第8話

 ロクドが三回目の欠伸を噛み殺したのを見咎めて、カレドアは眉を顰め、香水薄荷の香茶を啜った。ロクドは慌てて皿に目を落とし、卵をつつき回すことに集中している振りをした。今朝気がついたときには、ロクドは寝台の上だった。窓からは既に明るい陽射しが燦々と差し込んで、布団の上に陽だまりを作っていたし、大通りからの賑やかな呼び込みが聞こえていた。昨晩のことは夢だったのだろうか。夢にしては、奇妙な程に現実味があった。それに、あの少女――ヨグナ。ロクドは心臓がどくどくと音を立て始めたのを感じた。考え込むロクドの皿の上で、卵が崩れていく。手袋の端をめくって左腕の様子を確認すると、痣は昨日までとまったく変わりない状態でそこにあった。

「疲れているみたいだな」

 上の空で皿の上のものをぐちゃぐちゃにしているロクドを見かねたように、カップを置いたカレドアが声を掛けた。寝癖が気になるのか頻りに後頭部を押さえつけている。

「顔色がよくない。眠れなかったのか?」

「いえ、そういうわけでは」

「仕事に差し支えるようなら今日一日くらい休んでも構わないよ。後から熱でも出されたらそっちの方が困る」

「本当に大丈夫なんです。ただ……昨晩、痣が痛んで」

「痣が?」

 目を眇めたカレドアに、ロクドは「夢の中での話です」と急いで付け加えた。

「多分寝ぼけていただけで、心配ないと思うんですけど。今は全然変わりないし」

「しかし呪いのことだからな、警戒しておいて損はないだろう。次痛んだら言ってくれ。琥珀と蜂蜜の痛み止めを試してみよう……効くかは分からんが。しかし、夢の中で痛みを感じるものかな?」

 首を傾げるカレドアに曖昧に笑みを返して、ロクドは皿を片付けようと立ち上がった。探るような視線が付いてくる。ヨグナのことを結局話さなかったのは、昨晩の出来事を自分の胸のうちだけに留めておきたいような気がしたからだ。あれは、きっと夢じゃない。左腕が、ヨグナの指の感触を覚えている。



 上等のシャツに身を包んだ恰幅のいい男が、手に持った鞄を一旦置いて、天井からぶら下がって揺れている鬼灯を気味悪げに払い除けた。もう片方の手では、息子である少年の右手を引いている。少年は恐る恐るといったように足を踏み出して、大きな花瓶のような形をした魔術道具の一つに躓きかけていた。彼は目が見えないのだ。

「なんだ、この部屋は」

 男が小声でぶつくさと言った。

「どうも済みませんね、散らかってまして。此方へどうぞ」

 カレドアがさっさと肘掛け椅子に腰掛けて、にこやかに向かいの長椅子を示す。ロクドはクッションやら本やらを無造作に脇へよけて客人の座る場所を作り、カレドアの隣の椅子に腰掛けた。埃っぽい長椅子と全く直っていないカレドアの寝癖とを見比べて、男が不審げにロクドを見たが、ロクドは平然と二人が座るのを待った。カレドアのやり方にはもう慣れている。男は戸惑いながら長椅子に息子を座らせると、重たげな音を立てて自分も腰掛けた。男は咳払いをした。少年は俯いていた。

「この子はね、いい絵を描くんですよ」

 男は唐突にそう始めた。徐に革の鞄から象牙板を取り出し、カレドアに見せる。それは、おそろしく繊細な細密画ミニアチュールだった。カレドアが感嘆の声を上げた。

「ほう」

 ロクドも横から覗き込む。男は更に、羊皮紙を何枚か取り出した。此方は木炭で描かれた巧みな素描だった。どちらも絵だけ見れば、老齢の熟練した画家が描いたものだと言われても信じてしまいそうなほどの鮮やかな筆致である。これをこの、痩せっぽちの少年が? ロクドは少年と絵とを見比べた。少年はまだ十二歳くらいに見えた。

