第5話
トラヴィアには、カレドアの他にも多くの魔術師が住んでいた。街を歩く魔術師は、きまって大きな宝石を目立つところに一つ身に付けていることにロクドはすぐに気が付いた。考えてみれば、カレドアの黒曜石の指輪もそれであった。
魔術師ガーダルに師事する気のいい女魔術師、右の耳に
「これは心臓石さ」
とサリマトは朗らかに言った。健康的に日焼けした肌が夏の陽射しにつやつやと輝く。
「この国で一人前の魔術師ならみんな持ってるよ。大事なものなんだ、多分、魔術師にとっては命の次にね」
「何のために? そんなものがなくても、魔術は使えるじゃないか」
「使えるは使えるけどね」
心臓石の話はロクドの好奇心を十二分に刺激したが、サリマトはいずれ師が話すだろうと言ってそれ以上教えてくれなかった。
「ま、じきにおまえも持つことになるんだから、そう焦りなさんな」
笑いながら言ったのはサリマトの弟弟子のラバロ、弟弟子とは言ってもサリマトとは同い年だ。ロクドより一回り歳上で、こちらはいつも
「それより、聞いたかい、ガレの村に妙な病が流行って、酷い有り様だっていう話」
「またか? 去年の春にアルメナの井戸水が全部毒水になったって話を聞いたばかりだぜ」
「何かよくないものが蔓延ってるって感じはするね。ここ数年はどうもおかしい、〈大平原〉からの瘴気が流れてきてるのかね」
「ぞっとしない話だな」
二人は別の話を始めたが、ロクドは会話には混ざらなかった。除け者にされたようで業腹だったというのもあるが、初めてこの街に来たときに仕立屋が言った言葉を思い出して、漸く謎が解けたと納得していた。
サリマトとラバロの師であるところの魔術師ガーダルは、背筋のしゃんとした老魔術師だ。この会話から何ヶ月か経ったある日、ロクドはサリマトに誘われて、ガーダルとその弟子たちの住居に連れていってもらったのだ。周囲の家々に準じた象牙色の石造りのその家は、やや大きめに作られており、窓は満開のゼラニウムやアリッサムで華やかに飾られていた。家の中も、いつでも薄暗く埃っぽい印象のあるカレドアの家とは対照的に開放的な作りで、凹凸硝子の天窓が陽射しを柔らかく拡散している。
「大きな作業室が一つと、住み込みの魔術師のための部屋が四つ」
サリマトが見せて回りながら説明してくれた。矢羽根貼りされたクルミ材の床がぎしぎしと鳴る。作業室とやらを覗き込むと、他に三人の若い魔術師が何やら熱心に書き付けたり植物を刻んだりしていた。ラバロもそこに混じって、凄まじいペースで書物をめくっているようだった。
「おれのところとは全然雰囲気が違うんだな」
ロクドは躊躇いがちに言った。
「なんというか、明るい」
「ロクドはカレドアさんところの弟子だっけ。あたし、よく知らないんだけど、彼どんな人?」
「いい人だよ。丁寧に教えてくれるし……」
そこまで喋って、ロクドはふと考え込んでしまった。カレドアと出会ってもう三年が経っていたが、ロクドはカレドアという人間について殆ど知らないことに気付いた。片付けが苦手なこと。セージとカミツレを乾燥させて煮出した茶を好むこと。朝から雨が降っている日はなかなか起き出してこないこと。考えるときに頰を引っ掻く癖があること。そういった日常の中であらわれる細々としたことは知っていたが、それは何一つカレドア自身の本質に迫るようなことではなかった。彼はどんな人間なのだろう?
