第2章 魔術師の弟子

第4話

 かつて、ドルメア公国は大陸の北方を治める現アルスール王国、その国王が大公を兼ねる同君連合下にあり、当時のアルスルム連合王国を構成する州の一つであった。しかし、同じく連合王国の一部であり、ドルメア公国と運河を挟んで向かい合うマルトン王国が分離独立したことによって公国は地理的に分断され、また独立戦争により疲弊していたアルスルム連合王国は瓦解することとなる。以降、ドルメア公国は一つの独立国家として歩んできた。空白となった大公の座には、それまで事実上のドルメア州総督であった貴族、デルサイスト家の当主が即位し、以降代々この国はデルサイスト家によって治められている。

 ロクドはこれらの知識をネルギの村にいた頃に得ていた。村から外に出たことは一度もなかったが、いずれ出なくてはならないことを知っていた。老ザハンは村の外にまで目を向け、視野を広く持つことが重要だと説き、家の裏手にある蔵の鍵をロクドに渡した。蔵の中には書物がぎっしりと詰まっており、ロクドは時間ある限りそれを読み耽った。だから、まだロクドの知識の殆どは老ザハンの語る言葉と、先人たちの綴る文字によって出来ていた。

 ロクドたちの行き先、ドルメア公国の首都であるトラヴィアの都は、西側が海に面した大きな街で、なだらかな丘陵の上に位置していた。ドルメア公国の君主である大公の住む煌びやかな宮殿、そしてそのすぐ横に寄り添うように、八角錐の尖塔を有する大神殿が街の中心に築かれている。ドルメア公国の国教であり、光の神ルースを信仰するルーメス教の本拠地、メルパトス神殿だ。この神殿でまず目を惹くのは、尖塔の頂上に位置し、街のどこからでも見ることができるほど巨大な風車であろう――風車と呼ばれてはいるが、外観からしてそこらの村にあるようなそれとは別物である。規格外の大きさを誇る八枚の羽根は不思議な光沢を放つ鉱石のような素材で出来ており、その一枚一枚が優美な曲線を描いている。羽根は陽光を透かし、また反射させ、風車の中心から少しずつ傾きを変えながら伸びており、その様はまさに輝ける太陽である。この八枚の羽根が受けるのは、風ではなく何か別の大いなる力であるらしい。その証拠にこの街と神殿が出来て以来何百年もの間、風のある日もない日も、風車は一日も止まることなくゆっくりと回り続けている。メルパトス神殿は、この風車こそがルースの実在と加護のしるしであると告げ、ルーメス教の象徴であるとした。それら神殿と宮殿の二つを取り囲むように、トラヴィアの交通を担う幾本もの街道が放射線状に走っている。

 書物で読んではいても、森を抜けてから半日歩いて漸くトラヴィアへと辿り着いたロクドは、初めて見る街の姿に胸を打たれた。行き交う人々でごった返す大通りの熱気、客を呼び込もうとする賑やかな声、ところ狭しと並んだ露店。その全てがロクドにとって新鮮であり、驚くべき体験であった。街の東に黒々と聳え立ち、大平原からの瘴気を阻む高い街壁はロクドの度肝を抜いたし、整然とした街並みの美しさもそうだった。統一された赤茶の屋根に、象牙色の石を組んだ壁が連なる石畳の街。似たような形、似たような大きさの家々は、真っ直ぐな通りと交差する同心円状の細い道に沿って並んでいる。窓や玄関先は思い思いの草花で華やかに飾られ、それぞれの個性を演出していた。また、トラヴィアは水路の多い街でもあった。同心円の通りに沿い、あるいは交差し、幾本もの水路が街を区切っている。水路の全ては、西の海に通じている。水路と通りの交差するところには緩やかなアーチを描く橋がかけられ、街の移動の複雑さを解消していた。

 カレドアがまずロクドを連れて行ったのは、仕立屋のところだった。その格好では目立って仕方ないとカレドアは言う。確かに、体は川で洗っていたものの、森を彷徨ったロクドの服は泥に塗れ無残なものだ。ロクドは唐突に不安になった。喧騒に紛れそうな小声で金がないと伝えると、カレドアは笑った。

「わざわざ言わなくてもきみが無一文だなんてことは見れば分かる。これから居候する気でいるのに、妙なところを気にするな、きみは」

 連れられて入った店は、トラヴィアに張り巡らされた細い通りの一本、奥まったところにあるこぢんまりした店だ。出迎えた店主は酷い格好のロクドと不気味な腕の痣を見てあからさまに顔を顰めたが、カレドアの金払いがいいと察すると俄然やる気を出した。

「この子に合うように、適当に見繕ってくれ。これだけあれば足りないことはないだろう」

「それは、勿論でございますよ」

 無造作に重ねられたデルヘイム銀貨を数え、店主はにこにこしてみせた。カレドアは無関心に頷くと、ロクドに向き直り、

「私は少し用事がある。すぐに戻ってくるから、早く終わったらここで待っていてくれ」

と言い残して店を出て行った。店主は機嫌よさげにあれでもない、これでもないとロクドの服を選ぶ。この待遇を見ると、カレドアは相当の金を置いていったに違いない。されるがままのロクドを都風のゆったりしたブレーと立て襟の上衣に着替えさせ、膝を隠す程度の丈の上着を何種類か店の奥から引っ張りだしてきたところで、ふと店主はロクドの首飾りに気付いた。

