第9話

 またそれから何ヶ月か経った冬の終わり、降り続いていた雪が止み、久し振りに晴れ間の覗いたある日のことだった。ロクドが月長石と薄荷の葉を使った人探しの魔術を処方し、中年女性の依頼人を帰したあとで、カレドアはロクドを書斎に呼んだ。カレドアの書斎は、壁を天井まで埋め尽くす大きな本棚と、それらを読んだり何か文字をしたためる為の机、それと座り心地のよい椅子で構成されたシンプルな部屋だ。カレドアは机の前の椅子に座ってロクドの方を向き、ロクドはもう一つの椅子に腰掛けた。カレドアは指を組み、脚を組むと、口火を切った。

「本来なら、一人前の魔術師になるのには七年はかかる」

 ロクドはカレドアの次の言葉を半ば予測していた。

「だが――もうきみは魔術師としては一人前と言っていいと思う」

「そうでしょうか」

 ロクドは慎重に答えた。確かに自分でも目覚ましい成長を感じていた。難しいものであっても、大抵の依頼はカレドアなしでも自分で判断して解決することができるようになったし、昔のような失敗もしなくなった。ロクドがもともと持っていた豊かな土壌、そこに植えられた知識の苗は経験の雨を浴びて伸びやかに育ち、今やしなやかな一本の大樹へと育っていた。ロクドはカレドアの持つ書物の殆どを頭の中で正確に諳んじることができるようになっていたし、似たような作用を持つ複数の魔術の中から、その場に最も適したものを素早く選ぶことができるようになっていた。カレドアは、何から話すべきか悩んでいるような素振りで、指を二回ほど組み替えた。そして、暫く考えた末、カレドアはこう問いかけた。

「そもそも、魔術のもとが何か、きみは知っているか?」

 質問の意味を捉えあぐねて、ロクドは眉を寄せた。

「魔術のもと?」

「過去の実践者たちは太陽や月が魔力の源泉であって、そこから生まれる光こそが魔術を成す力だと考えた。そして、それを光素ルートルと名付けた……しかし正しくはそうではない。それはきみも勉強しただろう」

「はい。魔術の源というものは実際には存在しない」

「そうだ。魔術は一見何もないところから炎を出してみせたり、水を凍らせたり、風を起こしたりすることができる。かつてはそれがあまりにも突飛なわざのように思われたので、それを起こすための力をどこか、外部から取り入れている筈だと考えられていたんだ。きみも知っているように、研究の積み重ねによって今はその間違いは正されている。魔術の源は、消費されうる物質的資源などではない。熟れた林檎が枝から落ちたり、潮が満ちて引くことと同じ、世界の法則の一つにすぎないんだ」

 ロクドは頷いた。

「ルースによって作られた世界には法則性がある。その法則性を読み解き、体系化したものが魔術だと……ルーディンが『ガルタロント』に記していました。そもそも、光素が魔術のもとなんだとしたら、闇自体が不可思議な力を持つことは有り得ない。呪いは闇から生まれる。呪いの存在自体が説明できなくなってしまう」

 左腕を意識しながらロクドがそう言うと、今度はカレドアが頷いてみせる。

「かつて光の神ルースは、何も存在しない無の空間に、男性性をあらわす硫黄、そして女性性をあらわす水銀を作った。この二つから世界は生まれた。だからこの世界はルースの理に支配されている。本来、魔術はこの世界を明らかにし、完成へと導くための学問だ。全ての事象の原因を究め、ルースに到達する。言うなれば、魔術はルースそのものだ。いや、ルースが魔術そのものと言ってもいいな。ルースは意思であり、現象であり、法則だ」

「絵画や書物では、ルースはしばしば人の形で描かれますけど」

「ルーメス教を掲げるものにとっては、その方が分かりやすいからだ。ルースを神と崇め、縋り、したがうものにとっては……」

 そのときロクドには、カレドアの表情に苦々しいものが走ったように思われた。しかし、それはあまりに短い一瞬のことだったので、ロクドは見間違いだったのかもしれないと思った。きっと、カレドアの真っ黒な前髪が揺れて、目元に影を落としただけだ。

「それはともかくとして、だ。魔術は自然の理にしたがうものであって、なにか特別な力を源とする奇跡の術などではない。それにもかかわらず、われわれは魔術を際限なく行使することはできない。何故だ? 法則に則った方向付けの為に、何かを消費するからだ。魔力だ」

