第10話
ロクドは小路の石畳の上に佇立していた。煌々と輝く月明かりを受けて、ロクドの身体は地に淡い影を落としている。周りは水を打ったように静まり返り、ただロクドの呼吸する音だけが無人の路地に響いていた。剥き出しの足の裏から、初春の冷たさが染み込んでくる。
この前とは別の路地だった。
路地も違うが、一度目との一番の違いは左腕の痣がちらとも痛まないというところだ。心が驚くほどに凪いでいる。ロクドは、黙ったまま歩き始めた。石畳の上で、柔らかい裸足の足音がひたひたと鳴る。どちらに歩いていくべきか、ロクドには不思議と分かった。導かれるように細い横道に入り、小径を抜けて、また別の通りを進む。今度はさっきよりも少し広い通りで、驚いたことに街灯が点々と灯っていた。眠るひとびとの気配さえ感じられない真っ暗な街の中で、ロクドの行く道だけが照らされているのだった。
水の音が近づいてくる。
水路の一つが側を通っているのだろう。ロクドは最後の街灯のある角を折れて、水路と交差する道に出た。
水路を跨いで緩やかなアーチを描く、白い橋。その欄干に凭れかかるようにして、ほっそりとした人影が立っていた。ヨグナだ。
ロクドの姿を認めると、ヨグナはそっと呟いた。
「不思議」
その声は夜のひんやりした空気に溶け込んでしまいそうなほどに小さな声だったが、ロクドにははっきりと聞こえた。ヨグナはやはり全身を輝かせている。
「ここは、夢の中なんだわ」
「そうだとしたら、これはきっときみの夢だ」
「そうなのかも」
ロクドはヨグナに歩み寄り、隣に寄り添うようにした。欄干に腕を置き、水路を眺める。流れつづける水は清らかな月明かりを絶え間なく反射し、二人の服にきらきらとした光の欠片を映していた。
「きみがまた呼んでくれるのを待っていた」
「わたしが?」
「そう。聞きたいこともたくさんあった。おれはあのあと、何度もきみの住む通りへ行ったっていうのに」
「わたし、本当のことだと思ってなかったの。夢だと思ったわ。だって、気付いたら朝になっていたし、わたしは布団の中にいた」
「おれもそうだった」
ロクドは微笑んだ。肌寒さはもう感じなかった。ヨグナの光が、ロクドの全身を優しく照らし、温めていた。最後に夢の中でヨグナに出会ったのは半年近くも前なのに、つい昨晩のことのように思えた。
欄干を背にしていたヨグナが、身体を反転させて水路を覗き込むようにした。
「聞きたいことって?」
「きみのことだ。きみが一体どんな人間で、どんな家族がいて、どんな風に暮らしているのか」
それを聞いたヨグナは、少しの間答えず、欄干の上に真っ白な両腕を乗せて目を閉じた。ロクドは、ヨグナの横顔を見つめた。目を閉じると、睫毛の長さが際立った。まろく滑らかな頰が、とろりとした光を放っている。暫く、ヨグナはそうしてせせらぎの音を楽しんでいるように見えた。それから目を開けて、ぽつりと言った。
「家族は、いないわ」
ヨグナはロクドの方を見なかった。月の光のように静かな声だった。
「わたし、拾い子なの。棘の森の中の小さな川のへりで、赤ん坊のわたしは見つかった。ナバリの村の狩人たちが、慌てて連れ帰ったの。ざわめく村人たちの中から、子どもを生んだばかりの女の人が一人進み出て、わたしを抱き締めた。その人がわたしのお義母さんになった……」
ヨグナの口調は誰か別の人間について語るかのように淡白だったが、顔には遠い思い出を懐かしむような表情があった。
「でも、村はわたしを受け入れなかった。〈瘴気の大平原〉の近く、森の中でたった一人見つかったわたしが不気味に思えたんでしょう。わたしは、森のもとの場所に返されることになった。でもね、村の人たちを責めることはできないわ。彼らにも家族がいたし、守らなくてはならない子どもがいた。どこの子とも知れないわたしに同情した結果、村に呪いが持ち込まれるようなことになったら、取り返しがつかないもの。お義母さんだけがそれに強く反対した。村の人たちは、お義母さんは魔に魅入られていると言った。実際にそうだったのかもしれないと、わたしでさえ思うわ。お義母さんは、自分の幼い子どもと夫を置いて、わたしを連れて村を出て行ったのだから」
ヨグナはそこで一旦話を切った。
「こんな話、つまらない?」
ロクドは首を振った。
「きみが嫌でなければ。それで、きみはトラヴィアへ来たの?」
「そうね。母は小さなわたしと二人で森を抜けた。今考えると、とても信じられないことだわ。あの恐ろしい森を、女性がまだ伝い歩きも出来ない子どもと一緒に歩いて抜けるだなんて。もう少し大きくなってから、わたしは何度かお義母さんにそのときのことを尋ねたけれど、彼女は覚えていないとしか言わなかった。あまりにも必死で覚えていなかったのか、それとも記憶が曖昧になるほど恐ろしい思いをしたのか……」