「おや、あんた、魔術を習ってんですかい」

 ロクドは問いかけの意味を捉え損ねて眉を寄せた。

「それ、心臓石でしょう」

 首飾りを上衣の下に仕舞いながらロクドが首を傾げたところで、カレドアが戻ってきた。全身新品の服に包まれたロクドを上から下まで観察して、「いいんじゃないか」とざっくりした感想を述べる。

「上着は深緑と濃紺、どちらにしましょうかね、両方お似合いで」

「どちらでもいいよ。いや、濃紺かな」

「あの、ぼくのものだけでいいんですか」

 袖口と裾に繊細な縫い取りのある上着を着せかけられながら、ロクドは居心地悪くもぞもぞとした。カレドアは心底興味なさそうに店の中をぐるりと見渡していた。

「ああ……。待ってくれ、これも貰おう」

思いついたように手に取ったのは、裏地のない、柔らかい羊革の薄い手袋だった。

「金を足した方がいいかな」

「いえ、十分でございますよ。お付けしましょ」

 カレドアは手袋をロクドに渡しながら言った。

「その手を一応隠しておくといい。無用な注意を惹きたくなければね」

 受け取った大人用の手袋はまだロクドには大きかったが、吸い付くような手触りと軽さから上等な品であることが分かった。こうして幾分か垢抜けて小綺麗になったロクドは、カレドアの家の前に立っていた。カレドアの家はその他多くのトラヴィアの家と同じ、石造りのシンプルな家屋だったが、他と違うところといえば窓や玄関先に全く飾り気がないところだった。カレドアが何も言わずに扉を開け、中に入っていくので、ロクドは慌ててそれに続いた。ひんやりとして、薄暗い。それから、古びた本の匂いと、仄かな香の匂いがした。家の外側のシンプルさとは対照的に、居間と作業室が融合したような部屋の中はひどく雑然としていた。使い込まれて飴色になった机の上ばかりでなく、埃っぽい絨毯の敷かれた床の上にまで本が積み上げられ、不安定な塔のようになっている。背凭れと肘掛の付いた長椅子の上も当然例外でなく、殆ど座れるところがない。壁に沿う大きな棚には、魔術に使うのであろう見たこともない奇妙な形の道具や乾燥させた植物、香辛料のような色とりどりの粉の瓶詰め、謎の液体に浸けられた生き物の体の一部などが並ぶ。天井から数珠状にぶら下げられた鬼灯の実が頰にぶつかり、後ずさったロクドの踵にも、また何かが当たった。とげとげと角のような結晶の張り出した、大きな鉱石の欠片だった。カレドアは外套を無造作に脱ぎ、椅子の背凭れに掛けた。

「客間が一つあるから、そこを使ってくれ。階段を上がってすぐ、右手にある部屋だよ。長いこと使っていない布団だから、きみがもし安眠したいなら日が落ちる前に虫干しをした方がいいな。生活上のルールは特にないが、廊下の突き当たりにある部屋――私の寝室だが、けして勝手に入らないこと。その隣の書斎の方は、きみもときどき入ることがあるだろう。最初は分からないこともあるだろうが、その都度聞いてくれればいい」

ロクドは神妙に頷いて、新しく自分のものになった部屋に上がっていき、湿っぽい布団に取り掛かった。


 次の日の朝食のあとで、カレドアはまず立派な装丁の分厚い写本を三冊渡し、それを二日で読むよう命じた。本を抱えてよたよたと自分の部屋に持ち込んだロクドは、本の中程を開いてみて悪意さえ感じる文字の細かさに呻き声をあげそうになった。しかし、いざ読み始めてみるとその内の一冊は基礎的な内容で占められており、かつて老ザハンから学んだまじないの知識が本を読み解く助けとなった。ロクドは最初の一冊を丸一日かけて読み終えると、すぐに残りの二冊に取り組んだ。二冊目は応用を交えた実践的な内容、三冊目は一番厚く、他二冊を踏まえて魔術を発展的に考察したものだったが、ロクドは一日目よりも短い時間でなんなく読破した。ロクドには知識に対する貪欲なまでの熱意と、それを身のうちに蓄える豊かな吸収力があった。ロクドは何かを思い出そうとするとき、きまってひっそりとした小さな部屋をイメージした。壁が無数の引き出しによって埋め尽くされたその部屋はいつでも美しく整頓されており、好きなときに望む知識を取り出すことができた。この才能は、その後に続く魔術の修業において大いに役立った。

