第24話

 久々に、穏やかな夢を見た。幼い頃の、まだロクドがネルギで暮らしていた頃の夢だった。陽だまりと、小川のせせらぎ、草と土の匂い。包み込むような父の手の温もり、母の微笑み。目を覚ますとその全ては失われていたが、ロクドは変わらず安定した心持ちだった。それは、情緒を一定に保つ魔術の修業の成果かもしれなかったが、ロクドはそうではないと思っている。幾つもの出会いと喪失が、ロクドを実際の年齢以上に成長させていた。ロクドは怒りと悲しみをヨグナにぶつけたあの日から、失ったものを数えることをやめた。

 窓からは、既に朝の柔らかな日差しが差し込んでいる。メイズの村は、やはりネルギに似ているとロクドは思う。ロクドは寝床から這い出した。家の裏に出て、井戸から汲み上げた冷たい水で顔を洗うと少し頭がしゃっきりした。勝手口から家に戻ると、丁度ヨグナが朝食を用意しているところだった。アメラが既にやってきていて、ヨグナを手伝っている。

 ロクドとヨグナがメイズの村を訪れてから、バイムエルムは一月も経たないうちに他界した。二百年を生きたその老女の終わりは、ひどくあっさりとしていた。初めて顔を合わせたときは饒舌に語り、呵呵と笑ってみせたバイムエルムだったが、結局その後は何度足を運んでもあれきり口をきくことはなかった。生き生きとした様子がまるで夢だったかのように。皺だらけの瞼を固く閉ざし静かに横たわる様子は、伝えるべきことは伝えたと言わんばかりだった。もしくはそれはロクドの方が勝手に加えた意味づけで、バイムエルムは既にこちらを認識していないようにも思えた。おそろしく急な坂を転げ落ちていくような衰弱ぶりに、ロクドは戸惑いながら延命の魔術を施したが、結果から見るならそれにあまり意味はなかったといえる。バイムエルムは死んだ。しかし、生きた年月を数えれば、十分すぎるほどに大往生と言えるだろう。

ロクドとヨグナは、暫くの間村の魔術師とその助手として、メイズに留まることを決めた。バイムエルムが伝えた事実は確かに真相へと肉薄するものではあったが、具体的な指針を示すものではなかった。ロクドはここに至って、待つことを選んだのだ。それにバイムエルムを喪った今、この村を守るまじない師はいない。ロクドは故郷にどこか似たこのメイズの村を捨て置く気にはなれなかった。

「アメラ。早いな」

「まあね」

「家の方はいいのか?」

「お母さん、行ってきていいって。早く来れば、それだけ早く教えてもらえるでしょう」

 少女の利発そうな瞳が輝きを乗せていた。アメラは星読み婆が他界してからというもの、二人の住み着いたこの家に毎日まじないを学びにやってきた。既にバイムエルムから基礎を習っていたこともあって、アメラにまじないを教えることは若いロクドにとってもそう難しいことではなかった。一つ教える度に貪欲にそれを吸収しようとするアメラは、教えがいのある生徒だったといえるだろう。彼女はけして器用ではなかったが、類い稀な熱心さとひたむきさがあった。そしてなにより、彼女はまじないが好きだった。

 三人でゆっくりと朝食をとる。ユットコと呼ばれる平たいパンのような食べものは、潰したサロ芋と小麦を挽いた粉を混ぜて焼いたもので、この辺りで食べられている主食だ。トラヴィアやナトーレンで出されるパンのようにふわふわしたものではないが、もっちりとして歯ごたえがあり、腹持ちがいい。ここに住み始めてすぐに、アメラがヨグナに作り方を教えたのだ。茹でた野菜に添えられた猪肉の煮込みは、ヨグナが昨晩から仕込んでいたもののようだった。カミツレを煎じた香茶を啜りながら、ロクドはなんとも言えないおかしみを感じた。まだ一年も経たないのに、もう何年もこうしているような気がした。向かいに座るヨグナの、皿に向けて伏せられた睫毛を見て、「こういう人生もあったかもしれない」とロクドは思った。呪いのことさえなければずっとこのまま穏やかに暮らしていけたかもしれなかったのに。そう残念に思ってから、それはおかしな考えだと気付いた。呪いがなければ、そもそもロクドはヨグナと出会うことさえなく、今自分はここにいなかったのだから。

 一人苦笑したロクドに気づき、ヨグナが不思議そうに此方を見る。ロクドは首を振った。

「おれたち、まるで年をとったみたいだなと思ってさ」

「どうしたの、突然」

「呪いのことも大きく前進した訳じゃないっていうのに、ここへ来てから、随分落ち着いちまったようじゃないか? おれだって、まだ二十歳にもならないのに」

「じきになるでしょう」

 そうか、とロクドは思った。

 六年。十三でネルギの村を出てから、いつの間にかそれだけの年月が経過していた。トラヴィアでカレドアと飲み交わした夜、振り返ったときよりも感慨深い思いがあった。長い間振り返ることもなく、ただただ一人走り続けてきたように思っていたが、今になって、その手を掴んで引き止めようとしてくれた人が何人もいたのだということにロクドは気付いた。

 カレドアによって命を救われ、魔術を手解きしてもらった。カレドアが教えてくれたことは、魔術についてだけではなかったろう。サリマトやラバロと語り合う楽しい日々もあった。見ず知らずのロクドたちを受け入れてくれた、ファルマとモンノの夫婦と過ごした生活はどうだったか。温かく煌めいたものではなかったか。

