第22話
ロクドたちの進む街道は、トラヴィアからナトーレンの辺りを経由して、〈瘴気の大平原〉を迂回するように大きなカーブを描いて伸びている。道幅は馬車が二台並んで通れる程度で、敷き詰められていた石は都から離れるごとに疎になり、ついには剥き出しになった。人には歩きにくいが、蹄鉄を打った輓曳動物や乗用動物にとっては此方の方が寧ろ歩き易かろう。
時折、トラヴィアに向かう行商人や荷運びの馬車とすれ違った。このような行商人や都からの神兵部隊、ロクドたちのような旅人の為に、街道沿いには幾つかの宿場がある。宿場に辿り着く度に、二人はそこで十分な休息を取った。焦って進むとろくなことがない。とはいえ、ロクドにとって逸る気持ちを抑えるのは難しいことだった。なにしろ、舗装されていない道ではどう頑張っても一日に二イールしか進むことができないのだ。強い雨や風の日には、更にペースを落とさざるを得なかった。ロクドは、自分よりも体力に劣るヨグナに対して、ときには苛立ちさえ覚えた。その度にロクドは自己嫌悪に苛まれるのだった。
ロクドたちを打ちのめす辛い知らせを耳にするのは、危惧していたよりも随分と早かった。
ある宿場町の安宿、その一階の酒場で食事をとっていたときのことだった。隣の卓で麦酒を飲んでいた二人組の会話が不意に耳に留まった。呪いのことを話していたからだ。
「おそろしいこった」
二人組のうちの一人、行商人風の男が言った。
「あっという間の話だからなあ。商いにも差し支えるよ。なんせ、商品を仕入れて、それを売りに行く間にその村が無くなっちまうくらいだ」
「アルメナ! あれは酷かった。おまえさんの故郷は彼処から近いだろう。平気なのか」
「この前妹から文が来たがね、大丈夫だそうだよ。皆は怯えているようだが」
「病といえば、つい最近もナトーレンが大変なことになったとか」
「ああ、ナトーレンはもう駄目だ」
「そうなのか? いい町だったのに。あそこはシーラやらアルメナやらと違って魔術師がいたじゃないか。それでも駄目なのか」
「夫婦だろう? ええと、名前は確か……」
耐えきれなくなったロクドは大きな音を立てて立ち上がった。
「ファルマとモンノ」
突然会話に割り込んだロクドに、男たちがぎょっとした顔をした。ロクドは構わず、鬼気迫る表情で詰め寄った。
「二人に何かあったのか? 何か知っているのか?」
男たちは顔を見合わせ、行商人風の男の方がたじろぎながら答えた。
「その二人が頑張ってたんだけど、病にやられちまって、つい先日夫婦共々おっ死んじまったらしい。街の魔術師は怖気付いて一人も来やしないし、もう誰も治療する人がいないんだとよ」
突然ロクドの周りから全ての音が遠ざかった。ロクドはよろめきながら後ずさった。男たちが何か話しかけていたが、全く耳に入らなかった。ロクドはそのまま、男たちも、ヨグナさえも置き去りにして店を飛び出した。舗装もされていない凸凹とした道を、只管に駆ける。緩やかな峠道に入った。無茶苦茶に登っているうちに、突然木々が途切れ、視界が開けた。向こうに、荒涼と広がる〈瘴気の大平原〉が見えた。自分の目で見るのは初めてだったが、その圧倒的な眺めはロクドの心に何のはたらきも齎さなかった。ここの風は、常に北から南へと吹き抜ける。だから、街道はこちら側に築かれたのだ。瘴気の吹き込む棘の森を彷徨ったことからそのことをロクドは知っていたが、今ばかりは風が反対に吹けばいいのにと思った。瘴気に中てられてしまえば、何も考えずに死んでしまえるだろう。この苦しみから逃れられるなら、あのおぞましい恐怖さえ歓迎したい気分だった。
〈大平原〉を眼下に暫くの間佇んでいると、やがて息を切らしたヨグナが現れた。随分と早かったな、と思った。ヨグナは苦しげに肩で息をして、今にもしゃがみこんでしまいそうに見えたが、そうはならなかった。ヨグナは立ったまま、何も言わずロクドを見つめていた。
「二人は特別だったんだ」
ロクドはぽつりと言った。
「特別で……大切な……」
ファルマの手の温かさを、抱擁してくれたモンノの身体の丸みを思い出して、ロクドは内側から食い荒らされるような痛みを覚えた。思わず膝を突きそうになる。村を出たときには覚えなかったような感覚だった。ロクドは深呼吸して、なんとか自分を保とうとした。それから、食いしばった歯の間から絞り出した。
「おれはナトーレンに戻る」
それを聞いて、ヨグナが初めて口を開いた。
「ロクド、それは駄目」
「じゃあ君だけメイズに向かえばいい」
「ロクド!」
ヨグナの声が耳朶を打ち、頭にかっと血が上った。ロクドは獣のような唸り声を上げて、左の拳を思い切り木に叩きつけた。木は僅かに揺れて、葉擦れの音を立てた。ロクドはもう一度拳を叩きつけた。何度も何度も叩いた。御し難い感情か迸り、全身がぶるぶると震えた。
「なんでだ! なんでおればかり! みんな奪われるんだ、おれの大事なものは!」
悲鳴にも似た叫びだった。ロクドは頭を血が出る程に掻き毟り、膝を折って地面を掴んだ。意味のない大声を上げ、額を地に叩きつける。擦り付けられたこめかみが土に汚れた。これまで失ってきたもののことを考えた。噛み締めた奥歯がぎりぎりと鳴る。堰を切ったように溢れ出した手に負えない情動の波に嬲られて、息も出来なかった。いっそこのまま気を失ってしまいたかった。
ヨグナがしゃがみこみ、ロクドの肩をきつく掴んだ。ロクドが顔を上げて、憎しみにぎらつく目でヨグナを睨んだ。ヨグナは落ち着いた声で言った。
「しっかりして」
また唸り声を上げたロクドは、ヨグナの手を振り払おうとした。
「二人が何のためにわたしたちを送り出してくれたと思うの。二人の気持ちを無駄にしないで」
静かなヨグナの声が、ロクドを木っ端微塵にしようとする荒波の隙間をくぐり抜けて、ざっくりと突き刺さった。ロクドは熱い痛みに息が止まった。自分の襟元を掴み、弱々しく呻く。ヨグナは、わたしだって辛いの、などとは言わなかった。しかし、肩に食い込む指の力と、目の縁に溢れて、今にも零れそうになっている涙が全てを伝えていた。ロクドは急速に頭が冷えていくのが分かった。自分ばかりが苦しいのだと思っていた。父や母と生き別れ、師とは袂を分かち、友とも離別し、今家族のような存在を永遠に喪った。しかし、ヨグナのほうこそ、望みもしない苛烈な運命に翻弄されてきた娘なのだった。ロクドは自分の弱さを情けなく思った。震えながら、そっとヨグナの手を肩から外す。
「ごめん」
ロクドは掠れた声で呟いた。ヨグナは首を振り、その拍子に涙が一雫零れ落ちた。それを見てまた腑を灼くような激情が腹の底から突き上げてきたが、それは先ほどのような怒りを伴うものではなく、熱く純粋な悲嘆だった。ロクドは慟哭し、ヨグナと共にその場に崩れ落ちた。ヨグナの肩に頬を擦り寄せて、ロクドは泣いた。
一時間あまり涙を流し続けたあとで、二人は宿に戻り、眠った。明日も朝早く出発しなくてはならない。メイズの村はすぐそこまで近付いていた。
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