「私は絵はさっぱりだが、トラヴィアでもここまでの絵が描ける画家はそういないでしょうね」

 カレドアの賛辞を聞いて、男は自分のことのように誇らしげに胸を反らせた。反対に少年は背を丸めて縮こまる。

「そうでしょう、そうでしょう。才能があるんです。そのうちに、立派な宮廷画家になれる」

「でも、目が見えなくなってしまったんじゃあ絵は描けませんな」

「そうなんだ」

 男が眦を吊り上げ、苦み走った表情を浮かべた。

「アルダータの工房に弟子入りさせてまだ一年も経たないっていうのに、突然目が見えなくなったなんて言い出しまして。大切な時期なのに冗談じゃない」

「なるほど。しかし、工房に弟子入りするにはちょっと早すぎやしませんか? まだ随分と小さいように見える」

「そんなことはない。いいですか、こういうことは早ければ早いほどいいんです。それで、困り切ってガーダルとかいう病が専門の魔術師にかかったんですがね、あのいんちき魔術師、難しい病で治せないとか言うんですよ」

「はあ、それでうちに?」

「紹介されましてね」

 男が顰めっ面のまま懐に手を突っ込み、折り畳まれた紙切れを机の上に乗せた。質のよい犢皮紙ヴェラムに薄いパピルスの封緘紙、それを留めるカミツレを模った封蝋印。ロクドはこの紋章がガーダルの家のドアに刻まれていたことを思い出した。カレドアは封蝋を無造作に剥がすと、中身を一瞥して、つまらなそうに脇に避けた。それからゆったりと足を組みかえ、ここに来てからじっと押し黙っている少年に顔を向けた。

「いつからだね、目が見えなくなったのは」

 少年がびくりとして更に身を縮めた。出来ることなら薄い紙切れのように自分の身体を小さく折り畳んで、ここから消えてしまいたいというように。

「十日程前からです」

 蚊の鳴くような声で、のろのろと少年は答えた。まだ声変わりもしていない。

「それは不便だったろうに。何か予兆みたいなものはあったかい」

「ええと……分かりません」

「分かりませんじゃあないだろう、お前は。治す気があるのか、ええ?」

「まあまあ」

 カレドアが穏やかに取りなした。ロクドと男が見ている前で、カレドアは続けて柔らかい口調で二、三質問し、少年はそれらにか細い声で返答した。それから、少年の瞼の裏を観察し、口を開けさせて舌の様子を見て、魔術師は何やら思索に耽った。口をきかないカレドアに焦れたのか、男が呼びかけた。

「どうなんです」

「どうやらガーダルはいんちき魔術師じゃあありませんよ。それとも、私もいんちき魔術師だったようだと言うべきかな」

「はっきり言ってください、治るんですか、治らないんですか」

 カレドアはゆっくりと答えた。

「今治すのは……非常に困難な病だ」

ロクドは思わずカレドアの顔を見て、それから男の方に目を向けた。男の身体は突然萎んだように思えた。

「一生このままってわけじゃないと思いますがね。一過性のものですよ。あくまでも今すぐに治そうっていうのが難しいだけで」

「一過性って……それじゃあいつ治るんですか」

「それは何とも言えませんな。明日かもしれないし、一年後かも。まあ、ときが来れば勝手に治るでしょう」

「そんな無責任な」

「早く治すためには、そうだな、精神的負荷の少ないのんびりした生活を送らせることですよ。何か好きなことでもやらせるといい。その子、何か好んですることはないんですか? 絵以外に」

「絵以外に?」

 男は意表を突かれたように顔を歪めた。そんなことは考えたこともなかったというように、隣で俯いている少年を見つめる。

「その辺り話し合ってみたらどうですかね。まだ十二歳くらいなもんでしょう、時間はたっぷりあるんだから」


 釈然としない様子の男は、行きと同じように息子の手をしっかり握りしめて帰っていった。カレドアはお代を断った。少年は最後まで黙ったままだった。

扉が閉まったあとで、ロクドはカレドアに話しかけた。

「そんなに難しい呪いだとは思いませんでしたけど」

 ロクドの目から見ても、あれは病というよりも何者かに掛けられた単純な呪いに見えた。あれならニワトコの枝と水晶の欠片さえあれば、自分にだって簡単に解ける。何故カレドアがあんなことを言って帰したのか不思議だった。