 カレドアはそこで、一旦言葉を切った。背を反らし、後ろの背凭れに預ける。

「われわれは便宜上魔力と呼ぶが、特別なものではない。誰でも持っている、精神力や生命力とでも言い換えようか。石を投げて飛ばすことに特別なはたらきは介在しないが、それでも延々それを続ければ体力は消耗するだろう……それと同じだな。石をより強く、正確に、遠くに投げる方法として、技術の訓練がある。効率よく精度の高い投げ方の追求。きみが魔術においてこれまで学んできたことがこれだ。しかし、石を投げるためにはもう一つ根本的な、重要なものがあるだろう? 技術を磨けばより少ない力でうまく投げられるようにはなるだろうが、それでもそもそも持つ力の差というのは埋めがたい。訓練によって多少は上がるものではあるが、それにしたって目覚ましい変化ではない」

 ロクドは、カレドアがここで漸く本題に入ろうとしていることを感じ取った。カレドアは背凭れから身を起こすと、自身の右手を出し、手の甲をロクドに見せた。正しくは、人差し指に嵌った黒曜石の指輪を。

「心臓石だ」

とカレドアは言った。大きな黒曜石はどこまでも暗く深い墨色を湛え、ひえびえとした硬質な光沢を放っている。

「心臓石については、聞いたことがあるか」

 ロクドはかぶりを振った。

「名前を聞いたことしか」

「まあ、そうかもしれないな」

 カレドアは差し出していた手を机の上に戻した。

「心臓石――宝石魔術の詳細は書物には残されない。この国で一人前の魔術師であれば、誰もが持っているものではあるがね。異教徒への流出を防ぐためだ。文字に残された情報は容易く拡散される」

「どうして、流出してはいけないんです?」

「危険だからだ」

 カレドアは唇を舐めて湿らせた。

「宝石魔術とは、宝石を媒体としてそれぞれの人間が持つ魔力を増幅するものだ。簡単に言えば、より少ない魔力で大きな魔術を行えるようになる術だが、使い方を誤れば恐るべき脅威になりうる」

「そんなことができるんですか? いや、それより……何のために。危険なら、初めから使わなければいい」

「なるほど、そういう考え方もあるな。だが、例えば……きみは森の中で突然獣に襲われたらどうする? その辺の枝でも拾って地面に炎の魔法陣を描き始めるか? 呪文の詠唱でもいいな、私が以前やったように、炎の鷹でも出すか? 蝋燭に炎を灯すのとは訳が違うぞ、一瞬でもあれだけの熱量を生むとすると、まあ一時間は全力疾走したくらいの体力を消耗するだろう。そもそも呪文自体も長くなるだろうね」

 カレドアの鷹を思い出して、ロクドははっとした。あれは、そうやって生み出されたものだったのだ。考えれば分かったことだった。普通なら、短い時間であの規模の魔術を生み出そうとすれば、それ相応の対価を支払わなくてはならないはずだ。よく思い返してみれば、ガーダルがガレの病人に行った魔術もそうだった。人一人を安楽死させるほどの魔術が、たった一時間余りの儀式で終わる筈がないのだ。

「何も、そんな限定的な話だけではない。あらゆる魔術を、より少ない物質量の消費で行えるようになるんだ。この国の魔術を劇的に発展させたのも、宝石魔術の賜物なんだよ。きみは一節の呪文で、ほんの五秒をかけて小さなグラス一杯分の水を凍らせることができる。勿論それは十分に素晴らしい才能だが……心臓石を介せば、同じ時間と力で風呂釜一杯の水を氷塊にしてみせることだって容易いことなんだ。きみは焼け死ぬことを恐れて炎を使うのをやめるのか? 殆どの人間はそんな選択はしない」

 納得したようなロクドの顔を見て、カレドアは微笑んだ。

「宝石は魔術師の新しい臓器となり、器官となる。非常に重要な――流れる魔力を蓄積し、増幅し、循環させる――第二の心臓だ。ゆえに、。きみは心臓石を得ることによって、ドルメアの魔術師になるんだ」

 ロクドは頷いた。

「それでは、きみの心臓石となる宝石を選ぼうか」

「何でもいいわけではないんですか?」

「相性というものがあるからね」

 カレドアは本棚の一部となっている棚から、古びた箱を引っ張り出した。カエデか何かの木に、上から全体に繊細な打ち出し彫刻が施された真鍮板を貼り付けてある、大きく平べったい宝石箱だ。真鍮板には別の金属がめっきされており、所々剥げかかってはいるが独特の鈍い輝きを放っていた。蓋には小さな琥珀が嵌め込まれ、控えめなアクセントとなっている。カレドアが錆び付いた留め金を外すと、蓋はすんなりと開いた。ロクドは思わず溜息を吐いた。宝石箱の内張は真紅の天鵞絨びろうどで、とろりとした深い光沢を持っていた。そして、木枠で区分けされた台座の上には、色とりどりの石が煌めいている。

