第7話
それからロクドは間もなく潰れてしまったので、カレドアが背負って帰ることになった。しかし、十七歳である。
「潰すんじゃなかった」
息を切らしながら、カレドアが毒づいた。魔術の助けをやや借りはしたが、家に辿り着くころには疲労困憊の体だった。
「安全に気を払わなくていいぶん、死体を運ぶほうが楽だな」
「だから代わろうかと言ったのに」
「いいと言った」
「美しい師弟愛だな」
カレドアがライネルを睨んだ。
「いい弟子じゃないか」
ライネルは取り合わず、笑った。
「それに、お前と違って素直だ」
流石に二階まで運ぶのは骨だったので、二人がかりでロクドを長椅子に寝かせる。ロクドはぐっすりと眠っている。少年らしい丸みが削ぎ落とされ、近頃精悍さを覗かせ始めたその顔立ちは、しかし眠る今はまだあどけなく見えた。今日は冷えるから、何かかけてやらないと風邪を引くかもしれない。カレドアが二階から掛け布を持ってきて、弟子に掛けてやるのをライネルは見守った。
魔術師仲間と飲んだときはよく、こうやって酔い潰れた仲間を運んでやった。レドニスもライネルも酒には強いほうだったので、後片付けに回るのはいつもこの二人だった。
ふと、歌が口をついて出た。この場にふさわしくない、賛美歌だった。祭儀の席で神官らに交じって歌う、神殿つきなら誰もが知っている歌。酔うと、誰からともなく歌いだすのだった。
不意に、カレドアが小さな声で歌のあとを受けた。ライネルははっとして、カレドアのほうを見た。カレドアも歌うのをやめた。彼は穏やかな表情をしていた。カレドアがぼそりと言った。
「お前があまりに音痴だから、聞いていられなくなった」
「おい、ちょっと待て、俺は音痴なのか? 初めて言われたぞ……」
「言うと悪いと思ったんだ」
そこで、カレドアは力なく笑った。確かにライネルに向けられた、初めての笑顔だった。
「覚えてるんだな」
ライネルは呟いた。歌の旋律のことだけではなかった。そのとき、ライネルは心を決めた。
「なあ、レドニス」
カレドアがゆるりと首を傾げた。
「お前、少し酒に強くなったかな」
「……昔から変わらない」
「そうか」
ライネルは手を伸ばし、着たままだったカレドアの外套の、その胸元を留める金のブローチに触れた。カレドアは微かに眉を寄せたが、手首を掴んだあの朝のように、振り払うことはしなかった。そのあとで、ライネルはカレドアの手を掴み、勝手に指環を眺めた。傷一つない黒曜石の嵌ったその指環は、カレドアの瞳と同じだった。その中にあるのは、ただライネルを見つめ返す底知れぬ闇の欠片だった。石座も腕も記憶の中のそれよりずっと黒ずみ、傷つき、どうしようもなく古びていた。
「熱い」
眉を顰めたままカレドアが呟いた。
「手が」
「酒を飲んだからな。お前の手だって熱い」
ライネルが指を緩めると、カレドアの手はするりと抜けていった。そして、カレドアは苦々しい表情を浮かべ、一言「不愉快だ」と吐き捨てた。ライネルはまだカレドアの指環を目で追っていた。
「お前にとっては遠い過去なんだな」
ライネルはぽつりと言った。
「全てが……」
カレドアは静かに答えた。
「過去を忘れるのは得意だ」
「いいや、苦手だ。お前はそういうやつだからな」
ライネルはカレドアの返事を待たずに視線を逸らし、長椅子の背もたれを何度か叩いた。ロクドは目覚めない。ライネルは明るく言った。
「やれやれ、今夜俺の寝るところがない」
「これのベッドを使えばいい」
「そうだな……」
ライネルは少し考え、笑った。
「いや、やっぱり、今夜は自分のベッドで寝るよ」
カレドアがライネルを見る気配があった。ライネルは再び長椅子の上の少年へと目を向けた。
「お前はさ、いい弟子を持ったな。なんだか、ロクドがいればお前は大丈夫な気がするよ。俺は……」
唐突に話題を転換するライネルを、カレドアは止めはしなかった。ライネルは続けた。
「お前は、俺は過去からやってきたんだと言ったな。確かにそうなんだろう。だけど、ロクドだって多分間違っちゃいないんだ」
「どういう意味だ」
「お前の知るこの世界で、俺がどうなったかは知らない。だが、それは並行して存在する世界の一つで『そうなった』に過ぎないんだ」
ライネルは言葉を選びながら喋った。カレドアは相槌を打たない。
「無数の世界と無数のお前と無数の俺が存在していて、死んだり生き残ったりしている。
