第3話
パチパチという穏やかな音に呼び起こされるように、意識が浮上した。薄く開いた瞼の向こうで、焚き火が暖かそうに燃えている。ロクドは上半身を無理やり持ち上げた。知らぬ間に身体に被せられていた布がはらりと落ちて、ロクドは瞬きをした。軽く頭を揺らす。身体は目覚めたが、頭の方はふわふわとして、まだ起きるのを拒んでいる。
「随分と長い間眠っていた」
不意に自分のものではない誰かの声が耳に飛び込んできて、ロクドははっと目を上げた。焚き火の向こうに、男が腰を下ろしていた。
「死んでいたところだったぞ」
男がまた喋った。高くもなく低くもないが、不思議な深みのある声だった。ネルギの村の男たちとは違う、荒削りでない穏やかさがあった。男は小振りな鍋を火にかけて、中身をかき回しているところだった。
「あなたは?」
と尋ねてから、ロクドは自分の喉が思いの外滑らかに声を発したことに驚いた。もう随分と人と喋っていない気がした。それに、随分と自分の身体が軽くなっていることに今更気付いた。
「人にものを尋ねるときは、まず自分のことを明かしてからにするべきだよ。だが、それは後でにしよう。何か腹に入れたほうがいい」
そう言って、男は鍋の中身を木の椀によそい、匙とともにロクドに差し出した。何も言えず、黙って両手で受け取る。器ごしに熱がじんわりと伝わり、思わず溜息を吐いた。椀の中には穀物を乳で煮た、どろどろした粥のようなものが入っていた。男の顔を見ると、男は早く食えとばかりに手を揺らす。背中を押されるようにして、ロクドは匙を粥の中に突っ込んだ。一匙掬って、口に入れる。例えようもないほどに、おいしかった。もう一匙、もう二匙と、ロクドは粥を口に運んだ。飲み込む度に、少しずつ冷え切っていた臓腑が温まっていく。胸の奥から熱いものが込み上げてきて、ロクドは顔を歪めた。ほろりと涙が零れた。一度零れてしまった涙は、もう止まらなかった。後から後から溢れて、頰を濡らす。鳩尾のあたりが痙攣し、えずきそうになったが、ロクドは食べるのをやめなかった。涙を流すのは、ネルギの村で両親の会話を聞いたあの夜以来初めてのことだった。しゃくり上げながら、嗚咽を上げながら、ロクドは粥を食べた。
やがて大きくない鍋が空になり、ロクドが泣き止んだ頃、男は、
「さて」
と口火を切った。男は目にかかりそうな黒髪を鬱陶しげに払いのけて、ロクドを見つめた。今はロクドも相手を観察する冷静さを取り戻しつつあった。一見して若く見えるが、身に纏う雰囲気からして此方が思うよりも幾らか年嵩だろう。立て襟の上衣に腰を留める帯革、ブレーと脛を保護する革脚絆という質素な衣服だが、両肩を隠すように羽織った外套、それを胸元で留めるブローチは金の透かし彫りで、繊細な意匠が凝らされている。先程椀を渡した右手には、旅人には似つかわしくない黒曜石の大振りな指輪が嵌っていた。都の人間だろうか。荷物が多くないから、行商人ではない。無用心にも一人で森を歩くくらいだから腕っ節が強いのかもしれないが、ざっと見たところそうは見えなかった。必要な筋肉はそれなりについているのだろうが、ロクドの知る村の男たちのような力強くずんぐりとした体格でなく、寧ろすらりとした体躯をしている。
色々と思考を巡らせていると、男が苦笑した。
「きみは頭がいい子どものようだな。会ったばかりの私をもう値踏みしているね」
「値踏みだなんて、そんな」
ロクドは慌てて否定し、顔を赤くした。不躾にじろじろと見つめてしまっていた。
「いいさ、そのくらいでなくては生きにくいだろう。特に、きみのような子どもは」
男は意味深に呟いた。目を細めて、見透かすようにロクドを見つめる。ロクドは落ち着かなくなった。男の瞳は、彼の持つ指輪と同じ黒曜石だった。何もかもを吸い込みそうな漆黒の双眸に、ロクドは不意にあのおぞましい闇を連想して身震いした。
「きみには聞きたいことがたくさんあるようだ。私もきみに尋ねなくてはならないことがある。だが、その前にまずお互いの名前を知る必要があるな」
男はカレドアと名乗った。同じようにロクドが自分の名を告げると、ロクド、とカレドアは確かめるように口の中で呟いた。その響きは何故かロクドの耳には異国の言語のように聞こえ、まるで自分のものではないような奇妙さを覚えた。落ち着かない感覚を振り払うように、ロクドは尋ねた。
「あなたはどうしてここに?」
「それは私がきみに聞きたいことだがね」
カレドアは微笑んだ。
