第27話

 ライネルの日長石は、思ったよりも下の方まで転がっていったようだった。ライネルが携帯蝋燭に灯した小さな炎で照らす限り、近くには落ちていない。振り向くと、〈扉〉は既に再生し、新たな侵入者を拒もうとしていた。一度解かれても、すぐに自らの意思で織り上げられるような術式が組まれているらしい。結界は外側に向けて組まれているようなので、此方から出るときにはおそらく特別な手順を踏む必要はないだろう。地下は、僅かな物音でもぎくりとするほどに響く。二人は出来るだけ足音を殺しながら階段を降りていった。

「見つからないか」

 足元を照らすライネルに、レドニスは小声で囁きかけた。ライネルが首を振る。

「一番下まで転がり落ちたのかも。夜明けまではあとどの位だ」

 今度はレドニスが首を振った。

「でも、まだ時間はあるはずだ。月はまだ高い位置にあったからな」

 磨き上げられた冷たい石の階段を、一段一段時間を掛けてゆっくりと下る。緊張感と焦燥感で心臓が焼き切れてしまいそうだ。息詰まる永遠のような時間が過ぎて、ついに一番下の床を踏んだとき、ライネルが小さく声を上げた。

「あった」

 ライネルの日長石は、首飾りの紐をつけたまま転がっていた。炎を翳すと、橙色の反映がちらちらと黒色調の石床に踊る。レドニスは安堵の溜息を吐いた。

「早く拾え」

 頷いてしゃがんだライネルが紐を摘み上げ、首飾りを手に立ち上がった。階段の一段に足を掛ける。戻るぞ、と囁きかけた唇は反射的に炎を吹き消した。

 話し声が聞こえた。

 階段の突き当たり、石壁の角を曲がった、暗闇の向こうから。地下に、複数の人間がいる。確かに、話し声がする。

 ひえびえとしてどす黒い闇の中で、レドニスとライネルはお互いの目だけが微かに浮かんでいるのを見た。二人は呼吸と、全ての動きを止めた。

 話し声はだんだん大きくなってくる。次第に、硬質な足音も響いてきた。近付いてきている。心臓がばくばくと鳴る。それがあまりに激しいので、ともすれば地下に響き渡ってしまうのではないかとおそろしくなる。手足の先から凍りつくように冷たくなり、震え出しそうなほどなのに、背や首筋にはひどく汗をかいている。呼吸が苦しい。音を立てずとも、このままではじきに声の主がここまでやってきて、レドニスたちを見つけてしまうだろう。

 ふと、足音が途切れた。また何事か話しあうような声があって、闇の向こうの集団は暫く立ち止まっているようだった。残酷なほどに長い一分が過ぎて、複数の足音はゆっくりと引き返しはじめた。レドニスは爛々としたライネルの目を見た。ライネルもレドニスの眸を覗き込んだ。お互いの瞳の中に、恐怖と緊張、そして安堵の色を見る。二人は息を押し殺したまま、足音が遠ざかっていくのを待つ。ライネルが、首飾りを握る力を強め、先に括り付けられた日長石が揺れた。

 最初から決められていたのかもしれない、と思う程の偶然だった。レドニスは、あとからこの瞬間を幾度も思い出すのだ。肌身離さず身につけられたライネルの首飾りの細い革紐は、ひどく傷んでいた。不運にも、その紐が限界を迎えたのが、今まさにこのときだった。

 ライネルの心臓石は、それ自身の重みと世界の理にしたがって、暗闇を滑るように落下した。時がひどくゆっくりと進み、それは二人の目にのろのろと映った。心臓石が硬い石の床にぶつかり、静寂を裂く高い音を響かせた。冷水を浴びせかけられたような感覚とともに、時が戻る。