カレドアは一言、「でたらめを」と言った。お前は本当に馬鹿だなというように。ライネルはカレドアの背を軽く叩き、居間を出た。あとからカレドアがついてくる。ライネルは突き当たりまで歩くと、あっさりと寝室の扉を開けた。カレドアは止めなかった。ライネルは広くもない部屋の中ほどに進み出た。カレドアは、後手に閉めた戸の前から動かず、佇んでいた。ライネルは、殺風景な部屋に飾られた不釣り合いに豪奢なタペストリーをしばらくの間黙って眺め、そして振り向いた。
「なあ、このタペストリーは〈扉〉によく似ているな。しかし、これは理にしたがうものではない」
「ああ」
カレドアはただ肯定した。
「レドニス、俺は帰るよ」
「ああ」
「俺、どうして俺がここに来たのか、本当は最初からずっと気づいてたような気がするよ」
「そうか」
カレドアは言葉少なだった。ライネルは、体ごときちんとカレドアへと向き直った。カレドアは根が生えたように立ち尽くし、頑なに戸の前から動こうとしなかった。ライネルは静かに口を開いた。
「お前がこれから何を為そうとしているのか、俺には分からない。知りようもない。だが、遠い未来にお前が為すことがどんなことであれ——俺はお前を肯定する。俺は絶対にお前と……レドニスと友人であることを後悔しないと誓おう」
その瞬間、カレドアが息を止めた。暫くの間、彼は呼吸をすることや、瞬きをするということを忘れてしまったかのように、まったく微動だにしなかった。彼はほとんど絶望の表情を浮かべ、凍りついていた。
「安請け合いをするな」
カレドアはぽろりと零れたような調子で言った。そして、呪縛が解けたように乱れた歩調でライネルへと歩み寄り、その胸倉を掴んだ。
「俺は……どうしてお前は……」
そのまま、カレドアはなにかが喉に痞えたような顔をしていた。なにか、非常に大きな硝子の破片が喉にひっかかっていて、それを吐き出してしまいたいのだというような顔だった。吐き出してしまいたいが、吐き出したら最後、胸も喉もずたずたに引き裂かれてしまうのだというような。ライネルは、胸倉を掴むカレドアの手に再び触れようとした。次の瞬間、手は爆発的な激情を以ってライネルの胸元の布を握りしめた。
「どうして! こんな、今更になって!」
カレドアが声を張り上げ、ライネルの足が浮きあがらんばかりになった。ライネルは一言も発することができなかった。瞬きさえもできなかった。もうたくさんだとカレドアが震える声で言った。
「もうたくさんだ。もうたくさんだ。もうたくさんだ! もうやめてくれ。許してくれ。悪夢にしてもたちが悪い。なんなんだ。お前はいったいなんなんだ。どうして、こんなことが起きるんだ。消えろ、消えてくれ。俺の前から消えてくれ。夢なら覚めてくれ。こんなのは耐えられない!」
カレドアは喉の奥から血を吐き出すようにしてそう言った。終わりのほうは殆ど掠れかけていた。ライネルはただ揺さぶられるがままだった。カレドアはライネルの胸倉を掴んでいた手を離し、右の掌で目許を覆った。そして、引き絞られた悲鳴のような微かな声で、確かにこう言った。
「誰か俺を殺してくれ」
ライネルはなにも声を掛けなかった。カレドアはそのままばらばらになって、その場に崩れ落ちてしまいそうに見えた。しかし、そうはならなかった。
カレドアは少しの間俯いたまま黙りこくっていたが、すぐに目許から手を離し、ライネルを片手で突き放した。さっきまでの激情が嘘のように、乱れていた呼吸はもう整っていたが、その代わりひどく疲れて見えた。彼は乾いた声で呟いた。
「さっさと帰ってしまえ」
「ああ」
ライネルは頷いた。
「ああ、そうするさ。あいつと飲みに行く約束、してんだ」
カレドアは返事をしなかった。
「ロクドによろしく。彼には、随分助けてもらった。ありがとう、と」
ライネルはカレドアに背を向け、タペストリーに歩み寄った。ライネルがそれに触れようとした瞬間、カレドアが呼び止めた。
「ライネル」
ライネルは驚き、弾かれたようにカレドアを見た。カレドアもライネルをまっすぐ見ていた。カレドアは言った。
「お前の友人は、いずれお前と友人であったことを心の底から後悔するだろう」
ライネルは笑った。困ったように眉を寄せて。
「それでも」とライネルは言った。
ライネルはタペストリーへと触れた。次の瞬間、ライネルの姿は掻き消えていた。この狭い部屋から。この家から。どこからも。
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