

 レドニスを窒息させる代わりに新鮮味のない捨て台詞を吐いて、ハウロは仲間と共に立ち去った。その後ろ姿を見送ってから、隣に目を遣るとライネルはまだ笑っていた。

「あいつの顔見たか? 熟れ過ぎの林檎みたいだったぞ」

「調子に乗るな、だと。何度聞いたか分からん。ああいう輩はみんな同じことを言うんだな」

「お前、昔からこんな調子なのか」

「俺のせいじゃない。環境が悪いんだ」

 顔を顰めて言い返すと、ライネルがまた笑い出しそうになって慌てて表情を引き締めた。

「だけどレドニス、気を付けろよ。あいつ、見た目ほど馬鹿じゃないぜ。それに執念深い」

 レドニスは返事の代わりに首を竦めてみせた。


 それから一年が経って、レドニスとライネルは同じ日に心臓石を与えられた。ライネルの心臓石は橙に輝く日長石。太陽のような明朗さと活力に満ちたライネルにぴったりだった。ライネルは首飾りに加工した日長石を日に透かして暫し見惚れたあと、レドニスの右手に嵌った指環、そこに嵌った菫青石アイオライトを見て微笑んだ。菫青石は、かつてイーリアが好きだと言ってくれた自分の瞳の色に似ている気がした。イーリアに見せたら、きっと綺麗だと褒めてくれただろう。

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