「ふむ」

とカレドアが言った。

「やはり放っておくと曇るな」

 そう呟きつつ、カレドアは淡い黄色に透き通った石を無頓着に摘み上げた。

「まずはこれからだ。黄水晶シトリン

 ロクドの手のひらにそっと乗せる。薄い手袋越しにひんやりとした固い感触が伝わって、思わず石を握り締めそうになる。

「どうすれば?」

「きみは凍らせるのが得意だったな。凍結呪文を掛けてみなさい」

「石は凍りませんよ。呪文が跳ね返ってしまう」

「知っている。まあ、やってみればわかるさ」

 放たれた魔法は、作用すべき対象が無ければそのまま術者のところに返ってくるのが原則だ。カレドアの思惑が分からず、ロクドは戸惑いながら凍結の呪文を口にした。空中をまっすぐに滑り出した呪文は、しなやかなカーブを描きながら黄水晶に向かう。その輪郭を捉えたかに思えた呪文の帯は、しかし石を取り巻くや否や霧となって消えてしまった。ロクドは驚いてカレドアを見た。

「消えた……?」

「宝石に魔術をかけたことはなかったろう。貴石や半貴石と呼ばれる一部の石は、そもそも魔術による方向付けを受けつけないんだ。蛋白石オパールのような石は含水率が高すぎるから、まあ、向かないかもしれないが……物質的に安定しているからこそ、宝石は心臓石たりえる。黄水晶は駄目だ、次」

 あっさりと黄水晶を箱に戻し入れたカレドアの指が、今度は一際美しい紅い石を摘まみ出す。

紅玉ルビー。知っているだろうが、五大貴石の一つだ」

 手の上で煌めいている宝石に向かって、ロクドは再び凍結の呪文を口にした。言い終わるか言い終わらないかといううちに、キイン、と鋭い音がしてカレドアが慌てて頭を伏せた。弾けた光の眩しさに思わず瞑った目を開けて、ロクドはぎょっとした。カレドアの背後の本棚が一段まるごと凍りついている。振り向いたカレドアも言葉を失った。

「増幅は……確かにされているようだが……」

「す、済みません」

「危険すぎるな。後で責任を持って、この一段全体に暖めと乾燥の魔法を掛けておいてくれ……紅玉も駄目か。おそらく、そうだな、性質が正反対なんだ……硬すぎるのか?」

 ぶつぶつと呟きながらカレドアが次の石を選んだ。

孔雀石マラカイトを試してみよう。この石は柔らかい」

 綺麗な縞模様の入った深い緑色の石だ。ロクドは幾ばくかの期待をかけて呪文を唱える。しかし、この石も話にならなかった。ロクドの呪文に触れた瞬間、今度は真っ二つに割れてしまったのだ。ロクドは思わず悪態を吐いて、石を手放した。

「ごめんなさい、弁償しなくちゃ」

「構わないよ」

カレドアは気にした風もなく鷹揚に言った。

「どうせもう使うあてもない。私は新しく弟子をとる気もないし……元はといえば、全部私の師匠から貰ったものだからな」

 その言葉を聞いて、カレドアにも師と呼ぶ人物がいたということを、ロクドは意外に思った。考えてみれば、カレドアが魔術師である以上誰かに師事して学んでいたであろうことは明白なのだが、なんだか想像できなかったのだ。カレドアは何十年も前から、それこそ生まれたときから魔術師だったのではないかというような気がしていた。

「それはいいとして、次をどうするか……蒼玉サファイアも試してみる価値はあるが、また色々なところを氷漬けにされたら困るな……」

 悩んでいる様子のカレドアをぼんやり見つめていたロクドは、ふと胸元に妙な違和感を覚えた。熱感だ。弱く、しかし規則的に脈打つような。服の上から手で探り、すぐにその正体に気付く。ロクドは首飾りの石を襟口から引っ張り出した。ちょうど悩んだ末に蒼玉を取り出したところだったカレドアがロクドの手元に目を向けて、眉を持ち上げた。

 青い石は仄かに熱を持ち、柔らかく発光していた。

菫青石アイオライトか」

 カレドアが意外そうに呟く。

「それは?」

「村を出るときに、母親に持たされたものです。きっとおれを守ってくれるはずだから、肌身離さず持っているようにと」

 カレドアはそれに触れようとして、突然熱いものに触ったかのように手を引っ込めた。小さく息を吐き出して、言う。

「それは……ルースの祝福を受けているな」

「そういえば――母がそんなことを。母の家に伝わる、大切な石だと言っていました。考えてみれば、母の先祖はもともとトラヴィアの方から来たのだと聞いたことがあるので、かつてメルパトス神殿で祝福を授けてもらったのかも」