「そうだな。素人が自分で掛けた呪いなんてそんなもんだろう」

「えっ?」

 平然とそう言うカレドアの顔を、ロクドは凝視した。

「必死さが全く感じられなかった。普通突然目が見えなくなって、しかも身に覚えがないと来たらあんな態度にはならないだろう。消極的を通り越して、非協力的だったじゃないか。おそらくだが――あの子は絵を描くのが好きじゃない。喋り方もそうだが、あの酷い爪の噛み跡を見たか? 神経質で気弱な性質の子だ、きっと周りに言われて無理に描いている。親父さんのああいう物言いも負担なんだ。きみも看破したように、呪い自体は杜撰なものだね。もし誰か魔術師に依頼したんだとしたら、そいつは廃業した方がいいが……自分で掛けたのなら、あの子魔術師の才能がありそうだな。勿論絵の才能もあるんだろうがね」

「待ってください、じゃああの子は自分で自分に呪いを掛けたってことですか? 目が見えなくなるように」

「それはそうだろう。目が見えない振りっていうのはなかなかばれないようにするには難しいものだからな……そのくらいに嫌だったんじゃないか、工房での生活ってやつが。まあ、いずれ自分で解呪するだろう、あの厄介な親父さんの態度が軟化する頃になったらね」

「じゃあ、ガーダルさんが治さなかったのは……」

「ガーダルのじいさん、一目で気付いたろうな。面倒だからと言って私に回すのはやめてほしいんだが」

「でも」

 混乱しながらロクドは反駁した。何だか納得しきれない。

「万が一そうじゃなかったらどうするんですか? 先生の話を聞いたら確かにそう思えますけど、結局のところ全部想像じゃないですか。証拠もないし、全然違うのかも。それに、自分で掛けたはいいもののあの子が解き方を知らなかったら?」

 ロクドの指摘に、カレドアが肩を竦めた。

「そういう可能性も確かに否定できないな。まあ、あの親子がまた別の魔術師に掛かるかもしれないし、そうしたらそいつがあっさり解いてしまうかもしれないし」

「でも、そんなの……結局分かんないじゃないですか」

「ああ、分からないな」

 カレドアは穏やかにロクドを見つめ、そして言った。

「だから、何が正しいかなんて分からないんだ」



「あたしにはそれが正しいかどうかなんて言えないよ」

 片手に持った簡単な昼食にかぶりつきながら、サリマトは言う。盲目の少年の一件から五日ほど経ったある日の午後のことである。香辛料に漬け込んだ羊肉を大きな串に刺して炙り、ナイフで薄くそぎ落としたものを新鮮な野菜と共に薄切りのパンに挟んだこの軽食は、ここらの屋台ではよく見る名物だ。ロクドとサリマトは、週に一度はこれを食べ歩きながら情報交換することが習慣のようになっていた。

「ただ、カレドアさんはそう思ったんだね。結局、正しさなんていうのは自分の中にしかないからさ。だからこそ自分で責任を持つしかないんだよ。こと善悪に関してはね」

「なんだか難しいな」

 ロクドは口を尖らせた。パンの間からはみ出した肉が落ちそうになっていることに気付き、慌てて両手で持ち直す。

「治せるもんは治しちまえばいいんじゃないかって思うけど。あの子が本当に困ってたら可哀想だ。それに治すのが難しいとか言っておいて、次の魔術師が簡単に解いちゃったら立場ないじゃないか?」

