第21話

 ロクドは瞼を開けた。

 目の前のヨグナはまだロクドの肩に手を触れたままだった。目を溢れんばかりに見開いて、ロクドを見つめている。一瞬ヨグナの姿がイーリアと重なり、ロクドは目を瞬いた。ヨグナの手を取り、そっと肩から下ろす。

そうだ、おれはレドニスではない。

しんとした廊下には、青い薄暮が満ちていた。長い夢から醒めたような感覚だったが、初めてのときよりも随分と落ち着いていた。ロクドは息を大きく吸い込み、吐き出すことを二回繰り返した。手袋を外し袖を捲り上げて確認すると、痣は今にも肩に届こうというほどに侵食を進めていた。それまで硬直していたヨグナが、それを見て息を飲んだ。

「きみも――今のを見た?」

 ヨグナが頷いた。

「あれがロクドの言っていた……白昼夢?」

「その、続きだった」

 そう言ってからロクドは足元に撒き散らされたままの紫水晶の粒を大雑把に集め、砕けた瓶の欠片を拾った。ロクドがヨグナを伴って再び部屋に戻ると、ファルマはまだそこにいた。ファルマは驚いたように二人に目を向けたが、すぐにただならぬ気配を感じたのか厳しい表情になった。ロクドは今し方自分たちに起こったことを説明した。全てを聞き終えるとファルマは椅子を引き、どさりと腰を掛けた。

「そのレドニスという男の記憶を見たということか」

「おそらくは。夢はその男の人生を追いかけるように続いている。やはり呪いに関係する何らかの人物であることは間違いないと、おれは思います」

「術者にかかわる人物か、或いは……」

「ねえ、気になっていることがあるの。違和感というか、どこかが変というか」

 突然ヨグナが声を上げ、ファルマとロクドは彼女に注目した。彼女は二人の視線に気圧されたように口籠ったが、少し考えるような間を置いてからおもむろに口を開いた。

「そうだわ、障壁がなかったの、夢の中のトラヴィアには。街の東を囲んでいるはずの大きな障壁が」

「障壁が?」

 ロクドは眉根を寄せて記憶を辿った。確かに、障壁は一度たりとも目にした覚えはなかった。

「あれだけ高い壁だもの、目に入らないはずがないわ。あれは、障壁が作られる前のトラヴィアなんじゃないかしら」

「ということは〈瘴気の大平原〉が出現する前か?」

 ファルマは、爪でこつりと机を叩いた。ロクドはあることに気付いて弾かれたようにヨグナを見た。

「待ってくれ、そういえば……おれの見たトラヴィアには障壁どころか宮殿もなかった。街の中心には神殿の大風車があるばかりで……どういうことなんだ? それに、首都はだとおれは……レドニスは」

?」

「確かにそう言った」

 口髭を引っ張り、ファルマは険しい表情で首を捻った。

「そんな地名は聞いたことがない。ドルメア大公がトラヴィアから移動したという記録もない」

「あそこはおれの知っているトラヴィアじゃなかった。似てはいるが……一体いつの、どこなんだ? レドニスは何者だ?」

 そこではっとした。

「メイズは? メイズの村というのは?」

「メイズ?」

「そうです。レドニスはそこの出身だった。イーリアも」

「メイズの村なら存在する。ここからは遠いが。〈瘴気の大平原〉の向こう側、山あいにある小さな村の筈だ」

 ファルマがこの間の地図を引き出し、一点を指差した。ロクドは顔を顰めた。

「トラヴィアから山一つ越えたところにあったんです、その……レドニスの記憶では。この位置では遠すぎる。同名の別の村なのかな」

「ファルヴィアのこともあるし、地理的な情報に多少の齟齬があってもおかしくはない。ロクド、これは手掛かりになるかもしれないよ」


 そこに向かえば、或いは何らかの糸口が掴めるのかもしれなかった。しかし、ロクドもすぐに呪いのことばかりは考えていられなくなった。恐れていた通り、呪いの病が広がり始めたのだ。

 初めの頃は、月に一人。やがて、週に一人、三日に一人。ファルマを訪れる病人の数は増える一方だった。まず目が見えなくなる。それから十日ほど経って、突然の痙攣、呼吸困難と共に顔と四肢にどす黒い斑を呈し、間も無く死に至る。これがナトーレンにおける典型的な病の転帰であった。多忙を極める夫婦を、ロクドとヨグナも懸命に手伝ったが、とても手に負えるものではなかった。対症療法で病の進行を遅らせることはできこそすれ、根本的な治療ができないのだ。何を試しても焼け石に水で、最終的には苦しむ病人をせめて安らかに死なせてやるくらいしか出来ることがない。毎日がつめたい死の匂いと、愁嘆と慟哭とに満ちていた。ひとびとの悲しみがロクドの心に細かな切り傷を作り、闇がそこから忍び込もうとするのがわかった。鬱々とした日々の中でもファルマはロクドたちの前ではけして取り乱したり狼狽えることはせず、朗らかに振舞っている様子だった。しかしある晩、眠れずに階下に降りていったロクドは、扉の隙間からファルマの苦しみを垣間見た。

