第11話

 その日は、いくら待ってもいつもの場所にサリマトは姿を現さなかった。

 別に勝手に昼食を摂っていてもよかったのだが、なんとなくそんな気分でもなくて、ロクドは空きっ腹を抱えたままサリマトを待った。サリマトは、簡単に約束を反故にするような女ではない。どうしたのだろうかと幾ばくかの不安を覚えながら、俯いて爪先で石畳を擦っていると、ロクドの視線の先に草臥れた革の半長靴が飛び込んできた。視線を上げると、サリマトの弟弟子のラバロだ。急いでここまで来たらしく、ほんのり息を弾ませている。

「悪いな、サリマトと約束してただろ? お前、待ちぼうけ食らってるだろうと思って」

「別に約束ってほどのものでもないけど」

ロクドは戸惑いながら答えた。

「サリマトは、どうかしたの? もしかして、病気とか」

 ラバロはその問いに答えるまでに、僅か逡巡したように見えた。

「病気じゃあない。ただ、なんというか今朝――あいつにとってひどく辛い知らせがあって」

「元気じゃない?」

 ラバロが頷く。

「お前との待ち合わせに来られなかったことからも分かるだろ。それくらいに」

「何があったか、おれが聞いてもいいのかな」

 ラバロが唇をぐっと引き結んだ。サリマトと同じ、いつも飄々として陽気な気性を持った彼がそんな顔をするのはとても珍しいことだった。ひどく苦い粉薬を無理矢理に飲み込もうとするような表情をする。重々しく息を吐き出して、ラバロがつらそうに言った。

「シーラ村が――シーラ村の民が」

「サリマトの故郷が?」

「全滅した」



 ガーダルの家に着くと、サリマトは彼女の自室でぼんやりとしていた。涙を流してこそいなかったが、サリマトからは平素の彼女が髪の毛の一本一本、爪の隅々まで満たしている生命力といったものが、おおよそ感じられなかった。彼女の座る寝台の上に、封蝋を丁寧に剥がされた手紙が丸まっていた。読むときに手に力が篭ったのか、端の方にきつく皺が寄っている。部屋の中には、午後の日差しが帯のように射し込んで、ちらちらと浮遊する埃を黄金色に浮かび上がらせていた。サリマトはラバロの背後にロクドの姿を認めると、「ああ」と言った。のろのろと謝罪する。

「今日は、そうか、土の日か。ごめん」

「いいよ、そんなこと」

 ロクドがそう答えると、サリマトは爪先に目を落とした。ロクドは何か声を掛けようとして、結局何の言葉も発することができなかった。こんなことばかりだと思う。この前も、ヨグナのときも。ロクドは嫌になるほど未熟だったし、無力だった。ただ一人前の魔術師の証である心臓石ばかりが、胸元で輝いている。

 サリマトはけしてこの間のようには微笑まなかったが、その口調は淡々としていた。

「あたしは何のために治癒魔術を身に付けたんだと思う?」

 それは質問の形をとってはいたが、その実彼女が答えを求めていないことは明白だった。もとより、その問いに答えなどあるはずもない。ラバロが敢えて平坦に言った。

「お前にはどうすることもできなかったことだ。お前自身、分かってることなんだろ」

 サリマトはそれを聞いて、

「そうかも」

と言った。

「でも、そうじゃなかったかも。そういう思いが、どうしても拭い去れないんだ。村のみんなはもう死んでしまったから、あたしがその答えを得ることは二度とできない」

 ロクドはつめたい氷の針で胸を刺し貫かれたような気がした。ロクドは呪いを解かない限り――その方法が実際に存在するかどうかは別として――二度と村に帰ることはできないが、けして父や母が死んでしまったわけではない。少なくとも自分の故郷は禍を免れているだろうということ、それだけは分かっている。姿を見ることは叶わずとも、それはロクドの救いであり慰めであった。しかし、サリマトにとって故郷を失ってしまったことは、もう取り返しのつかないことなのだ。