「ふうん」
黙り込んだロクドだったが、質問した当のサリマトはそれ以上興味がないようで、特には追求しなかった。
「ああ、あとは待合室と診察室もあるよ」
「診察室?」
「うち、病人が多く来るからさ。師匠の魔術は病を治すことに寄ってるんだ。そういう意味では、ここの魔術はまじないと言ったほうが近いかも……とはいえ、まじないほど胡散臭くも粗っぽくもないけどね。きちんと系統立って、立派な理論に裏打ちされた治癒魔術だよ。カレドアさんのところにも病を治してくれっていう客がときどき来るだろう? そういうのは大体、うちから流れてくる患者なのさ。勿論ここの治癒魔術は一流なんだけど、その、あたしの師匠はちょっと人を選ぶから……」
「こんな時間に遊んでおるとは、随分暇をしているようじゃな、サリマト」
サリマトが顔を引きつらせた。恐ろしげな顔をした老魔術師、ガーダルが立っていた。太い樫の杖を突いた今は小柄な老人だったが、かつては堂々たる体躯をしていたことを思わせる雰囲気があった。古い大木の木肌のような顔に二つ付いた小さな目、そこには若々しい知性のきらめきと油断のない鋭さがある。皺だらけだが骨太の右中指に、大きな
「おまえは?」
「この子はあたしの友人で――」
「ロクドと言います」
ロクドはなるべく素直で真摯な印象を持ってもらえるようはきはきと喋った。
「カレドア師の元で魔術を学んでいるものです。他の魔術師がどんな仕事をしているのか気になって、サリマトに頼んで無理に上げてもらったんです。勝手に、すみません」
「カレドアの弟子か」
ガーダルが鼻を鳴らした。
「噂だけは聞いておったが、半年に一回の会合にも出席せんあやつが弟子を持つとはな。どういう風の吹きまわしか。ふん、あやつの気取った秘密主義は気に食わんが、わしは自分の仕事場を見られたところで一向に構わん。仕事の邪魔をしない限り、出て行けとは言うまい。勝手に見ていけ」
最後に、ロクドを上から下まで値踏みするようにじろじろと見つめると、ガーダルは立ち去った。サリマトがじっと詰めていたらしい息を吐き出す。
「助かったよ」
「おれは本当のことを言っただけだよ」
ロクドの言葉にサリマトはにっこりしてみせると、近くにもうガーダルがいないことを確認してから、
「師匠、あの元気で、今年もう百二十歳なんだ」
と耳打ちした。ロクドは目を丸くした。
「なんか魔術でも使ってると思うでしょ」
「そうじゃないの?」
「それが、使ってないみたいなんだ。人は生まれるときを選ぶことができないように、死ぬときも選ぶべきじゃないんだとか言って。とんでもないじいさんだよ」
サリマトが心底恐ろしげにそう言うので、ロクドは思わず声を上げて笑ってしまった。
とはいえ、サリマトがガーダルを師として心から信頼し、尊敬していることは彼女の仕事振りを見ていればわかった。ロクドが見ている間、サリマトは二人の病人を診た。一人は背中に広がって痛みを伴うできもの、一人は眩暈と耳の聞こえにくさを訴えていたが、サリマトはその両方に真摯に対応した。少しでも気になることがあれば叱責を恐れずに報告し、素直に師匠の意見を仰いだ。二人は師弟の固い絆で結ばれているように見えたし、その他の弟子についてもそれは同じことだった。
ロクドが帰る頃になって、突然一人の男が運ばれてきた。自分で駆け込んできたのではなく、数人の街の人間に運ばれてきたのだ。重傷に違いなかったが、見たところ目立った傷はなく、何か大怪我をしてここにきたというわけではないようだった。
「ガレの村の者のようだ」
運んできた若者の一人が説明した。
「ガレ?」
サリマトが眉を顰め、ガーダルが厳しい顔をした。黙って横たわっていた男が唐突に獣のような唸り声をあげ、ひきつけを起こしはじめた。それがあまりに激しいので男は寝台から落ちそうになり、周りにいたラバロと他の弟子たちが慌てて押さえつける。見ると、男の目を囲うように、さっきまでは確かに無かったどす黒い斑点が浮かびあがっていた。ロクドははっとした。
「ガレの者は奇病の蔓延で死に絶えたと」
