第28話

 それから牢の扉が開かれるまでに、永遠のように長い時間が経った。もっともレドニスがそう感じただけで、本当はほんの一瞬しか経過していないのかもしれなかった。冷静な頭で考えてみれば、同じようなパンがあのあと二回放り込まれたから、一日二回の食事と考えると今は次の日の夜であると推測するのが自然だ。パンには一切手を付けなかったが、空腹は感じなかった。緊張状態だからだろうか。身体が衰弱しつつあるのはありありと感じられたが、頭の痛みは僅かにましになっていた。レドニスの牢を訪れたのは今度は二人組で、一人は前回やってきた髪の短い男、もう一人は少し背の低い魔術師だった。

「出ろ」

 小柄な方の男が、高圧的な口調で言った。レドニスは重たい身体を苦労しながら起こし、男を睨み上げた。

「ライネルは」

「お前の預かり知るところではない。さっさと出ろ」

「いやだ」

 レドニスは顔を背けた。

「ライネルのことを教えてください。彼の無事が分かるまではここを出ない」

「今すぐ殺されたいのか」

「どうせ末路は同じだ」

「そうではない」

 髪の短い男が突然口を挟んだ。

「お前は罪を免れることになった。その代わり、お前にはこれからわれわれのすることに加わってもらう」

 レドニスは呆気にとられて言葉を失った。

「お前の師に感謝するがいい。お前が優秀で、失うにはあまりに惜しい人間だとザウツレン最高神祇官に進言したのだ」

 脳裏に、魔術の光に照らされたサルバローザの顔が浮かんだ。師匠が俺を救おうとした?レドニスは僅かの間黙ったが、やはり首を振った。

「それでも、ライネルと一緒でなくては」

 小柄な魔術師が苛立ちを露わにし、レドニスを蹴りつけようとしたが、もう一人の男がそれを制した。二人は何も言わないまま牢を後にした。

 一度立ち去りはしたが、今度は先ほどよりも短い時間で男たちは戻ってきた。再び扉を開け、レドニスを見下ろす。男たちはもう一人、誰かを連れていた。レドニスは目を細める。それは憔悴しきった様子のライネルだった。魔術の鎖に両腕を繋がれている。しかし視線が合うと、レドニスはライネルの瞳が未だ輝きを失っていないことに気が付いた。髪の短い方の男がつめたく言った。

「お前の望み通りだ。出ろ」



 前後を二人の魔術師に挟まれるようにして、レドニスとライネルはひえびえとした廊下を歩く。静謐な通路に、四人分の足音が反響した。白を基調とした柱や壁の地上部分とは対照的に、廊下は黒々とした石床で息が詰まりそうな圧迫感があった。壁も味気ない石積みで、点々と取り付けられた壁燭台が行く手を示すようにぼんやりと浮かび上がっている。隣のライネルの様子を伺おうとした瞬間、レドニスは頬を風が撫ぜるのを感じた。この地下には窓もなく、扉もないように見えるのに。

「これからわれわれがすること、というのは」

 後ろを無言で歩いている男に、レドニスは小声で尋ねた。前の小柄な男よりも話しかけやすいような気がしたからだ。男は猛禽類のような眼つきでレドニスを一瞥した。

「とある儀式だ。重要な……しかし秘匿されるべき儀式だ」

「どうして秘匿されるべきなのです」

「殆どの種の人間にとって許容しがたい犠牲を伴うからだ」

「シーグラン」

 前を歩く魔術師が咎めるように低く唸った。シーグランと呼ばれた髪の短い魔術師は、反対に笑ってみせた。そうして笑みを浮かべると、冷たく鋭い目が細まった。

「どうせ今から彼らも同席するんだ。ネガン、何を隠すことがある」

「犠牲とは、具体的に何を指すのですか」

「生贄だ。われらの信仰するルーメス教は十年に一度、人間の生贄を必要とする」

「生贄だと」

 レドニスはその言葉の野蛮な響きに頭をがんと殴りつけられたような錯覚を覚えた。生贄など、かつて未開の地の荒っぽく原始的な信仰で用いられていたような、唾棄すべき稚拙な慣習ではないか。これまで黙りこくっていたライネルが、思わずと言ったように噛み付いた。

「馬鹿な、そんな記述は今までどの文献にも――」

「少しは考えろ。今日までひた隠しにされてきたこの儀式が、文字に記されている筈がない。ライネルと言ったか。残酷で野蛮な、前時代的な儀式だと思うだろう。だからこれまで固く口外を禁じられてきた。しかし、この生贄の儀はルーメス教のはじまりから、今までずっと変わることなく秘密裏に続けられているものなのだ」

