第23話

 ネルギに似ている、というのがメイズの村の第一印象であった。実際には家の形や道の様子はネルギとは違っているのだが、小ぢんまりとした牧歌的な雰囲気がそう思わせたのかもしれない。穏やかな村だ。配置こそぴったりとは重ならないが、蜂蜜色の石造りの家々は白昼夢で垣間見たものと同じで、ロクドは密かに安堵の溜息を吐いた。とはいえ、まだ決まったわけではない。同じ名前の、全く別の土地であるという可能性はまだ消えたわけではないのだ。ロクドは、村に突然やってきた闖入者を興味ありげに遠巻きにしていた子どもの一人に近づき、この村で一番の年寄りに会わせてくれと言った。子どもは戸惑いながら頷くと、悩んだ末にヨグナの腕を選んで引っ張り、一軒の家の前まで連れていった。

 齢二百を超すというメイズの星読み婆、バイムエルムは床に伏せっていた。最早殆ど見えていないらしい目には生気がなく、皮膚は水分を失っている。萎えた身体から伸びた細い手足は枯れ木のようで、殆ど死んでいるかのように思われた。あまり光の差さない薄暗い部屋には、饐えたようなにおいが薄っすらと漂っている。

アメラと名乗る少女が、覚束ない手付きで茶を運んできた。それを受け取り、ヨグナとこっそり顔を見合わせたロクドは内心失望を禁じ得なかった。これでは、役に立つ情報を聞けるとは思えない。ところが、ロクドが挨拶をした瞬間、その予想は裏切られた。濁った瞳がロクドとヨグナを映すや否や、バイムエルムは床からむくりと起き上がった。土気色の肌には血色が戻り、瞳には鋭い輝きが現れた。それは萎れた植物の茎が水分を吸い上げ、めきめきと張りを取り戻すような急激な変化だった。

「待っておったぞ、若者」

 呆気に取られているロクドとヨグナを見つめ、バイムエルムは嗄れた、しかし意外なまでにはきはきとした声でそう言った。まるでロクドたちが訪れることを知っていたかのように。

「あなたは――いや、待っていた、とは?」

 ロクドが戸惑いを隠そうともせずに問いかけると、バイムエルムは老獪さの滲む笑みをにんまりと広げた。

「言葉通りじゃ。おぬしらが来るのはとうに分かっておったわ。五十年も前にの」

「あなたは魔術師なのですか?」

 ヨグナの問いに、老女は鼻を鳴らす。

「魔術師などではない。わしは星読みじゃ。治療師であり、まじない師でもある」

「星読み?」

「星読み――聞いたことがある。星の動きを読み解き、古から未来へ連綿と繋がる大いなる流れを知る術。まじないからかつて枝分かれした傍流の一つだと」

「傍流! 魔術こそが主流というわけじゃの。否定はせんが。星読みはもうこの国ではわしだけじゃろうて。そんなことより、聞きたいことがあって来たんじゃろ」

「かつてこの村に住んでいたはずのレドニスという男について」

 ロクドは居住まいを正した。

「そして、五百年前の大災厄について。あの〈瘴気の大平原〉がどのようにして生まれ出でたか。おれはそれが知りたい」

「初めに言っておく。わしにあらゆるものを解き明かす答えを期待しておるなら、それは間違いじゃ。わしは、レドニスと言ったか、そんな男は知らんし、〈瘴気の大平原〉が出来たときにまだわしは生まれておらんかったんじゃからな」

 ロクドはあからさまに落胆した。隣でヨグナが溜息を吐いた。若者二人が意気消沈するさまを見て、バイムエルムはからからと哄笑した。

「そう気を落とすな。手掛かりになるようなことくらいは伝えられるわい。その為に、今日までわしは生き永らえてきたんじゃろうからな。おぬしら、今まで――可笑しいとは思わなんだか」

 バイムエルムの声色が突然緊張感を帯び、ロクドとヨグナは思わず息を殺した。

「こんなにも大きな災厄が都一つを滅ぼしたというのに、誰もその詳しい理由を知らぬというのは。たった五百年前のことだというに」

 言われてみればその通りだった。幾ら記録が焼けて失われようと、事実は人から人へと語り継がれる。それが丸ごと消えてしまう筈がない。しかし、ここに至るまで誰もそのことについて、〈大平原〉の起こりについて言及することはなかった。その不自然さに誰一人として気付くことはなかったのだ。ロクドはあまりに単純な気づきに打ちのめされながらも、バイムエルムの言葉に一つの引っ掛かりを覚えた。

? 、とおっしゃいましたか」

「言ったとも。もっとも当時の都ではない。公王が住んでおったのはトラヴィアではなくファルヴィアじゃったからの。神を祀っておったという意味ではトラヴィアも都と呼ぶべきじゃったかもしれんが」