「彼が最後の生き残りで、助けを求めてここまで来たようなんです。われわれが最初に見たときには一応まだ喋って歩いてはいたんですが、突然倒れて、もがき始めて」
それを聞いて、ガーダルはますます恐ろしい形相になった。ガーダルは運んできた若者たちに部屋を出て行くよう指示し、手の空いていたサリマトには鎮静作用のある香を焚くよう命じた。それから、成す術もなく呆然と突っ立っているロクドをひと睨みして、足早に隣の部屋に歩いていった。さっきよりは落ち着いたらしい男が、しかしまた苦痛の呻きをあげて身を捩った。硬く閉じた瞼の隙間から、血の涙が流れている。顔の斑点はどんどん広がっていた。ロクドは心臓をぎゅっと圧迫されたような感触を覚えて、息を詰まらせた。
「この人……助かる?」
ロクドは香を用意し終えたサリマトに小声で尋ねた。日焼けした肌でも分かるほどに蒼ざめていたサリマトは答えずに、ただ唇を噛んで、ガーダルの歩いていった部屋に入っていく。入れ違いに、年季の入った魔術書を片手に掴んだガーダルが出てきた。
「ガーダルさん、その、彼は」
ガーダルは険しい顔で、黙って首を振った。
「見ていたくないなら、出ておれ」
同じように部屋から現れたサリマトが、残りの道具を持って此方に歩いてくる。この頃にはひきつけは止んでいたので、男の体を押さえつけていた弟子たちは寝台から離れた。サリマトは部屋の四隅に魔を払う漆の蝋燭を置き、魔術で小さな火を灯した。寝台の周りに
ロクドがガーダルの家を出る頃には、もう随分と日が傾いていた。
「あんなことがあったあとだけど、ラバロもいるし、一緒に夕飯を食べていけばいいじゃないか」
とありがたい誘いを受けたが、それは謹んで辞退した。カレドアが何も食べずに待っているだろう。特に取り決めをしたわけではないが、この三年間夕食はロクドの分担になっていた。
路地を抜け、橋を渡り、緩やかな坂を下ってロクドは黄昏に染まった街を足早に歩く。西陽が地平線ぎりぎりに引っかかって、神殿の尖塔とゆっくりと回る風車、家々の屋根とを橙に縁取っていた。先ほどまで明るかった夕暮れの空が、ベールを下ろすように滑らかに濃紺に変わっていく。街行く人の足取りも、迫り来る夜に追い立てられて、家族の待つ暖かい家に帰ろうとするそれだった。ロクドの頭の中には、死んだ男のことが渦巻いていた。壊滅した故郷から命からがら逃げ出してきたという男。目の周りに浮かび上がったまだら模様の黒々とした不吉さに、否が応でも思い起こすものがあった。手袋の中の左手をぎゅっと握りしめる。あれは自分のこの呪いと同じものだと、ロクドは確信していた。ロクドはかつて老ザハンに見せられた〈瘴気の大平原〉の絵を思い出した。ガレの村は、同じように呪いと瘴気の病に侵されてしまったのだろう。ロクドは唇を噛み締めた。もしかしたらあれは父であり、母であったかもしれなかったのだ。自分がこの呪いを背負わなければ。ロクドは気を落ち着かせようと、努めて深い呼吸をした。早く帰ろう。帰って、このばらばらになりそうな気持ちをどこかに追いやってしまいたかった。ロクドは近道をするために、もう一本狭い路地に入った。この通りには、表に面している家々よりも少し小さい家が密集している。一見他の家と同じ作りのようだが、装飾のない窓や玄関は殺風景で、象牙色の壁は薄汚れて黒ずんでいた。
窓から少女が顔を覗かせていた。この暗く狭い路地に似つかわしくない、亜麻色の髪と抜けるように白い肌の少女だ。格別に美しい顔をしているわけではなかったが、どこか目が離せない輝くものがあった。少女がこちらに顔を向ける。視線が交錯した瞬間、ロクドは心臓が震えるような感覚を覚えた。もう長いこと大人しくしていたはずの左腕の呪いが皮膚の下でびくりと泡立ち、怯えたように揺らいだ気配がして、ロクドは目を瞠る。少女が軽い驚きの色を浮かべて、何か言いかけようとした。そのとき家の中から男が何事か呼びかける声がして、体を強張らせた少女は躊躇いながら窓から離れていった。少女が姿を消してからも、ロクドは少しの間そこに立ち竦んでいた。
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