ロクドは、なんとなくヨグナが彼女の義母を守ったのではないかと思った。根拠はないが、ヨグナは生まれつき、闇を退ける力を持っているような気がした。ヨグナが自分の腕の痛みを癒したときのことをロクドは思い出していた。
「トラヴィアには辿り着いたけれど、それからがお義母さんにとっては試練の連続だった。乳飲み子を連れてたった一人村から出てきた母親なんて、どこも雇ってくれるはずはないものね。勿論気味悪がられたし、まともな職業にはつけなかった。でも、お義母さんはまだ若くて美しかったから、身体を売って生活することができた――それで、なんとかわたしを育てた。そのうちに、お義母さんは男の人の家に出入りするようになったわ。気のいい商人で、お金を沢山持っていたから、お義母さんはわたしの為にその人と暮らし始めたのね。それでも、その人は優しかったし、お義母さんにもわたしにもよくしてくれた。わたしはまだ小さかったから、当時のことをはっきりとは覚えていないけれど、多分その頃がわたしの人生の中で一番幸せなときだったと思う」
ヨグナは欄干の上に両手を重ねた。それは、傷つけたくない大切な記憶をそっと包みこもうとする仕草にも見えた。
「だけど、それも長くは続かなかった。彼は商売で大きな失敗をして、それから全てが悪い方向へと転がっていったの。品物の主要な流通経路になっていた町が、流行り病のせいで壊滅してしまったのが一番の原因だった……仕事が立ち行かなくなって、生活はあっという間に貧しくなってしまったし、彼は人が変わったようになってしまった。でも、今思えば多分変わってしまったんじゃなくて、本来の姿に戻っただけだったんだと思うわ。物質的な豊かさが、贅肉のようにもともとの彼の本質を包み込んで、まあるく見せていたのね」
話の中で、ヨグナが一度もその男のことを「お義父さん」とは呼ばなかったことにロクドは気付いた。ヨグナはそこで少しの間口を噤んで、ゆっくりと息を吐き出した。
「そのあとは、特に話すこともないの。お義母さんは程なくして酷い風邪を拗らせて、そのまま胸を患って死んでしまった。もともと丈夫な人ではなかった。お義母さんは随分と長い間苦しんだけど、最期までお義母さんは嘆いていた、わたしを遺していくことを謝っていた。謝らなくてはならないのはわたしのほうだったのに。わたしがいなければ、お義母さんは幸せでいられたのに」
それまで淡々と語っていたヨグナが、突然激情の波に駆られたように苦しげに絞り出した。痛みを堪えるように俯いて、欄干に強く胸を押し付ける。彼女の形のよい爪が、固い石の上にきつく立てられているのをロクドは見た。
「どうして、お義母さんはわたしを選んだんだろう。優しい人だった、きっと、ずっといい人生を送れた。わたしを選んだのは間違いだった……」
「そうじゃない」
思わずロクドはそう遮っていた。
「それはきみが決めることじゃない」
ヨグナは虚を衝かれたように此方を見ていた。勝手に飛び出した言葉に、ロクド自身も驚いていた。
「結局本人にしか何が正しいかなんて分からないんだ。きみのお義母さんはそれが正しいと思ったから、そうしただけだ。その決断を、誰か別の人間が評価することはできない。例えそれがきみでも」
続きはすらすらと出てくる。まるで誰かがロクドの口に魔法を掛けたかのようだった。そうか、とロクドは思った。かつて依頼人の父子を帰したあとでカレドアの言った台詞の意味を、サリマトの言葉の意味を、ロクドは今漸く理解した。ヨグナの苦しみに比べたら、あの少年の一件は大した問題ではないのかもしれなかった。しかし、問題の大小や深刻さの度合いに関係なく、このことだけは変わらない事実なのだとロクドは思った。結局、どの決断が最善かなんて後になってみなくては分からないし、突き詰めてしまえば何もかもは自己満足に過ぎない。他の人間が関わるときは尚のことだ。だからこそ、決断するものは責任のすべてを負わなくてはならず、その代わりに決断のすべてを自分のものにする権利を得る。
ヨグナは、黙ってロクドの言葉を聞いていた。そして、ただ一言、
「ありがとう」
と言った。ロクドは何と返したらいいか分からなくなって、暫く口籠ったあと、話の続きを促すことにした。
「それじゃあ、前に言ってた小父さんっていうのがその?」
ヨグナが頷いた。
「あの家に住み始めてからは、まだ四年程しか経っていないけれど」
「ということは、丁度、おれがここに来た頃か」
そう呟いたロクドの顔を、ヨグナがふと覗き込むようにした。
