第2話

 初めはとにかく少しでも早く先に進もうと、全身くたくたになって足には豆ができるほど歩いたが、それは賢い方法ではないとすぐに分かった。森の中で疲れ切ってしまっては、危険だ。己を過信せず、常に余力を残しながら、計算して進むことが重要だった。ロクドは、ネルギから一番近いナバリの村に向かうつもりでいたし、老ザハンもそれがよかろうと言った。森を越えてしまえば、呪いの力は及ばない。ロクドは地図も方角を示す便利な石も持ってはいなかったが、それでも自分がおおむね正しい道を進んでいる自信があった。元より、森の中で地図など通用しない。ネルギの村は古くから殆ど他の町や村との交流はなく、この深い森を抜けてまでやってくる行商人も稀だったために、森を歩くための道は開かれていなかった。かつて、都トラヴィアと三つの村を繋ぐ道が作られようとしたこともあったそうだが、道は使われなければ閉じてしまう。だから、ロクドは昼の間は太陽の動きで、夜になれば星の位置で進むべき方角を知った。方角については問題ない。食糧も、父と母がどっさり持たせてくれたので――堅く焼いたパンや山羊の乳から作ったチーズ、乾燥させた兎の肉など――大切に食べればまだ暫くは心配なさそうだった。また、ロクドは清潔な湧き水を簡単に探すこつを知っていた。こうして、老ザハンが教えてくれたことが随所で役に立った。転んで擦りむいた膝はツユクサの葉を揉んだ汁で手際よく手当てすることができたし、危険な植物は慎重に避けて歩くことができた。

 始まったばかりのロクドの旅は予想よりも順調であるようにも思えたが、何よりも恐ろしいのはやはり夜だった。日が暮れ始めると、ロクドは火打ち石と、昼の間に集めておいた乾燥した枝きれとを使って急いで火を起こした。小さくとも炎と光があることはロクドの心を励ましたが、火の側にいてもずっしりと重たい闇は容赦なくロクドの全身を包み、肺を息苦しく押し潰そうとした。ロクドは、静けさの中に無数の獰猛な息遣いと唸り、なにものかが茂みを揺らす音を聞いた。その上、秋が近づいているとはいえ、夏だというのに夜の森はやたらに底冷えがして、じわりじわりとロクドから体力と気力を削り取っていった。眠るときでもロクドは炎が消えてしまわないように注意を払い、二時間ごとに目を覚まさなくてはならなかった。そのくせ、不安な夜が明けて朝が来ると、きまって夜の獣たちの気配がさっぱりと消えているのにロクドは首を傾げた。姿の見えない獣たちは、夜中しか活動しないようだった。それならば、太陽が木々を透かして地面を照らしている安全な時間帯にしっかり睡眠をとるべきではないか、という考えも一瞬浮かんだが、どのみち夜の暗闇では先に進めない。真っ黒に塗りつぶされたようなあの闇の中を、怯えながら一歩一歩進むことを考えると、ロクドは心臓を冷たい手で逆撫でされるような気がした。結局のところ、ロクドはろくに休息を取ることもできないまま、体力の続く限りひたすらに歩き続けるしかないのだった。

 四日目の夜、全身の毛が逆立つような悪寒を覚えたロクドは、浅い眠りから目を覚ました。見ると炎は幾分か弱まり、燻る程度になっていた。ロクドは身を起こすと、乾いた木切れを足して火を大きくした。火を絶やしてはならない。ロクドは確信した。獣の気配が、今までになく近付いていた。すぐ傍で、四つ足の獣が小枝を踏む音がして、葉が擦れ合う音がした。ロクドは荒くなりそうな呼吸を努めて緩やかにした。耳元に生暖かい獣の息がかかったような気がして、ロクドは振り向いた。しかし、そこにはどこまでも濃厚な闇が広がっているだけだった。ロクドは覚悟を決めた。よく樹脂が染み込んで乾燥したマツの枝の先端に小枝を束状に固定したものを、震えそうな手で取り上げる。このようなときの為に、昼の間に作っておいた松明。

 ロクドは松明に火を付けると、思い切って高々と掲げ、

「獣め!」

と威嚇の叫び声を上げた。なにものかが唸り声を上げ、一層大きく茂みを揺らした。ロクドの心臓は早鐘のように打っていたが、耳に飛び込んできた自分自身の声に鼓舞され、更に大声で続けた。

「立ち去れ!」

 力を誇示するように、松明を振りかざす。獣が警戒して後退りするような気配があった。ロクドががむしゃらに炎を振り回すと、気圧された獣はここを離れることに決めたようだった。少しずつ、息遣いが遠ざかっていく。やがて、そのおそろしい気配が感じられなくなった頃には、ロクドは全身にびっしょりと汗をかいていた。ロクドは、肩で息をしながらゆっくりと腕を下ろした。がっくりとその場に座り込んでしまいそうになるが、踏みとどまる。思えば、そこで座ってしまえばよかったのだ。そして、松明の火を消して、もう一度焚き火の面倒をみてから、朝まで眠り込んでしまえばよかったのだ。しかし、このときのロクドは冷静ではなかった。たったひとりで獣を追い払ったのだという興奮と異様な高揚感が、ロクドを突き動かしていた。ロクドは、汗で滑りそうになる松明を掴み直した。炎は、まだあかあかと燃えていた。ロクドは乾燥してひび割れそうな唇を舌で湿らせると、真っ暗な闇の広がる茂みの向こうへ、足を踏み出した。

