第6話

 扉を開けると、なんだかいい匂いがして、ロクドはほっとした。今日一日で色々と経験して、ささくれていた心が微かに解けていくのを感じる。この匂いはあたたかい食べ物、生活の匂いだ。匂いの元を辿ると、台所でカレドアが鍋の中身を掬って味見しているところだった。

「すみません、遅くなっちゃって」

「いいや」

「シチューですか」

 ロクドは横から鍋を覗き込んだ。ほこほこと湯気を上げるとろりとした乳白色の中で、不揃いなニンジンやらジャガイモやらが浮かんだり沈んだりしている。それなりにおいしそうだった。

「そもそも夕飯を用意するのは、別にきみの仕事というわけじゃない。きみがやってくれるから黙っていたがね」

 カレドアは肩を竦めてみせたあと、

「まあ、私は煮込み料理しか作れないんだが」

と小声で付け加えた。そういえば、棘の森で振舞ってくれたのも穀物をどろどろに煮込んだようなものだったなと思い出す。

「食事くらいおれが作らなくっちゃあ」

「きみはよく働いてる。ここのところ依頼人は随分増えたし、きみ一人の食い扶持くらいは十分稼いでいると思うが」

 そういうんじゃなくて助けてもらったことを言ってるんですよ、とロクドは言おうとしたが、それを今更口に出すのはなんとなく気恥ずかしかった。「まあ」とカレドアは洗った手を拭いながら呟いた。

「きみがそう言うなら断る理由もないか」

 シチューを皿に盛って食卓につき、カレドアがパンを千切り始めるのを見てから、ロクドはガーダルの家に行っていたことを報告した。本当のことを言えば死んだ男のことも吐き出してしまいたかったが、食事の席で口にするにはやはり重たい気がして、やめにした。

「いいことなんじゃないか」

とカレドアは言った。

「他の魔術師と交流することで、得ることもあるだろう。沢山学べばいい」

 カレドアがそんな風に言ったのは意外だった。カレドアはどことなく人との深い関わりをよしとしない面があると、この三年間を過ごす中でロクドは分析していた。けして人嫌いというわけではない、と思う。人当たりも悪くないし、口数も少なくはない。ただ、拒みはしないかわり受け入れもしない、カレドアはそんな印象だった。ロクドは明るく開かれたガーダルの住居を思い出して、あれは確かにカレドアにはそぐわないものだと思った。三年経った今でも、ロクドはカレドアの引いた不可視の境界線のへりを、ただうろうろしているだけに過ぎなかった。そして、それと同時に、自分がカレドア以外の魔術師から学ぶことにどこか後ろめたさに似たものを感じていたことにも気付いた。カレドアは唐突に言った。

「先月教えた凍結の魔法があるだろう。見せてみなさい、食事中だが」

 ロクドは意表を突かれたが、素直に頷いた。そんなに難しいことを要求されたとは思わなかった。水がなみなみと注がれたグラスの縁を人差し指でなぞりながら、簡単な呪文を唱える。サイルの奥義書の五十六頁。凍てつくような冷気を纏った呪文は縁から円弧を描くように中心に向けて滑っていき、そのあとを追うように氷の膜が水面を覆っていく。ものの数秒で、グラスの中の水は中まで完全に凍りついていた。カレドアは身を乗り出して、スプーンの柄で氷の表面をコツコツと叩いた。氷には罅も入らない。それからカレドアは椅子に座りなおし、スプーンを置いた。

「それを習得するのに、並の人間なら五年かかる」

「五年?」

「短く見積もってだよ。君はそろそろ三年目だったか……そのやり方では、普通はせいぜい表面に薄い氷の膜を張る程度が精一杯だろうな。教えたときには言わなかったがね。何故そのやり方を選んだ?」

「どういう意味ですか?」

 カレドアが微笑んだ。

「ハルメスの書を読んだだろう? 今の魔術の元になっているのはルーベリウム主義の流れを汲んだ儀式魔術だ。かつて魔術はもっと大掛かりなものだったし、複雑で血生臭い手順を踏む必要があった。蝋燭ひとつ灯すのに部屋一杯の魔法陣と雌鶏の頭が必要だった時代だ。これでは本末転倒だから、実践者たちによって研究が重ねられ、文字通り血の滲むような努力によって魔術は単純化されていった。より実用的に、簡便に。きみがさっきやったように詠唱のみで発動するものもそうだが、逆に予め書き付けておいたペンタクルや呪文さえあればよいという型も発達した。われわれが依頼人に渡す護符がこの類だね」

「でも、まじないではまだ雌鶏の頭や生き血を使うこともありますよ」

「そうだ。だから、まじないはより原始的だ。魔術でも、失敗が許されない術だったり、非常に高度なものではまだ複雑な儀式のやり方が残っているだろう」

 ロクドはガーダルとサリマトが行った儀式を思い出して、頷いた。

「私が言いたいのは、魔術は手順が簡便なものほどかえって行うのが難しいものだということなんだよ。君はたった一節の呪文によってその水を凍らせた。何故それを選んだ? もっと別のやり方も教えた筈だ、例えば二十四節あるラグイナスの呪詩でもよかった。時間は掛かるが簡単で確実だ」

「それは……」

 ロクドは困惑した。

「おれは……こっちの方が特別難しいとは思いませんでした」

「そうだろうね。ロクド、私は、きみには才能があるのだと思う」

 カレドアは静かに言った。

「だから、きみはもっと多くの人間から、多くのことを学ぶべきなんだろう。そうすれば、もしかしたらその呪いを解くこともできるかもしれないな。きみなら」

 カレドアの声はいつも通り淡々としていたが、最後の一言だけには、何か複雑な感情が含まれているように思えた。ロクドはなんだか落ち着かなくなり、新しい水を持ってこようと席を立ったカレドアの背中に声を掛けた。何か別の話をしたかった。

「先生は、ガーダルさんと知り合いなんですか」

「ガーダルと?」

「先生を知ってた風だった。それと、先生のことを秘密主義って」

「それはまあ、狭い世界だからな。この街にいて仕事を持っている魔術師はみな、程度の差はあれお互いを把握しているよ。しかし秘密主義か、いや、別にそういうわけじゃないが。会合のことを言っているんだろう? 面倒なんだ、単に」

 氷漬けのグラスの代わりに汲んできた水をロクドに渡しながら、カレドアは笑った。

「私は人と協力して仕事をしないし、そもそも共有すべきものも提供できるものも特にない。ガーダルのように治癒魔術に通じるわけでもなし」

 カレドアは愉快げな調子だったが、ロクドは胸に何か引っかかるものを覚えていた。ロクドは「でも、おれを弟子にしたじゃないですか」と言い掛けて、やっぱりやめることにした。その言葉を投げ掛けて、返事が返ってくるのがなんとなく怖かった。ロクドは黙ってシチューを飲み込み、千切ったパンを口に入れた。ぱさつくパンを水で流し込む。向かいのカレドアは、ゆっくりとシチューの中のジャガイモを掬い上げていた。

 食事のあとで、二人分の皿を片付けながら、ロクドは今日あった色々なことをゆっくり考えた。それから、帰り道に出会った少女のことをふと思い出した。カレドアならあの少女のことも何か知っているかもしれないと思ったが、何故か聞いてみる気は起きなかった。

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