「何故……そんな……」

 レドニスが乾いて上顎に貼りつきそうな舌を動かして言った。

「どうしてそのような何の根拠もない、おぞましいだけの儀式を今日まで……」

「根拠はない――根拠はないが、やらなくてはならないのだ。生贄の儀を怠った十年には、禍が訪れる」

「そんなもの、偶然でしょう」

「ああ、俺も偶然だと思う」

 予想外の同意を受けて、レドニスは驚きに声を詰まらせた。シーグランは平然としていた。

「しかし、迷信も信じ続ければ真実になる。その期間が長ければ長いほど、そこから抜け出すのは困難を極める。この生贄の儀が公になれば、ルーメス教は激しい批判を免れず、ここ千年で最大の痛手を負うことになるだろう。しかし、この残酷で根拠もはっきりとしない児戯のような儀式は途切れることなく、ひっそりと行われてきた。恐れだ。恐れが、危険を冒してまでも生贄の儀を継続させる」

「いい加減にそこまでにしておけ。これ以上生贄の儀に疑問を呈するような発言を重ねれば、お前と言えど処罰は免れんぞ」

 前方から飛んできた厳しい声に、シーグランは肩を竦め、今度こそ口を閉じた。しかし、レドニスにはまだ尋ねるべきことがあった。少し迷ったが、ネガンという名前であるらしい小柄な男に話しかけることにした。

「生贄はどのようにして選ばれるのですか」

「全ての村から無作為に選出される」

「無作為に?」

「そういうことになっている」

 シーグランが口を挟み、ネガンが怒りの形相で歩みを止めた。

「シーグラン!」

「事実だろう。まあ、正直なところわれわれにはありがたい仕組みと言える」

「つまり――神官や魔術師、王族や貴族、神殿への寄附の多いものは選ばれない」

「その通り」

 ライネルが我慢の限界とばかりにいきり立った。

「ふざけるな! そんな不平等な――」

「黙れ」

 突然シーグランの雰囲気が変わった。

「至聖所だ。控えろ」

 その広大な空間は、殆ど屋外にあると言ってよかった。地下から上までの完全な吹き抜けで、天窓さえない。四方に聳えるような本殿の外壁の先、ぽっかりと丸く切り取られたような空の中心に、満月が煌々と輝いている。至聖所の中央には磨き上げられた黒大理石によって囲まれた大きな人工の泉があり、底が見えぬほどに深く、昏い水を湛えていた。本殿の謎めいた空白に存在したのはこの空間だったのだ。泉の周りには、既に何人もの魔術師が儀式の始まりを待っていた。みな、覆いつきの黒い外套を着て、顔を隠すようにしている。しかし、よく観察してみれば、その中にはレドニスの見知ったものがちらほらといることに気がついた。同じような外套を着た、年老いた風の一人がふとレドニスたちに気付いたように近寄ってくる。覆いを持ち上げて顔が露わになると、それは二人の師、サルバローザだった。

「レドニスだな」

 サルバローザはあくまで普段通りに呼び掛けた。その気負わなさがかえってレドニスを困惑させた。レドニスは形容しがたい複雑な感情に胸を締め付けられ、どもりながら言った。

「その――師匠に救っていただいたと伺って――私は――その――」

「どうしてですか」

 レドニスの言葉を遮るようにして、ライネルは食ってかかった。レドニスだけを見ていたサルバローザの目が、漸くライネルを捉えた。ライネルの双眸は真っ直ぐに師を見つめていた。

「どうして師匠ともあろう方がこのようなことに加担しておられるのですか。今すぐに取りやめるべきだ。師匠にはそのお力がおありじゃないですか」

 シーグランたちが制そうとする前に、サルバローザは重々しく口を開いた。

「お前は――」

 そのとき唐突に、至聖所全体が水を打ったように静まり返った。それは、小さくも暗闇を照らしていた一本の蝋燭を、誰かが突然に吹き消してしまったかのような不吉さを帯びていた。

 レドニスたちが入ってきたのとは別の通路、北側の扉から、若い女が引き摺り出されようとしていた。女は一糸纏わぬ裸で、顔に頭を丸ごと隠すような布の覆いを付けられていた。くぐもった声を上げていることから、口に布か何かを詰め込まれているのだと推測できた。月光の下で、女の華奢な身体の、しかし男はけして持ち得ないまろやかな曲線がしらじらと浮かび上がっている。