「トラヴィアに帰るところだった。ナバリの村で必要なものを調達してね。その途中で殆ど死体のきみを見つけた」
トラヴィアはドルメア公国の首都だ。ネルギの村から北西、森を挟んでナバリとは反対方向にある。それでは、自分はやはり道を大きく逸れて、思ったよりも西の方角に来てしまったのだ。ロクドは唇を噛んだ。
「ぼく、ナバリに向かうところだったんです。途中で、闇のすがたをした、無数の恐ろしいものに襲われて」
鮮烈な恐怖が蘇り、ロクドは口を噤んだ。
「毎年、一人か二人は犠牲になるんだが」
眉を微かに寄せ、カレドアが言った。
「おそらく、瘴気の見せた幻影だろう。ナバリに向かうあたりは、この時期ちょうど瘴気を乗せた風の通り道になっている。〈大平原〉から吹き込むんだ。瘴気は目や口から身体の中に入り込んで、五感を狂わせ、恐れを増幅させる。瘴気の霧にまかれたものは、普通高所から転落したり沼に沈んだりなんだりで死体で発見されるものだが、きみ、運がよかったな」
ロクドは俯いた。幻覚とは思えないほど生々しい現実味があった。今も、息の詰まりそうな闇の重み、ぞっとするような冷ややかな感触をありありと思い出すことができた。カレドアは何も言わずにロクドの様子を観察しているようだった。ふと炎の勢いが弱まっていることに気付いたのか、木切れをいくつか放り込む。そして、出し抜けに口を開いた。
「きみは、呪いを受けているな」
ロクドは弾かれたように顔を上げた。痣に覆われた左腕を、右手で掴む。カレドアは此方をじっと見つめていた。
「気付かずにいる方が難しい。強力な呪いだ」
二人の間でまた炎が大きく爆ぜて、燃えている木切れの一つが崩れた。暫く沈黙が流れた。カレドアは特別話を促したりはしなかったが、ロクドはぽつぽつと語り始めた。自分の生まれのこと。老ザハンの話。父と母のこと。
おおむね全てを語り終えると、ロクドはカレドアが何か言うのを待った。カレドアは黙って目を瞑っていた。焚き火の明かりがカレドアの白皙の顔に反射してちらちらと踊り、薄い瞼を透かそうとしていた。眉間には深い皺が刻まれ、目の下には年月を重ねた深い疲れがあった。やはりこの男は思ったよりも若くはないようだ、とロクドはカレドアの推定年齢をまた少し上向きに修正した。溜息のあとで、カレドアの目が開いた。
「私にはそれを解くことはできない。私に言えるのは、それを解くことは非常に難しいだろうということだけだ」
カレドアの口調はいっそ冷淡だった。感情を極力抑えているようにも見えた――と考えて、ロクドは自分の考えに首を傾げた。カレドアに抑えなくてはならない感情なんてあるはずもないのに、どうして自分はそう思ったのだろう。
「それでも、こうして助かった以上、きみは方法を探すつもりなんだろう。勿論それはきみの自由だ」
カレドアの黒曜石の瞳は、炎の明かりを全く反射しない。彼の瞳は全てを吸収し、何一つ逃しはしないようだった。
「きみはナバリの村に向かうつもりだったようだが、それはやめたほうがいい。君は君が思うよりも随分西の方にいるし、ここからナバリに向かうにはまた瘴気の風を浴びなくてはならない。森を抜けるなら、寧ろ私とトラヴィア方面に向かうのが得策だ」
森を抜けてから、多少歩く羽目にはなるがね、とカレドアが付け加える。
「ついていってもいいんですか」
「勝手にすればいい」
カレドアが肩を竦めた。
「それについて申し訳なく思うなら、きみはまず、私が既に丸一日の間足止めを食っているということを考慮しなくてはならないな。まあ、きみが死んだら助け損だから、せいぜい賢く私を利用してくれ」
カレドアが立ち上がり、鍋を片付け、寝る仕度を始めた。そういえば、今は夜だというのに、カレドアと話している間はあの染み入るような冷えや忍び寄る闇の足音に全く気が付かなかった。ここまでは、カレドアの言う瘴気の風が届かないからだろうか? ロクドは、焚き火がまた一つ木っ端を弾き飛ばすのを見て、自分が意識を失う前に見たものを突然に思い出した。
「そういえば、どうやってぼくを助けたんですか?」
カレドアが手を止めて此方を見た。質問の意味を考えるかのように二回大きな瞬きをして、ああ、と言った。
「こう見えて、私は魔術師でね」
カレドアは微笑んだ。
「身体の調子もましになっているだろう。治癒魔術は不得手だから自信がなかったが。君の村には魔術師がいなかったのか?」
ロクドはかつて老ザハンが教えてくれた、病を遠ざけるまじないを思い出した。
「まじないとは違うんですか?」