 そこは完全な闇だった。息をするのも憚られそうな、重たく、濃密な暗闇。それは村では経験したことのないものだった。村では、日が落ちてひとびとが寝静まった夜中でも、闇を意識することはなかった。いつでも微かな光が屋根や木々の輪郭を優しく浮かび上がらせ、また静寂の中でも途絶えることのない生きた人の気配がロクドを安心させた。まるで一人一人の生命が、それと分からないくらい仄かに発光して、ロクドを柔らかく照らしているかのように。しかし、この闇は違う。どこまでも黒く、暗く、墨を流しこんだような底なしのつめたさがあった。あとから思い返してみれば、奇妙なことにその夜は、月の光も星の光もなかったのだ。背の高い木々の梢のあたりで禍々しい何かがもやとなって、光を阻んでいるようだった。松明を翳してみても、足元を僅かに照らすことしかできない。しかし、ロクドは引き返さなかった。獣は、まだ近くをうろついて、様子を伺っているはずだ。追い払わなくてはならない。もっと遠くへ、絶対に安全だと判断できる距離まで。ロクドは、時折後ろを振り向いて、焚き火の明かりがちゃんと見えるのを確認した。藪を掻き分け、草を踏み分けロクドは進む。獣の気配は未だ感じられなかった。ロクドは眉を顰めた。そんなはずはない。そう遠くに行ったはずがないのだ。強い違和感が焦燥感に似て、ロクドの心を追い立てた。大きな茂みを抜け、松明の明かりで足元を照らしたロクドは、いきなり目に飛び込んできたものに息が止まりそうになった。

 大きな狼が横たわっていた。

 ただし、それは動かなかった。死んでいるのだ、とロクドは悟った。松明の炎を消さないよう用心しながらしゃがみ込み、ロクドは恐る恐る狼の体に触れた。まだ微かな温もりが残ってはいたが、確かにそれは屍体だった。ロクドは緊張を解きほぐすように、細く長い溜息を吐いた。そして立ち上がろうとして、不意に恐ろしい事実に思い当たった。

 。今さっき、死んだのだ。ということは、これを死に追いやったなにかが、すぐ側にいるということではないか。

 心臓が縮み上がり、ロクドは後ずさりした。奥歯がかちかちと鳴るのを止められず、まだ燃えているはずの焚き火を素早く振り返る。そこには、暗闇しかなかった。ぽっかりと世界からくり抜かれたような深い闇が、ただロクドを見つめ返していた。ロクドは戦慄した。

 そのとき、ざわり、と闇が沸き立った。

 ロクドは気付いた。ロクドを怯えさせていたこの闇は生きているのだと。恐ろしいのは獣でも、夜でもなかった。ロクドがただの暗闇だと思っていたそれは、無数のちいさな存在の密集体であった。みっしりと寄り合って月と星の光を遮りながら、それらは夜に擬態しておぞましく蠢き、すぐそばでずっとロクドを見ていた。嫌な風が一陣吹き抜け、掲げていた松明の炎が掻き消えた。手が汗で滑って、マツの枝を取り落とした。それが合図だった。恐ろしい漆黒の闇が、渦巻き、逆巻き、奔流となってロクドに襲いかかった。人ならざる何ものかの怨嗟の囁きが、何重にも全身を取り巻いて、一呑みにしようとする。ぞっとするような恐怖と焦燥が腑をつめたく灼いて、腹の底がぞわりと浮き上がるような気がした。ロクドは落とした松明をそのままに、無我夢中で逃げ出した。あまりの恐ろしさに、悲鳴など上げられなかった。元の場所に戻ることさえ考えられなかった。とにかくこの闇から逃れなくてはならないと、半狂乱になってロクドは考えた。瞬きを忘れた目の粘膜が、乾燥してひりつく。どこもかしこも闇だ。凶暴な牙が、鉤爪が、すぐ後ろでロクドを捉え損ね、空を切る。膝ががくがくと震えて足がもつれ、木の根に何度も躓いたが、構っていられなかった。どんなに速く走っても、闇のおぞましいあぎとが耳元で打ち鳴らされる音はいつまでも聞こえ続けた。もっと速く。ロクドは必死に走って、走って、走り続けた。どこまでも。そして、自分がどこを走っているのかも分からなくなり、すべての荷物をすっかり置き去りにしてきてしまったことに気付いた頃になって、漸く恐ろしい夜は明けた。