 そしてヨグナ。

 ヨグナを連れ出したことは、ロクドの未制御な情動、幼い正義感が衝動のままに起こしたことであり、平たく言ってしまえばロクドの身勝手でもあった。殺されていたかもしれないヨグナを救ったことに後悔はなかったが、他の方法があったかもしれないという思いは常に意識の奥底にあった。あのときヨグナの養父に向けた害意には、自分のどろどろとした欲望が一滴でも混じってはいなかっただろうか。そのおそろしい考えはロクドの心へと暗い影を投げ掛けていた。それでも、ヨグナはそんなロクドを肯定し、嬉しいとさえ言った。ヨグナはロクドを癒そうとし、ロクドもそれに応えた。今ヨグナの心はロクドに寄り添い、二人は静かに佇んでいた。

「二人は結婚しないの?」

 不意に少女が大きな声でそう言って、ロクドはヨグナと思わず顔を見合わせた。アメラは無邪気な表情で首を傾けている。今まさにヨグナのことを考えていた心中を見透かされたような心持ちがして、ロクドはどぎまぎとした。

「どうしてそんなことを」

「ずっと一緒にいて、こんなに仲がいいのに。不思議だわ」

「アメラ」

 ヨグナが困ったように笑った。アメラが納得いかないというような顔をして、ロクドとヨグナを見比べた。

「わたし、別に変なこと言ってないじゃない」

「ご飯を食べ終えたなら、お皿を洗うのを手伝ってくれないかしら。ロクドに昨日の続きを教えてもらうんでしょう?」

 あどけない顔立ちに僅かに不満げな表情を浮かべたアメラだったが、それ以上言い募ることはしなかった。すぐに三人分の皿を取り上げると、台所へと運んでいく。そのあとを追おうとしたヨグナを、ロクドは静かに呼び止めた。ヨグナはつと歩みを止めると、ゆっくりと振り向いた。彼女の瞳を彩っていたのは、恐れとも淋しさともつかない複雑な色だった。言葉を選ぶようにして、ロクドは口を開いた。

「ヨグナ……呪いのことに全て片がついて、そして……」

 その続きを口に出すことを、一瞬躊躇った。ナトーレンにいた頃の自分だったら、このまま黙って誤魔化してしまっただろう。またいつかそのときが来たら言えばいいと。しかし、今のロクドはそれを是としなかった。今言おうとすることは、今しか言えないことなのかもしれないのだ。ロクドは、レドニスがメイズを旅立ったときのことを思い出した。彼は後悔しただろうか。

「何もかも終わったら、ずっと二人でこんな風に暮らさないか。おれの村で」

 風に煽られたように、ヨグナの瞳が揺らいだ。ほっそりとした指先が丈長のトゥニカの裾を握り、深い皺を作る。薄い唇が困惑したように歪められた。ロクドは思い切って、ヨグナの手を掬い上げた。何か加えて言おうかと思ったが、これ以上何も添えるべき言葉が見つからなかった。せめてこの手の温かみが伝わればいい。そう思いながら、ヨグナの手を握りしめる。ロクドはこれまでヨグナの手に幾度も触れてきた。ときには癒すように、ときには励ますように。穏やかに包み込むように、そして引き留めるように力強く。二人の手の間にはいつも温もりがあった。この温もりは、かつてヨグナが、ファルマが、モンノが、これまで出会ってきた全てのひとびとがロクドにくれたものだった。真剣な眼差しを向けつづけていると、ヨグナの瞳の中に漸く理解の兆しが現れた。ヨグナが息を小さく吸い込むのが分かった。

 次にヨグナが浮かべたのは、綻ぶような笑顔だった。

 二人の手の間を、何か眩しく清らかなものが駆け抜けた。この僅かな接触を通して、お互いの魂が深く溶け合ったのがロクドには分かった。おそらく、ヨグナにも。ゆえに、二人にそれ以上の触れ合いは必要なく、それ以上の言葉は必要なかった。ロクドがそっと手を離すと、ヨグナはほんの一瞬その場に留まり、すぐに台所へと消えていった。



 次の日は朝から小雨が降り続いていた。鈍色の空から無数の水の粒が滴り落ち、窓を打っては硝子に透明な筋を作った。湿った大気と共に忍び込んだ控えめな雨音が、静かな部屋の中を満たす。アメラを早めに帰宅させ、ヨグナと二人の夕食をとったあとで、ロクドは唐突にある予感にうたれた。雲を裂いて雷が轟くようなそれは、ついに来るべきものが来た、という感覚だった。これまでのような痛みはなかった。ただ、重く締め付けられるような感覚があった。その感覚は腕の血管を辿り、鎖骨の下を通って、心臓まで続いていた。

「ヨグナ」

 ロクドは作業をやめ、次の日の食事の支度を始めようとしていたヨグナを呼んだ。手袋を外したロクドを見ると、ヨグナは一呼吸置き、頷いた。ヨグナは手を伸ばしロクドの肩に触れようとして、思い直したように手を握った。痣のある左手。

 周囲から音が消えた。光が消え、闇が消えた。二人分の呼吸と鼓動、生命の音さえ吸い込まれるような、完全な静寂がそこにあった。二人の前に、どこまでも続く淀んだ深い淵が広がり、問いかけるように渦巻いていた。覚悟を確かめるかのように。ロクドたちの背を押そうとするものは何もなく、また留めようとするものもなかった。迷いはなく、心は落ち着いていた。ロクドが足を踏み出すのと同時に、ヨグナが淵に爪先を浸したのを知った。天地が溶け合い、重力が失われる。二人はどこまでも透明な、温度のない澱みの中に沈んでいく。

 深く、深く。

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