「それはそうだ。まあ、うちの師匠も、カレドアさんなら治さないだろうと思って紹介したんだろうけど」

 その返答を最後に、サリマトとロクドの間に沈黙が下りた。通りの喧騒が二人の周囲を通り過ぎていく。パンの最後の一口を飲み込んだきり、サリマトは黙っていた。歩きながら、話を続けるでもなく爪先を見つめている。今ばかりでなく、今日のサリマトは顔を合わせたときからどこか上の空だった。ロクドは少し躊躇ったあと、サリマトの顔を覗き込んだ。

「サリマト、何かあった?」

 サリマトが我に返って顔を上げ、ロクドを見つめ返す。柘榴石が耳元で大きく揺れて、音を立てた。若き女魔術師は決まり悪げに笑いを零した。

「そんなに分かりやすかったかな、あたし」

「そういうわけじゃないけど、いつもより元気がないなって思って」

「はは、あたしも魔術師としてはまだまだだなあ」

「何か悩んでるんだったら、おれ、相談に乗るよ。言いたくなかったら無理にとは言わないけど」

「ありがとう」

 目を細めて、サリマトは微笑んだ。澄んだ赤茶の目が伏せられる。

「あたしの故郷の村、シーラ村って言うんだけど。お母さんが病にかかったって、今朝知らせが来たんだ。今、村で流行ってる病だって。原因は分からない。かかると、だんだん足の方から灰色になって、動かなくなっていくんだって。妹からの手紙、インクが滲んでた」

 反射的に死んだガレの男のことを思い出して、ロクドは身を強張らせた。サリマトが服の裾をきつく握りしめているのがわかった。何と声を掛けるべきか考えあぐねて、ロクドはそっと尋ねた。

「帰るの?」

「帰らないよ」

 サリマトが無理に微笑んでみせた。

「立派な魔術師になるまでは帰るなって、お母さんとの約束なんだ。まだ駄目だ、今帰ったら怒られちゃうよ。手紙にも、お母さんはサリマトには伝えるなって言ってたって、書いてあった。それに、あたしが突然居なくなったらこっちの仕事だって困るだろうさ」

 そう気丈に言ってのけるサリマトの強さを思って、ロクドは胸が詰まるような感じがした。

「大丈夫だよ、治らないとも、死ぬとも決まってるわけじゃないんだから。こっちの仕事が忙しくなくなって、あたしが胸を張って村に帰れるようになったら、あたしが治してあげられるかも」

 何と返したらいいか分からなくて、ロクドは「そうだね」と言った。相談に乗ってあげられればいいと思ったのに、何も言えない自分が不甲斐なくて、惨めだった。

 サリマトとは二つ目の通りで別れた。


 この間、夢の中で歩いた路地をロクドは歩いて帰る。日の落ちるのが早まりはじめたこの季節でもまだ明るい時間帯だが、やはり人気ひとけの少ない道だった。手入れされていないぼさぼさの髪をした、まだ幼い少年が、籠を抱えてこそこそと道の端を歩いている。少年が入っていった家の窓は、罅が入ったまま補修もされていなかった。少し歩いて、ロクドはヨグナのいた家の前で足を止めた。家の中から、人の声はしない。窓の向こうも暗く、中の様子を伺い知ることはできなかった。ヨグナはいないか、それとも中で息を潜めているのかもしれなかった。

「俺の家に何か用か」

 不意に背後から声を掛けられて、ロクドは肩をびくりと震わせた。身なりのよくない、壮年の大柄な男が立っていた。赤銅色のごわごわした髪を短く刈り込んでいる。目付きと歯並びが悪く、腕はロクドの倍もあろうかという太さだった。男は警戒心を露わにしてロクドをじろじろと睨めつけた。

「いえ……何でもないんです」

 ロクドは静かに答えると、そそくさと立ち去った。男は家の中に入るまで、ロクドの背中を不審げに見つめていたようだった。最後まで、ヨグナの気配は感じられなかった。彼が、ヨグナの言っていた「小父さん」なのだろうか。

 ロクドはそれからも、買い物の帰りに何度か同じ路地を通ってみたが、ヨグナに会うことはなかった。

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