 ロクドは混乱した。

「待ってください。あなたがおっしゃることはこう聞こえる」

「〈瘴気の大平原〉はかつてのトラヴィアなのだと」

ヨグナが後を引き継いだ。バイムエルムは首肯した。

「正しい。トラヴィアこそが〈瘴気の大平原〉――今のトラヴィアは新しい街なのだ。都ファルヴィアがあった位置に、旧トラヴィアによく似せて造られた、造り直された街。神殿の風車は移築されたものじゃ。長い時間をかけてな。それから、瘴気の風を防ぐ壁も加えて造られた」

「そんな馬鹿な」

 ロクドは乾いた声で言った。

「それでは、その事実はどうして失われたんだ。そんな大掛かりなことをして、それが現在まで知れていないなど」

「おお、若者。おぬしは大きな勘違いをしておる。歴史は失われたのではない。改竄されたのだ」

 二人が息を飲み、目を見開くと、老女バイムエルムは語った。

 かつてのトラヴィアは現在同様、ルーメス教の中心地であった。トラヴィアはあるとき――何らかの理由によって――一夜にして滅びた。家々は倒壊し、トラヴィアは草木も生えず人の立ち入ることのできない荒れ地となった。川は干上がり、呪いの沼が湧き出した。瘴気は周囲の森にまで広がり、湖は毒水と化した。こうして出来た大平原の中心、メルパトス神殿だった瓦礫の山の中に大風車の八枚羽根だけが傷一つなく残っていた。風車は当時の都、ファルヴィアへと運ばれ、そこにあった小さな神殿の代わりに新しいメルパトス神殿が築かれた。かつてトラヴィアにあったものそのままに。そしてファルヴィアは名前を変えられ、現在のトラヴィアとなったのだ。

「おそらくは、神殿が後世に伝えることを禁じたのじゃろうて。何かルーメス教にとって不都合があったのだ。記録は闇に葬り去られ、真実を知るものはほんの一握りを除いて口を封じられた。かつてのファルヴィアの民も、強い忘却の魔術をかけられたろうな」

「それでは」

とロクドは言った。

「あなたはどうしてそれを知っているのですか。星が伝えたと?」

「それだけではない」

 バイムエルムは顔を歪めた。

「煙を木箱の中に閉じ込めておくことができないように、けして漏れない秘密など存在せぬ。ましてや、これだけ大きな改竄。事実は星読みから星読みへ、ひっそりと語り継がれた。記されぬ歴史を語り継ぐのは星読みの役目。それもここで途絶えるがの」

 そう言って、老いた星読みは目を細めた。そこに寂しげな響きを聞き取ったのか、ヨグナがそっと声を掛けた。

「今はもう、星読みはなさらないのですか」

「目がな。盲いておらなんだら、アメラに引き継いだんじゃがの」

 さっきの少女か。隣の家の娘で、バイムエルムの身の回りの世話をしていると言っていた。バイムエルムはロクドとヨグナに向かって言い聞かせるように重々しく言った。

「おぬしらは知らねばならぬ。見えるものが時として見えているままのものではないということを。この目が盲いてから、わしにはそれがようく分かる。しかし、どんな真実を知ったとしても、このことは忘れるでないぞ。ルースは憎むべき存在ではない。ルースは神などではない。ルースは理。単なる理にすぎないのだ。もし災いが起きるとすれば、その源はルースを神と崇める側にあろうぞ」

 ロクドは、不意にこの老女が真に全てを知っているのではないかという考えに捉われた。知っていて、ロクドたちに意味深な助言を与えているのではないかと。そして、ロクドは実際それを口に出しもした。バイムエルムは笑い、そうではないと言った。それからこう問いかけた。

「この世で最も強力で御し難く、獰猛な感情は何だと思うかえ?」

「憎悪でしょうか」

 ロクドはおどろの森で彷徨ったとき、そしてファルマとモンノの死を知ったとき、自らを襲った激しい憎しみを思い出したが、「それは違う」とバイムエルムは言った。

「愛」

 老女は皺だらけの顔を更にくしゃくしゃにした。

「憎しみはそれがどんなに苛烈であろうとも、時とともに色褪せ、いずれは消えゆくものじゃ。死して尚損なわれず、永遠に刻み付けられるものは、愛の他にない。愛には人を突き動かす力がある。それは全ての理と価値観を凌駕する強力で恐ろしい力じゃ。そのことをゆめ忘れるでないぞ」

 そう語り終えると、バイムエルムはみるみるうちに生気を失い、床に力なく横たわった。枯れた樹皮のような肌、栄養のないぱさついた白髪、干からびた手足。全てが元どおりだった。何年も寝たきりでいるような、無力な老人がそこに寝ていた。ロクドは一瞬何もかも夢だったのかもしれないと思ったが、そんなはずはないとすぐに思い直した。そこで、再び部屋に入ってきたアメラに挨拶をし、ヨグナと共に家を出ていった。

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