 ロクドの説明を聞いて、カレドアは、

「そうか」

とだけ言った。

「これで、試してみてもいいですか?」

「試してもいいが」

 カレドアは首を振った。

「その必要はないだろう。明らかだ。自分でも分かるだろう、きみとそれとは既に共鳴しあっている。他の石の影響を受けて、心臓石としての性質が目覚めたんだな」

 首飾りの菫青石はとくり、とくりと小さく脈動し続けていた。ロクドの心臓が音を刻むのと同じテンポで、光が強まったり弱まったりしている。ロクドは石をそっと握りしめた。かつておそろしい闇の中でロクドを励ましてくれたこの石が、今自分を選んだということが嬉しかった。

「それでは始めるとするか」

「始める?」

「何のためにきみはここで長々と時間を使ったんだ。決まっているだろ、それときみとを正しく繋ぎ合わせる儀式だ」

 呆れたようにそう言って、カレドアはロクドに首飾りと手袋を外すように言った。

「やれやれ、指輪だの、腕輪だのに加工する手間が省けていい」

「呪文は、先生が唱えるんですね」

「そうだ、心臓石と魔術師とを結ぶ魔術は自分では掛けられない。これもかつて意図的に儀式に組み込まれた一つの防御機構だな。師が一人前と認めたものにしか心臓石は与えられないということだよ」

 カレドアはロクドの剥き出しの手に石を握らせ、その上に右手を翳した。目を閉じようとして、思い出したようにこう言う。

「私が呪文を唱えるのは一度きりだが、覚えておきなさい。もし将来きみが弟子を持つつもりなら必要になる」

 そしてカレドアは目を閉じ、少し思い出そうとするような間があって、静かに儀式は始まった。それは、長い詠唱だった。歌うような旋律のついたカレドアの声は、高くなったり低くなったりしながら穏やかにロクドの手と石とに染み込んでいく。石の光は次第に強く眩くなり、右手を透かし始める。ロクドは目を細めた。熱を持った石は呼吸しているかのように規則的に、力強く脈打つ。ロクドは自分が何か神聖な、温かいいきものを握っているかのような錯覚を覚えた。握りしめた右手から、穏やかな痺れにも似た熱がゆっくりと伝わっていく。ロクドは目を瞑り、意図して呼吸を緩めた。じわじわと這い上ってきた熱感は、右の肋骨を伝う。胸骨へと沁み渡る。左の肋骨へと続き、両の肺をやさしく満たす。そして、ついには心臓を包み込んだ。

 次の瞬間、煌々と石から放たれていた光が消えた。

 ロクドは目を開き、石を包んだままの自分の拳を呆然と見つめた。いつの間にか詠唱は止んでいた。カレドアがゆっくりと二回瞬きをして、翳していた手を離す。

「おめでとう」

 カレドアが静かに言った。

「これできみは一人前だ」

 ロクドは石にくっついてしまったのではないかというほどに固く握り締めていた指を、一本ずつ開いていった。儀式の前と変わらぬ菫青石がそこにあった。様々な角度から観察する。深い海の青、澄んだ泉の透明、枯草色。しかし、ロクドには自分自身とその石がしっかりと結びついていることが感じられた。ロクドは首飾りをかけ直すと、石の上から自分の胸に手のひらを当てた。全身が暖かく、穏やかな気分だった。石を通して、清廉な魔力の流れが力強く循環しているのを感じる。ロクドは溜息を吐いて、カレドアに向き直った。

「ありがとうございました」

 カレドアは微笑んだが、その表情はすぐに溶け去った。目を細め、若者に忠告する年長者の顔になる。

「ロクド、気をつけるように」

 ロクドはカレドアの黒曜石の双眸を見つめ返した。カレドアの瞳はやはり光を映してはいなかった。夜の雫を垂らしこんだような、真っ暗な泉の底を覗き込んだような全き黒が、ロクドを真っ直ぐに見ていた。

「きみは慎重にならなければならない、これまでよりもずっとだ。特に、害意は危険だ。常に安定した心を保つこと。きみが人を傷つけたいと願えば、石は敏感に察知する。手に負えぬほどに増幅された闇は、きみの想像以上の鋭さで相手を刺し貫くだろう」

 カレドアは言った。

「だからこそ、それは一人前の証なんだ」

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