第7話

 燃えるような左腕の痛みに、ロクドは呻き声を上げた。右手で抑えてうずくまり、苦痛をやり過ごそうとするがどうにもならない。痣のある部分に絶え間なく焼きごてを押し付けられているかのような痛みだった。見ると、黒くひび割れた痣の中に、幾本もの筋が浮かび上がり、どくりどくりと脈打っている。煮えたぎるように熱く、凍りつくように冷たい、泥に似たどす黒い液体がそこを流れているのだ。暗闇の中、ロクドはあえぎながら地面に這いつくばった。頰につめたい石畳の感触があった。ロクドは身を捩って、涙の滲む目で自分を取り巻く環境を視認した。ここはカレドアの家の自室ではない。夕方、亜麻色の髪の少女に出会ったあの路地だった。街灯もなく、ひとけもない。脂汗を流して歯を食いしばり、痛みをもたらす何かをののしりながら身を起こす。痣のある左腕から、左肩、脇腹に掛けて痺れるような感触があった。ここまで来た記憶がなかった。ロクドは裸足で、眠るときと同じ薄着だった。昨晩はいつも通り、自分のベッドに潜り込んだ筈だ。何か魔術の類だろうか。それとも、あり得ない話だが、眠っている間に自分でここまで歩いてきたのか? ロクドはふらつきながら立ち上がった。何にせよ、帰らなくては。全く知らない場所ではなかったのが幸いだった。壁にもたれ掛かりながら俯き、ロクドは荒い呼吸をした。素足に鋭い砂利が食い込んだが、腕の痛みに比べれば大したことはなかった。帰ってカレドアを起こして、全て話せば何とかしてもらえるかもしれない。少なくともこの苦痛を和らげるために何らかの手を打ってくれるに違いなかった。痛みに耐えながらじりじりと歩き出す。大きくよろめいて、また壁に右手を突いた。ふと、踏み出そうとした先に、誰かの爪先が見えた。その足もロクドと同じく裸足だ。ほっそりした、華奢な指のついた足だった。ロクドはその足が暗闇の中でいやにはっきりと見えることに気付き、そして目を瞠った。足はぼんやりと発光していた。ロクドはのろのろと顔を上げて、息を飲んだ。

 あの少女だった。

 真っ白な肌が、内側から滲むような燐光を発していた。闇の中で輝くその姿は柔らかにぼやけ、細い首から薄い肩にかけて、女性らしいまろやかな輪郭が朧に見えた。ぎょっとして後退りすると同時に、痣が引き攣れるように左腕を締め付け、ロクドは悲鳴を上げた。はっとしたように少女がすんなりとした手を伸ばし、ロクドの左腕に触れる。その瞬間、ロクドは少女が触れたところから急速に痛みが引いていくのを感じた。呪いがどよめき、慄き、観念したかのように鎮まっていく。触っているのはほんの指先の一部であったが、穏やかな熱が左腕全体に広がっていくのを感じた。ロクドの身体が一つの容れ物であって、彼女があたかもそこに温い湯を注ぎ入れたかのように。やがて、ロクドの呼吸が落ち着いてきたのをみて、少女はそっと触れていた手を離した。禍々しく脈動していた痣は、元通りの平坦さを取り戻していた。二人が触れ合っていたのはたった数十秒のことだったが、ロクドはもう何時間もそうしていたような気がした。さっきまで流していた汗が早くも冷え始めてきたが、不思議と不快感は感じなかった。

「きみは」

とロクドはひび割れた声で呼び掛けた。一つ深呼吸してから、言い直す。

「きみは、一体何者なんだ。どうしておれの呪いを癒せる」

 少女は戸惑ったような顔をして、かぶりを振った。そして、控えめに口を開き、小さな声で答えた。

「分からないわ」

 華奢で繊細な硝子細工の、その隙間を微風が通り抜けていくような透明な声だった。言葉には、少したどたどしい響きがあった。ロクドも当惑して、彼女を指差した。

「光ってる」

 少女は両手を広げ、自分の肘の辺りまでまじまじと見つめた。そして、ぽつりと呟いた。

「そうみたい」

「きみは、精霊か何かなのか?」

 ロクドは自分自身馬鹿馬鹿しいと思いながらも、そう質問せずにはいられなかった。精霊など存在する筈がない。しかし、そう問いたくなる程に少女は人ならざる神々しい雰囲気を纏っていた。白く、仄かで、清らかな輝き。少女は、また首を振って否定の意を示した。

「わたしはあなたと同じ人間よ。気付いたときにはここに」

 そう言った彼女の顔立ちは、確かに夕方見かけた少女のそれだった。伝承で語られる精霊の、ぞっとするほどの人間離れした美貌ではない。髪と同じ亜麻色の瞳と、控えめな鼻。淡く色づいた薄い唇は、人間らしい呼気をゆるゆると吐き出していた。ロクドは少女の顔立ちが思ったよりも大人びていることに気付いた。まだ微かなあどけなさを残しているが、歳はおそらく自分と同じか、少し下くらい。二人は暫くの間黙ってそこに立ち尽くしていた。細い路地はどこまでも静かだった。まるでこの世界には少女とロクドの二人きりしか存在していないかのように。深く重たげな濃紺の中で、月と少女だけが清浄な光を発していた。

「おれは夢でも見ているのかな」

 ロクドは呟いた。

「きみは、この通りに住んでいるよな。昨日――いや、今日、おれは君を見た。目が合った」

 少女がこっくりと頷いた。

「あなたこそ、どうしてここにいるの」

 今度はロクドがかぶりを振る番だった。状況が掴めない。誰かにこれはお前の作り出した荒唐無稽な夢なのだとはっきり言ってもらえれば、すとんと納得できた。ロクドが顔を顰めていると、少女が不意に何かに気付いたように不安げな顔をした。

「わたし、こんな時間に外にいてはいけないの。小父さんに怒られてしまう」

「小父さん?」

 あのとき窓の側にいた少女を呼びつけた声の主か。少女は怯えはじめていた。すんなりと嫋やかな指が、自身のほっそりした二の腕を繰り返し摩った。

「ごめんなさい、戻らなくちゃ」

 そのとき、景色が蜃気楼のように揺らめいた。突然通りいっぱいに霧がかかり始め、輪郭が曖昧になっていく。磨り硝子の向こうのシルエットのように朧げになってしまった少女が、遠ざかっていこうとしている。

「待ってくれ」

 ロクドは大きな声を上げた。少女が立ち止まったのが分かった。

「おれはロクドというんだ、きみの名前は」

 少女はほんの少し躊躇ってから、鈴の鳴るような声で返事をした。

「ヨグナ」

「ヨグナ……」

 それが彼女の名だった。ロクドは白いもやの中に消えていくヨグナの輪郭に向かって必死で呼び掛けた。

「また、話がしたい」

 ヨグナの返事は返ってこなかった。声が届いたかも分からなかった。耳が遠くなって、自分自身でさえ発した声が聞こえなかった。地面に立っている感覚が朧げになり、視界がじわじわと乳白色に染まっていく。思考がぶつ切りになっていく。目を開いているのか、閉じているのかも分からない。真綿の中に沈み込んでいくような。

 そして、何もかもが霧の中に消えた。

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