 読み終えた本を返そうと話しかけると、カレドアはその内容について幾つかロクドに質問をした。ロクドの回答を聞いたカレドアは満足気に頷いて、

「それでは、今日から魔術を教えよう」

と言った。それからカレドアが教えはじめた内容は非常に平易な言葉で出来ていたが、その段になって、ロクドは何故彼があらかじめ与えた三冊を読ませたのかを理解した。単純な言葉にはその裏に隠された幾つもの意味があり、カレドアの言葉は独特の韻律と複数のルールに則った難解なメタファーに満ちていた。ロクドは頭の中に収納した三冊を時折参照しながら、確実にカレドアの教えを紐解いていった。この頃からロクドはカレドアを先生と呼びはじめたが、カレドアにそれを気にした風はなかった。

 カレドアの家には時折客が訪れた。そうした客らは皆依頼人であり、カレドアは請負人であった。ロクドはカレドアがどうやって生活を繋いでいるのだろうと不思議に思っていたが、これがカレドアの仕事であるようだった。カレドアの噂を聞きつけてやってくるらしい依頼人たちはそれぞれ多種多様な悩みを抱えていて、それをカレドアに解決してもらいたがった。カレドアは彼らの話を聞くと、薬のように魔術を処方した。

「まあ、殆どは探しものと浮気調査だね」

とカレドアは言った。

「それと、家庭の悩み」

「さっきの女の人なんて、先生に向かって散々旦那さんの愚痴をこぼしただけで、何も受け取らずに帰っていったじゃないですか」

「ああいう種類の依頼人は、ただ話し相手がいないだけなんだ。自分の悩みを喋ってすっきりしてしまえば、それで解決するのさ。まあ、また来るだろうがね」

「折角ここに来るんだから、魔術でしか解決できないことを相談しにくればいいのに」

「真実深刻な問題を抱えた人は、こんなところには来ないさ」

 ロクドの納得いかなげな顔を見て、カレドアは笑った。

「いずれわかる」

 そのうちに、カレドアはロクドに自分の仕事を手伝わせるようになった。初めの方はマルバアサガオの種を煎じたりテッポウユリの根を刻むこと、砕いた鉱石を布袋の裏地に縫い込んだりすることを任された。これはネルギの村で学んだまじないに通じるところがあったが、ロクドが知るそれよりもずっと繊細なものだった。あるときカレドアは、乾燥させた月桂樹の葉と孔雀豆とを中綿と一緒に詰めた布製のお守りを見せ、これと全く同じものを十作るように指示した。ロクドは一日中作業台に向かい、夜までに言われただけのお守りを縫い上げたが、一日の終わりにその一つをあらためたカレドアはその日作った全てのお守りの縫い直しを命じた。

「どこが違うんですか」

 ロクドはカレドアが作ったものと自分の作ったものを見比べた。全く違いが分からなかった。カレドアはお守りの端を指差した。

「終わりを縫い閉じるときに、糸を変えただろう。このお守りは病の回復を早めるためのものだが、外周を縫うときには一本の糸で仕上げなくては効果が逆転する。それに、縫い始めるときに返し縫いをしたな」

「その方がほつれ難いと思って」

「全く同じものを作るように言ったはずだ。これでは使い物にならない」

 そのようなことを繰り返しながら、ロクドはどんどんこつを掴み、次第に手順の多い複雑な仕事も任されるようになった。作業の中には魔術の本質に迫るための多くの手掛かりが隠されていることに、ロクドは気付いていた。

 カレドアは、魔術において重要なのはものの特質を見極めることであると言った。ものをものたらしめる力の流れを読みとくこと。魔術はその流れを意図して変える術だ。だが、それに逆らったり無理矢理堰き止めようとすることには大きな負担が伴う。力ずくで捻じ曲げるのではなく、利用するのだとカレドアは教えた。カレドアはこうも言った。

「忍耐強くなくてはならない。だが、同時に柔軟でなければならない。情緒を常に穏やかに保つこと」

 瑞々しい葉をつけた若木のように、ロクドは知識と経験の水を吸い上げ、伸びやかに育っていった。カレドアは自分の所有する書物を自由に読むことを許したので、ロクドは魔術を学びながら地道に自分の呪いを解く糸口を探した。そのうちに、市場が秋の特産品である瑞々しい林檎の芳香に満ちて、街路樹が落とした葉が水路を真っ赤に染めた。さらさらした雪が石畳を覆い、街の子どもたちが歓声を上げながら足跡を付け、やがて春の風がそれをゆっくりと溶かした。幾つもの季節がロクドの周りを通り過ぎていく間に、ロクドは成長し、より思慮深くなっていった。背が伸びて、身体つきは少年から青年へと近づいた。大きかった手袋はぴったりになり、手によく馴染んだ。夜一人で眠るとき、父や母のことを思い出すと変わらず胸は痛んだが、もうけして涙が滲むことはなかった。ロクドは感情を抑えることを学んだ。ネルギの地から離れたせいか、呪いは腕のそれ以上の侵食を止め、穏やかに息を潜めていた。

 カレドアの態度はその間変わらなかったが、時折彼は家から姿を消すことがあった。明け方、夕食のあと、夜遅くになってから。その時間には規則性が全く無いように思えた。ロクドが食料の買い出しから帰ってくるとカレドアは家のどこにもいなくなっていて、次の日の朝には何事も無かったように部屋から起き出してくる、ということもあった。初めのうちこそ気に掛けていたが、次第にロクドはそれに慣れていった。

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