 ロクドと共にサリマトの部屋を出てから、ラバロは、呟いた。

「早すぎる」

 ロクドはラバロの顔を見る。ラバロは苦々しげな顔をして、考え込んでいるようだった。

「まだ半年も経たないのに。普通、病がこのような広がり方をするだろうか? ガレにしろ、アルメナにしろ、何かがおかしい。そうは思わないか……。いや」

 ラバロが自分の頰に爪を立て、溜息を吐いた。

「お前にそんなことを言ったってどうしようもないよな。気にしないでくれ」



 ラバロと別れたロクドがカレドアの家に帰ってくると、意外な客人が長椅子の中央を陣取っていた。脇に立てかけられた太い樫の杖。

「ロクド、ガーダル殿がお帰りだ」

「それがたった今来たばかりの客人に対する態度か」

「呼んでいない」

 カレドアがガーダルの来訪を歓迎していないのは明らかだった。首を傾け、揃えた指先でこれ見よがしに出口を示してみせる。

「客がいつも呼ばれて来るものだと思うのか?」

 一向に気にした様子のないガーダルが、懐からパイプと何やら包みを取り出した。薄い石蝋紙に包まれていたのは、何枚かの上等な水晶煙草の葉だ。年配の魔術師が街角で吸っているのを時々見かけるが、ガーダルが取り出した葉はロクドの知るそれよりも格段に透明度が高く、高価なものであることが窺えた。ガーダルの節くれだった指がその一枚を摘み上げ、ぱりぱりと砕いてパイプに詰める。魔法で火をつけたそれを、ガーダルはうまそうに吸い込み、長々と吐き出した。靄のような薄紫の煙は、ロクドの見ている前で美しい一匹の魚に変わり、長い尾鰭をひらつかせた。魚はすいすいと鼻先を泳いで通りすぎ、ロクドは思わず咳き込んでしまう。カレドアは、次いで彼の襟元に纏わりついた煙の魚を嫌そうに手で払った。ガーダルがにんまりと笑い、開いた包みをカレドアに差し出す。

「おぬしも吸え」

「水晶煙草は好かない」

 ガーダルが手を引っ込めないので、カレドアは溜息を吐いて立ち上がり、棚の引き出しから古びたパイプを取り出した。透き通って青みがかった葉の一枚を選んでパイプに詰め、顔を顰めながら同じように煙を吸い込む。カレドアが吐き出した煙は淡い水色で、これは優雅な蝶の姿に変わった。暫くその蝶が羽搏くのを追いかけていたガーダルの目が、カレドアを向いて細められる。

「何故会合に出ない」

「私など居ても変わらん」

カレドアはにべもなく言った。

「他の魔術師は何と言っている? 特別取り柄もない、役にも立たない私のような魔術師の話など出てやしないだろう」

「ふん、わしは騙されんぞ。何故そうまでして昼行灯を装う」

「ガーダル」

 呆れたように片眉を上げて、溜息でも吐きたげにカレドアは首を振った。

「君は私を買いかぶりすぎだ。君ほどの名の知れた大魔術師殿にそこまで評価していただけるのは光栄なことだが――」

「カレドア、ふざけておる場合じゃあない」

 煙の蝶がきらきらとした鱗粉を撒き散らしながら、カレドア自身の肩に止まった。

「ここ十年ほどに頻発する奇病、土地の荒廃。全身に痣ができる、身体が石になっていく、川が毒に変わり、指が腐り、髪や歯が抜け落ちる……」

「恐ろしい話だな」

「トラヴィアに結界を貼り直そうということになっておる」

「そしてこの街だけ守ろうと?」

 パイプから煙を吸い込み、蝶をもう一匹生み出したカレドアが皮肉げに口元を歪めた。伸ばした人差し指をぐるりと動かしてみせる。

「第一、瘴気を阻もうというならご立派な壁がもうあるじゃないか」

「あれでは不十分だ」

 ガーダルが厳しく言った。煙の魚が膨らんで、生まれたばかりの蝶を飲み込む。

「原因は〈瘴気の大平原〉ではない、分かっておるだろうに」

「では何だと?」

 目を眇めて薄く笑い、カレドアが挑戦的に問い掛けた。ロクドも思わずガーダルに注目する。ガーダルはカレドアを睨んで一瞬口を噤み、それから重々しく述べた。

「外から来たものではない、とわしは思う。病はうつらない。わしのところにも何人か患者が運ばれてきたにもかかわらず……この街ではまったく新しい患者は出なかったのだ。あまりにも妙だと思わんか? 町や村を一年も経たずに滅ぼすような病であれば、相当感染力が強いと考えるのが妥当ではないか? カレドア、わしにはこれが流行り病だとは思えんのだ。しかし、実際には町や村の単位で、次々に侵されておる――冬の間土の中で眠っていた種が、春になって芽を出しはじめたように」

 その例えを聞いて、ロクドは目を見開いた。反対に腕組みをして目を瞑り、背凭れに寄りかかったカレドアを見て、ガーダルは僅か身を乗り出した。

「わしらに加われ、カレドア。これは簡単に解決できる問題じゃない」

 カレドアは苦々しげに顔を横向け、人差し指と中指とで眉間を抑えた。

「悪いが……ガーダル、私はこの一件に関わる気がない」

「おぬしとてこの街に住む以上無関係とは言わせんぞ」

「私には関係ない」

 カレドアは頑なだった。声を荒げもせず、冷淡な否定ばかりを紡ぐ。ガーダルがパイプを卓上に叩きつけた。火の付いたままの水晶煙草の欠片が飛び散り、マホガニーのテーブルに点々と焦げ跡を作る。ガーダルの小さな目が吊りあがり、ごつごつした岩石に出来たひび割れのような口は裂け、鬼の形相になった。低い声で唸るように言う。

