第8話

「なんだか変なんですよ」

 難しげな顔をして、ロクドがぼやいた。

「何が変なんだ」

「先月の収支が。食費にこんなにかかってる。全然覚えてないんですけど」

「破綻しそうなのか?」

「いや、それはないです。収入もそれだけ……いや、それ以上に増えているので……」

 鵞ペンの後ろの部分で鼻の頭を撫ぜる。ペン先からインクが滴り落ち、羊皮紙と机の上にポタポタと垂れた。

「でも、おれ、こんなに仕事したかなあ」

「ロクド、インクが垂れている」

 わ、本当だ、とロクドが慌てて羊皮紙を持ち上げた。そして、ふとロクドは動きを止めた。弟子の不審な仕草に、カレドアも顔を顰め、手元を覗き込む。ロクドが見つめていたのは、テーブルの上の妙な形の焦げ痕だった。

「なんだろう、この焦げ痕」

「蝶の形に見えなくもないな」

「おれ、こんなところで火なんか使ったかな。先生ですか?」

「いや。誰か依頼人が煙草かなにか吸っていたかな」

「妙だなあ。おれだったらごめんなさい」

「いいや、このくらいならすぐに消える」

 カレドアは四本の指で机の上を撫ぜた。蝶の形の焦げ痕はあっさりと消えた。ロクドが感心の溜息を吐く。

「本当だ、綺麗さっぱりですね」

 しかし、それに返事をする気は起きなかった。カレドアは首を傾げた。指の上に、ちりちりとした痛みがあった。カレドアは指を擦ってみたが、それはなかなか消えてゆかない、妙に気にかかる痛みだった。カレドアはその場からゆっくりと離れ、椅子へと腰掛けた。ロクドは再び羊皮紙を広げて書き始めたが、カレドアは自分の指をいつまでも眺めていた。



〈泡沫の夢〉・おわり

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アイオライトの心臓 識島果 @breakact

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