「誰だ」

 鋭い声が飛び、忙しない足音が先程とは比べものにならない速さで近付く。一足先に硬直が解けたレドニスは、ライネルの腕を掴んで階段を全速力で駆け上がった。足がもつれるが、ここで転んだら最後だ。〈扉〉が見えている。すぐそこに見えている。二人を追う足音は駆け足になり、すぐ角のところまで近付いていた。ライネルがもたついている。レドニスは舌打ちをして、魔術を乗せた足で思い切りライネルを蹴り出した。ライネルの姿が結界の向こうに消えるや否や、レドニスは荒々しい呪文の帯に胴体を捉えられた。階段を引き摺り下ろされ、全身を嫌というほど打ち付ける。一番下まで到達するのを待たず、鉛のようにつめたく硬い帯がレドニスの身体を縛り上げ、壁へと叩きつけた。レドニスの両足は宙に浮いた格好で、靴の踵が虚しく壁を蹴る。ハウロの仲間に殴られた頭を再び強く打ち付け、レドニスは今度こそ意識を手放した。視界が靄に覆われる寸前、光を掲げレドニスを照らそうとする男と、その背後に立つ男の姿が目に入る。背後の男は、サルバローザだった。



 気が付くと、冷たい床に転がされていた。がんがんと痛む頭を擡げると、自分が窓のない牢の一つに閉じ込められていることがわかった。墓の底に横たわっているかのような冷たさが全身をじっとりと絡みつき、レドニスはがたがたと震えた。体のそこかしこに重苦しい疼きがあった。自分は一体どれだけの間ここで意識を失っていたのだろう。朝も夜も分からなかった。

 足音が近付いてきて、鉄格子の端に取り付けられた小さな扉が細く開けられ、パンが放り込まれた。パンは間抜けな音を立ててレドニスの鼻先に落ちた。途端に麻痺していた意識の中にライネルの顔が浮かび上がる。レドニスは弾かれたように状態を起こし、床を這いずって声を張り上げた。

「待って、待ってくれ」

 大声を上げたつもりが、喉から飛び出したのはか細い掠れ声だった。しかし、それでも足音の主の気を惹くには十分だったらしい。男はランタンを掲げ、レドニスを明々と照らし出した。牢の暗がりに慣れた目には眩しすぎる光に、思わず顔を背ける。

「なんだ」

 レドニスは「ライネルは」と言い掛けようとして、躊躇った。

「もう一人の男はどうなったんです」

「ライネルか」

 レドニスの配慮も虚しく、男は無情に言った。

「あれもここに捕らえられている。お前とは別の牢だが」

 絶望感がじわじわと身体の末端まで満たしていくのがわかった。ライネルも逃げきれなかったのだ。レドニスはのろのろと問いかけた。

「ここは地下ですか。私たちは、どうなるんでしょう」

 男は初めの質問には答えずに、二つ目の問いにだけ答えた。

「ザウツレン最高神祇官に意見を仰がねば。全てが決まるまで、そう時間はかかるまいよ」

 項垂れたレドニスを見下ろし、男は何を思ったか突然しゃがみ込んだ。レドニスの青い瞳を覗き込む。

「お前、どうして地下に足を踏み入れた」

「それは……ライネルの心臓石が投げ込まれて……それを回収しなくてはと思って……」

 レドニスは説明しようとしたが、頭がぐるぐる回って整理することができなかった。男はレドニスの支離滅裂な言葉を黙って聞いていた。混乱して声を詰まらせたレドニスは、ただの看守にしては男の身につけている長衣がとても上等であることに気付いた。見れば、ランタンを持つ手にはレドニスと同じように心臓石の指輪が嵌っている。レドニスは縋るように言った。

「私は地下で何も見ていないし、何も聞いていません。断じて。ライネルもそうです」

「そうか。しかし、残念ながらそれを信じることはできない」

 溜息が漏れる。考えるまでもなく当然のなりゆきだったが、やはりこたえた。男が呟いた。

「お前が〈扉〉を開いたのか」

 レドニスは力無く頷いた。これについて隠し立てしたところで、最早何の意味もない。男は立ち上がると、処分を大人しく待つよう言った。ランタンの灯りが男と共に遠ざかっていくと、牢の中は再び暗闇に閉ざされる。レドニスは再び石床に横たわりながら、やはりここは地下なのだろうと思った。そして、確かに目にしたサルバローザの姿を思い返し、色々なことを考えた。

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