 まず深刻となったのは、飢えだった。一切合切を置き去りにしてきてしまったので、ロクドは食糧の全てを自分で調達しなくてはならなかった。幸い新しい湧き水を見つけ、また持てる知識から毒草や毒茸を避けることはできたが、ロクドは常に腹を空かせていた。兎や栗鼠を仕留めようにも、小さなナイフさえないのだ。ロクドは無毒な野草を千切って噛み、木の根を齧っては襲い来る猛烈な飢餓感を紛らわせた。

 次に、火。火をつけるための火打石も、獣の脂の入った小さな瓶も、ロクドはもう持っていなかった。それでも夜はやってくるので、なるべく大きな木の幹に寄り添うようにして浅い睡眠を取った。空腹と恐れと骨の髄まで染み込むような冷えが、やはりロクドを頻繁に目覚めさせた。そんなとき、ロクドは母から贈られた石を握りしめて、朝が来るのを待った。ロクドが失わなかった唯一のものだった。つめたい夜の闇の中でも、石だけは不思議と昼の温もりを失わなかった。内側から滲み出すように、仄かに発光しているような気さえした。この石のお蔭で、ロクドは気の狂いそうな恐怖をやり過ごすことができた。この間、幸運にも獣や、あの恐ろしい闇の気配をすぐそばに感じることはなかった。

 ところが何日歩き回っても、ロクドは自分の位置を特定することができなかった。大雨が続いたのも、ロクドにとっては悲惨なことだった。厚い雲越しでも、太陽はぼんやりと大体の方角を教えてくれたが、月や星たちはそうはいかなかった。また、進めば進むほどに木々はより高く、また密集し、枝葉が覆い被さるように空への視線を遮った。ロクドは、自分が同じ場所をひたすらにぐるぐると堂々巡りしているような錯覚にとらわれた。そのうえ、無防備に雨に打たれることはロクドの体力を着実に奪った。父と母が今の自分の姿を見たらどう思うだろうか、と考えて、ロクドは首を振った。ロクドがどんな運命を辿ろうが、どのみち二人にそれを知る術はないのだ。だから、老ザハンは「死んだものと思え」と言ったのだ。つまりもうロクドは、生きていても死んでいても、何ら変わりない人間なのだった。

 雨に打たれたことと、ろくに食事も睡眠もとれなかったことが祟り、ロクドは酷い熱を出した。殆ど初めてのことで、誰かに助けを求めたかったが、当然ロクドは一人でそれをやり過ごさなくてはならなかった。熱さましによい草の種類を幾つか知っていたが、それを調達できなければ何の意味もない。ロクドは朦朧とする意識の中で、這いずっては泥水を啜り、少量の胃液を吐き出した。地面が激しく波打ち、ロクドを揺さぶった。必死になって母の首飾りを握り締め、救いを求めて神に縋ったが、石は僅かに心を落ち着かせる以上の役割は果たさなかった。

 三日が経って、漸く熱が下がった頃には、ロクドの心は殆ど死んだも同然だった。憎しみがロクドの肉体を生かしていた。ロクドは、かつて共に野を駆け回り、今もネルギの村で母の腕に抱かれているはずの友人たちのことを考え、猛烈に妬んだ。彼らのために、自分はこんなにも恐ろしい目に遭い、人知れず死んでいこうとしている。そう思うと、喉元に灼けつくような耐え難い感情が襲い、ロクドに胸を掻きむしらせた。燃え上がる憎悪と嫉妬に呼応するように、呪いの痣もまたじくじくと疼き始めた。ロクドは自分の左腕を切り落としてやりたかった。この腕のせいだ。この腕さえなければ、自分は今も母のスープを飲み、父に話をせがみ、温かい寝床でぐっすりと眠っていた。

 それからまた丸一日当てもなくふらふらと彷徨ったロクドだったが、とうとう精魂尽き果て、地に身を横たえた。その夜は久々によく晴れて、枝の間から微かに漏れ出した月の光がロクドを照らしていた。小さな虫の何匹かが、鼻先で柔らかい土の中に潜っていくのを、ロクドは見た。自分もこれらと一緒になるのだ、と思った。ここで死んで、ゆっくりと崩壊し、分解されていく。そして、何も考えなくていい一塊の土になるのだ。それもいいだろうと思った。もとより、死ぬために生まれてきた命なのだから。遠くから、久しく感じていなかった獣の気配が近寄ってきた。狼だ。今、ロクドが生きることを諦めたまさにこの瞬間現れたことが、妙に可笑しかった。かつて同じ狼の屍体を見つけたのが、随分と昔のことのようだった。飢えた狼が、いっそ緩慢な程の慎重さでロクドの様子を伺っているのが、朦朧とする意識の中でも分かる。ロクドはゆっくりと瞼を下ろした。獰猛な獣の生暖かい吐息が、ロクドの襟足を揺らした。

 次の瞬間、予想だにしないことが起こった。

 風を切るような鋭い音と、頰を焼く激しい熱を感じ、思わず目を開く。狼が悲鳴を上げ、逃げ去っていく。見開いた眼に、鮮やかな光が焼き付いた。闇の中に煌々と燃え上がる炎の鷹。それが、意識を手放す前にロクドの瞳が映した最後の像だった。

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