「サリマト――わしの弟子の故郷が一つ消えた。最初に病があらわれてから半年も経たないうちに、だ。今にここも同じになるぞ。二つ目の〈大平原〉だ」

 カレドアは微動だにせず、黙っていた。背の低いテーブルを挟んで、痺れるような緊張感が走る。カレドアのパイプから立ち上る細く薄青い煙だけが、睨み合う二人の間で揺らめいていた。ロクドは暫く逡巡したのち、声を発した。

「あの」

 ガーダルとカレドアの二つの視線に同時に射抜かれ、ロクドはたじろぐ。

「おれの、この手を見てくれませんか」

 意を決して、手袋を外した。ガーダルに歩み寄ってよく見えるようにする。ロクドのどす黒くひび割れた左腕を目の当たりにして、ガーダルが目を瞠った。

「これは」

「ネルギの村の呪いです。長老は、村に留まれば必ず災厄を齎すと。シーラやガレを滅ぼしたのは、これと同じものだとおれは思うんです」

「ネルギの長老といえば……ザハンか」

 ロクドが不思議そうな顔をしたのを察して、

「昔にちょっとな」

とガーダルは右手をひらひらと左右に振った。その手を伸ばし、断りもなくロクドの痣に触れる。暫く皮膚の性状や関節の可動範囲、痣の広がりを観察し、矯めつ眇めつしたあと、ガーダルはロクドの左手を解放した。

「確かに、これは村や町を滅ぼしているものの一部だと思う。ネルギから病が出たという話も未だ聞かぬ。カレドア、何故黙っておった」

 ロクドはカレドアが何か答える前に、口を挟んだ。

「おれは、この呪いを解きたい。方法を探しているんです。ガーダルさんは治癒魔術の専門家ですから――何か手掛かりだけでも」

 ガーダルが顔を歪ませ、難しい表情になった。

「その呪いはおぬしと離れがたく結びついて、一つになっておる。そう簡単に引き剥がすことはできまいて」

 なんとなく予想していた答えだったが、それでもやはり落胆は隠し切れなかった。ロクドの表情に失望を見てとって、ガーダルは諭すように付け加えた。

「しかし、解けぬ呪いなど存在しない……そのためには、呪いの根源を知らなくてはならぬ。呪いには理由がある。呪いの始まりとなった何か、その鍵を手にすることができればおぬしのそれを解く糸口も見つかるじゃろうな」

「理由……」

 考え込むロクドから視線を外し、ガーダルは樫の杖を引き寄せた。テーブルに手を付いて立ち上がろうとして、カレドアをきつく睨みつける。

「今日のところはここで帰る。いいか、次の会合には必ず参加しろ」

 ガーダルは指でテーブルをひと撫でし、見送ろうとするロクドも待たずに玄関から出て行った。テーブルの上のさっきの焦げ跡は、そのときには綺麗さっぱり消えてなくなっていた。


 ガーダルが帰ったあとも、カレドアは腕組みをしたまま貝のように口を閉ざし、身動き一つせず肘掛椅子に座っていた。ロクドはかつて父親が機嫌を損ねたときに、同じようにいつまでも腕組みをして黙りこくっていたことを思い出した。今度はロクドが長椅子に腰掛けて、カレドアに話しかけることにした。

「どうして手伝わないんですか」

「私が手伝ったところで――」

「先生が役に立たないだなんて」

 ロクドは仏頂面のカレドアに向かってかぶりを振る。

「おれはそうは思いません。何か理由があるんじゃないんですか?」

「言っただろう、私はそもそも関わりたくないんだ」

「でも……」

 そこで、カレドアは肘掛を掴み、やおら立ち上がった。未だ座ったままで、唐突なカレドアの挙動に戸惑っているロクドを見下ろす。そのまま黙って何も言わないので、ロクドはおずおずと尋ねた。

「ど、どうしたんですか」

「ロクド、夜は空いているな」

「夜?」

「外で酒でも飲もう。あと四……いや、三時間で今日の仕事を片付けるように。この後依頼人が来ても追い返せ」

 そう言い残すと、カレドアは自分の仕事を片付けるべく、足早に書斎へと歩いていった。後には呆気に取られたロクドが残された。

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