「何もできない」

 椅子に腰かけたファルマは震え声でそう絞り出した。一つだけ灯された小さな蝋燭の灯りが、ファルマから長い影を伸ばしていた。

「僕はみんなに何もしてやれない。殺してばかりだ。僕は魔術師なのに、町のひとびとを救うべき存在なのに。もっと力があったなら」

「あなたは努力している。出来る限りのことをしているわ」

「怖いんだ、モンノ。アルレイが死んだ。ドネもダイリも死んだ。このままではナトーレンはこの国から消えてしまう。ガレやシーラのように。僕は病が……呪いが恐ろしい。出来ることなら君と一緒にここから逃げ出してしまいたい。モンノ、モンノ、弱い僕を赦してくれ」

 モンノは立ち上がり、項垂れるファルマの頭をそっと抱え込むようにした。

「大丈夫よ。きっと大丈夫。ルースがお救いくださるわ」

 哀しげな声だった。二人は長いことそうしたまま、動かなかった。ロクドは、かつてネルギの村で両親の会話を立ち聞きしたときのことを思い出していた。次の朝、ファルマとモンノはまったくいつも通りだったが、ロクドはその夜のことがいつまでも頭から離れなかった。

 それから七日ほど経って、真剣な顔つきをした夫婦はロクドとヨグナを呼び出した。ファルマが穏やかに切り出した。

「二人とも、ここを出てメイズの村に行くべきだ」

「そんなことはできません」

 半ば予測がついていたファルマの言葉に、ロクドは反発した。

「病人の数だって増えるばかりなのに。おれたちがいなくなって、やっていけるとは思えない」

「わたしも同じ意見です。こんな状況で置いてなんていけない。どうしてそんなことを言うの」

 ヨグナが首を振って、モンノにしがみ付いた。モンノの手のひらがそっと持ち上がって、ヨグナの肩に確かめるように触れたあとで、背に優しく添えられた。ファルマは静かに口を開いた。

「正直に言おう。僕らは君たちに期待を掛けている。君が呪いの手掛かりを掴むということは、この一連の病について少しでも前進するということだ。歯止めをかけられるかもしれないということだ。僕らではできないことが君たちにはできるかもしれない。本当はもっと早く、一刻も早く送り出してやるべきだったのに、ずるずるとここまで先延ばしにしてしまった。ロクド、ヨグナ。これは僕とモンノからの願いであって、祈りなんだ」

 ずるい言い方をすると思った。恐ろしいと言っていたくせに。逃げ出してしまいたいと言っていたくせに。それなら、本当に逃げてしまえばいいのだ。全てを忘れて、二人どこか別の場所で別の人生を送ればいい。しかし、ファルマの瞳を見た瞬間にロクドは何も言えなくなった。ファルマの鳶色の瞳は、波一つない静かな湖面のように凪いで、ひどく澄んでいた。ロクドはファルマという魔術師の、そしてその妻の決断に敬意を表さねばならないと思った。ヨグナが顔を上げて此方を見つめた。ロクドは暫くの間ヨグナと瞳で会話をして、それからファルマに向かって頷いた。ファルマは心底安堵したように溜息を吐き、モンノと顔を見合わせて微笑んだ。それから、「ありがとう」と言った。それで救われたとでも言うように。


 三日後、荷物を纏めたロクドとヨグナは家の前に立っていた。初めてこの町に来たときと違って、通りに活気はなく、がらんとしている。多くのひとびとが、病を恐れてナトーレンを出て行ったか、そうでなければ病んで命を落としてしまったのだ。もう長いこと、元気に駆け回る子どもの姿を見ていなかった。

「ちゃんと見送りたかったのだけれど」

 モンノが済まなそうにした。ヨグナがかぶりを振った。

「気にしないで。忙しいんだもの」

「絶対に呪いの手掛かりを見つけます。病の解決法も」

 ファルマは頷いた。それからお互いにルースの加護を祈る挨拶を交わしたあと、夫婦は代わる代わるロクドとヨグナを抱擁した。

「勝手だけれど、君たちのことを実の子どものように思っていた。その気持ちはこれからもずっと変わらないよ。元気で」

 ロクドはヨグナと共に街道に入り、東へと歩き始めた。きっと、本当は気付いていた。ファルマの手がロクドの肩を一度掴み損ねたことを。歩みでたモンノが玄関先の鉢にふと躓いたことを。ロクドの目は確かにそれらを捉えていたのだが、気付かない振りをしていた。ロクドの心を守ろうとする防御機構がそうさせたのだ。

 今、ロクドの腹の中には二つの祈りがずっしりと横たわっていた。一つは、父と母のもの。一つはファルマとモンノのものだった。それらはロクドの中にしっかりと根を下ろし、身体を内側から清め、温めようとする。その熱を伝えるように、ロクドはヨグナの手をとった。一拍おいて手は握り返される。ロクドたちの他に、街道に人はない。ぎらつく太陽が二人を照らし、足元に短い影を作った。

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