「おおもとを遡れば同じものだよ。どちらも祈祷や占いから発展したものだし、明確な区分はない。土と水の流れを操り、家畜や作物を丈夫にすることに重きを置いたのがまじないだが、魔術はより多種多様な方面へと体系立てて構築されていった」
「魔術ではどんなことができるんですか?」
「まあ、私の力では大したことはできないが、知っているとほんの少し便利だね。ロクド、話の続きは明日にしよう。きみももう少し寝たほうがいい」
カレドアの魔術が「ほんの少し便利」という程度のものではないことは、すぐに分かった。まず、カレドアは火打ち石を使うことなく自在に炎を出してみせることができた。
「自在にというのは少し語弊があるな」
カレドアは眉を顰めた。
「基本的には、私が作り出せるのは火種だけだ。火を維持するには火床が要るし、薪も要る。何もないところに延々火を燃やし続けるなんていう芸当は、魔力と気力が無尽蔵にない限りとても無理だね。狼を追い払ったときのような大きな炎は、作れてもほんの一瞬だ」
それでもロクドにとっては夢のような話だった。ロクドは暇さえあれば魔術について質問をし、実際に見せてくれるようせがんだ。
「魔術で一番難しいのは、維持し続けるということなんだよ。例えば、見ていてごらん」
カレドアは鞄から鞘付きのナイフを取り出すと、何事か一言呟いた。すると、ロクドが見ている前でナイフがふわりと浮き上がった。ナイフは、目に見えない台の上に乗せられでもしているように、空中に完全に固定されている。
「すごい」
とロクドが感嘆の言葉を口にした瞬間、ナイフが耐えきれぬというようにぶるぶると震え、力を失って地面に落ちた。
「維持するということは、その間ずっと力を加え続けるということだ。それも、完全に均一な力を」
カレドアの声色は変わらず落ち着いていたが、額には微かに汗が滲んでいた。
「これは相当の熟練と気力を要する。しかし、此方は簡単だ」
カレドアはナイフを鞘から引き抜き、掌に乗せると、今度は先程よりも短い呪文を口にした。次の瞬間、ナイフは猛烈な速さで一直線に飛んでいき、歯切れの良い音を立ててブナの木肌に深々と突き刺さった。全ては、ロクドが口をぽっかりと開けている間に終わっていた。
「魔術の基本は、きっかけを与えることだ。きっかけと方向性。あとはその応用にすぎない。世の中ではあたかも万能の術のように言われてはいるがね」
それからは、危険を感じることなく順調に進んだ。夜は相変わらず足元も見えない暗闇が二人を包んだが、震えながら暖をとったあの恐ろしい棘の森とはまったく別の場所のようにロクドは感じた。ロクドは、一人でいたときよりもかえって自分の無力さを思い知らされたような気がした。そうだ、とロクドは思った。ロクドは何の力もない小さな子どもだ。力が必要なのだ。二日をかけて歩き、森を抜ける頃には既にロクドの心は決まっていた。
「ぼくに魔術を教えてくれませんか」
カレドアの表情が曇った。
「ロクド、初めて目にした魔術に惹かれるのは分かる。しかし、きみが私から魔術を学んだところでその呪いを解く方法は見つからないだろう」
ロクドは首を振った。
「生きていくために魔術を学びたいんです。どのみち、ぼくはこれから一人きりで生きていかなくちゃならない。今のぼくには森を一人で抜ける力すらない」
「私は弟子はとらないよ」
カレドアは頑なだったが、ロクドは諦めなかった。死の瀬戸際、暗闇の中で見た炎の鷹が脳裏に焼きついていた。これを逃したらもう機会はない。ロクドは必死に食い下がった。
「お願いします、お金は払えませんけど、何か手伝えることがあるなら手伝います。少しでいいんです、基本的なことだけ」
それからカレドアは散々渋ったが、ロクドのあまりのしつこさに、最終的にはうんざりしたように溜息を吐いて了承した。
「きみ、思ったよりも図太いんだな」
頭痛を堪えるようにこめかみを押さえ、じろりと此方を睨む。
「トラヴィアに私の家がある。きみ一人増えても問題ないくらいの広さはあるだろう」
面倒な拾い物をしたものだ、とカレドアが零すのを聞きながら、しかしロクドは自分の行く末に希望を見出していた。これで、自分は安心して都に留まることができる。呪いに関する情報を集めるのに都ほど適したところはない。全身に力が漲るのを感じ、ロクドの足取りは軽くなったのだった。
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