「ねえ、ロクド。あなたのことも、教えてほしい」
ヨグナは柔らかく微笑んでいた。ロクドは心臓に素手で直接触られたような、どきりとする感触を味わったが、それはけして不快ではなかった。未知の感覚に、思わず胸元の菫青石を握り締める。どこから話したものかと、ロクドは一瞬躊躇った。ヨグナの、石英のように透き通った亜麻色にも琥珀色にも見える瞳が、じっとロクドが話し出すのを待っている。ロクドは一回穏やかな深呼吸をすると、一番初めから、ゆっくりと話し始めた。
随分と長いこと話していたと思う。
お互いに過去を打ち明け合ったあとは、驚くほどに心がすっきりとした。ヨグナからこんこんと湧き出す光の波動が清廉な湯となって、ロクドの汚れと澱みを洗い流してくれたようだった。村を出て以来、その存在を忘れてしまうほど長い間背負いつづけていた重たい荷物を少し下ろしたような感覚が、ロクドにはあった。今は二人の間に言葉はなかったが、何か浄らかで温かい感情が確かに二人の間を繋いでいた。二人は暫く無言で顔を合わせていたが、今のロクドには、ヨグナの姿がとても美しく見えた。顔の造形が変化したという訳でもないのに、不思議だった。ヨグナはロクドの目を見つめながら、何か考えこんでいる。
「本当に、あなたの瞳は綺麗だと思う」
出し抜けにヨグナがそう言って、ロクドは思わず目を見開いた。真面目な顔をしたヨグナをまじまじと見つめて、思わず噴き出しそうになる。自分が奇妙な表情になっているのを自覚しながら、ロクドは指摘した。
「そういう台詞は、普通女の子が男に言うものじゃあないんじゃないか?」
「でもあなたのお母さんはそう言ったんでしょう」
「かあさんは別だよ」
ロクドは今度こそ声を上げて笑った。ヨグナが戸惑ったように視線を彷徨わせている。その水晶玉のような瞳を見て、ロクドは無理矢理笑いをおさめた。
「きみも……その、きみは……」
「なに?」
「いや……」
ヨグナに見つめられた途端に言葉がつっかえて出てこなくなった。仕方なく、ロクドは予定を変更して、別の言葉を口にする。
「今度は、君に会って話をしたいな」
「今、話をしているじゃない」
ヨグナがおかしげに言った。そうじゃない、と首を振る。
「夢の中じゃなくて、現実のきみと」
それを聞いた瞬間、突然ヨグナの表情が翳った。視線を逸らし、白い顔を俯けてしまう。徒らに吹き付けた強風にあおられて、厚い雲が満月を覆い隠してしまったかのように。不意に額のあたりを冷え冷えとした感触が横切って、ロクドははっとした。
「それは……多分できないわ」
どうして、と尋ねる前に、ヨグナがぱっと顔を上げた。ヨグナは元通りの笑顔を浮かべようとしていたが、それはどう見ても失敗に終わっていた。
「現実の私は、光っていないし」
「そんなこと」
ついさっきまで二人を繋いでいた柔らかな糸がふつりと途切れ、たちまちのうちに何者かの冷ややかな腕が二人の間に横たわったようだった。穏やかな時間の終わりを察知して、言葉にならない口惜しさを覚えながらロクドは続けた。自分の言葉の何が問題だったのか、分からなかった。
「勿論分かってるけど」
「ごめんなさい」
ロクドは、ヨグナのその言葉の意図を捉え損ねた。複雑な感情の篭められた「ごめんなさい」に聞こえた。ヨグナはもう一度努力して微笑んでみせて、呟いた。
「わたしたち、そろそろ戻ったほうがいいわ。どうしたら帰れるのかしら――その、つまり、夢から覚められるのかしら」
「多分、きみが帰りたいと願えば」
ロクドは全身を湿ったつめたい布で包まれたような気分で答えた。
「この前はそうだっただろう」
ヨグナが頷いた。瞼を下ろし、おそらくはこの夢から覚めることに意識を集中しはじめる。ロクドは、何も言えずにヨグナを見つめていた。それ程時間が経たないうちに、この前のように空間が揺らぎはじめる。橋の欄干が歪んで、霧と同化しようとする。ヨグナの華奢な肩の輪郭が、靄の中に溶けてしまう。最後に何か伝えたかったが、やはり言葉がうまく出てこない。舌の付け根にしがみ付いて喉を詰まらせる再会の約束や別れの挨拶の隙間から、さっき言えなかった言葉が滑って転がり落ちた。
「きみは綺麗だ」
それは確かに本心だったが、次の瞬間、霞に紛れようとするヨグナの表情を見たロクドは息を飲んだ。
ヨグナはひどく悲しい顔をしていた。
「わたしは、綺麗なんかじゃないわ」
ヨグナのその声は、ロクドが朝の光の中で目を覚まし、起き上がって顔を洗いに階段を降りていったあとも、ずっと耳の奥に残り続けた。
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