神官らしき男が荒々しく女の腕を引き、祭壇に似た装飾的な寝台の上に身を横たえさせた。否、祭壇に似ているのではない、祭壇そのものなのだ。女は贄なのだから。遠目にも、女の肩が微かに震えているのが見えた。神官が女の四肢を祭壇の四隅に打ってある鉛の楔に縛り付け始めた。繊細な意匠の凝らされた祭壇のその楔の部分だけが奇妙なほどに無骨で、不気味な違和感を放っていた。もう一人の神官が続いて扉から姿を現わす。彼は美しい拵えの短剣を一振り携えていた。これからここで何が行われようとしているのか、レドニスには分かった。ライネルにも分かったようだった。

「やめろ!」

 至聖所の静寂を割って、ライネルが咆哮した。外套の男たちが一斉に振り返り、ライネルを注視した。彼の声は生贄の女にも届いたらしい。びくりと身体を揺らし、声の聞こえた方を僅かに気にしたようだった。拳を握り、全身を震わせたライネルは顔面蒼白だった。レドニスも同じく叫び出したい気分だったが、ライネルの怒号を聞いた瞬間に舌が凍りついたように動かなくなっていた。

「こんなことが許される筈がない! 駄目だ! やめろ!」

 ただライネルの叫び声だけが、静まり返った広間の、つめたい石床に叩きつけられる。集まる視線に構わずライネルは腕を滅茶苦茶に振り回した。彼は殆ど半狂乱になってサルバローザの肩を掴み、揺さぶろうとした。レドニスは思わずライネルの腕を掴んだ。

「お、お前……」

「何故だレドニス! どうしてお前は黙っている」

 ライネルが獣のように歯を剥き出した。その瞳にこれまでけして此方には向けられたことのない激情の色を見てとって、レドニスは思わず息を飲み、放つべき言葉を失った。その間、サルバローザはただ押し黙っていた。ライネルは顔を歪め、一向に声を発しようとしない老いた魔術師に挑みかかった。

「師匠、やめさせてください! こんなことに加わるくらいなら、黙って見ているくらいなら……俺は死んだ方がましだ!」

 ライネルを見返したサルバローザの目は冷え切っていた。やがて彼の貌に静かな了解の色が浮かんだ。そして、二人の師は重々しく口を開いた。

「そうか、ならばそのように」

 伸ばされたサルバローザの指が、ライネルの胸に軽く触れていた。レドニスは、一瞬サルバローザが何をしたのか分からなかった。ライネルがぽかんとした顔をする。多分、レドニスも同じ表情をしていたと思う。サルバローザに掴みかかるような体勢からぐらりと前のめりになり、肩に凭れるようになる。サルバローザが後ずさるとライネルの身体は支えを失い、うつ伏せに崩れ落ちた。

「ライネル?」

 レドニスは倒れこんだライネルに向かって呼び掛けたが、返事は戻らない。

「おい、ライネル……」

 掠れた声で囁き、横向くライネルの顔を覗き込む。ライネルは幼い子どものように不思議そうな顔をして、口を軽く開いていた。その唇は薄赤くしっとりとして、今まさに喋り出そうとしているかのようだった。しかし、大きく開かれた彼の瞳は、既に焦点を結ぶのをやめていた。レドニスは震える掌でそっとライネルの首に触れた。

「ライネル」

 その、つよく丈夫で健康で、まだあたたかい身体のどこにも、彼はいなかった。

 石床に膝をつくレドニスに、サルバローザはひびわれた声を投げかけた。

「レドニス、立て。神聖な儀式の最中だ」

 呼び掛ける師の指に、禍々しい魔術の残滓が纏わりついているのを見た。ライネルの生命の歯車を、いとも容易く止めてみせた魔術の残滓。レドニスはふらつきながら立ち上がり、ひどく冷え切った両手を伸ばした。指一本で簡単に振り解かれてしまいそうなか弱い力で、サルバローザの胸倉を掴む。レドニスは行き場のない激憤、苦悶、悲歎、そしてその全てを飲み込む茫洋とした困惑とが綯い交ぜになった心に翻弄されていた。

「師匠が、今……?」

「見ていた通りだ」

「ライネルは……ライネルは、貴方を尊敬していたんだぞ」

「知っている」

 取り乱すレドニスと対照的に、サルバローザは平静そのものだった。サルバローザはレドニスの手を掴み自身の襟元からもぎ取るようにすると、レドニスに囁きかけた。

「レドニス、お前は優れている。〈扉〉の結界を解いたのだろう」

「私一人では解けなかった! ライネルがいなくては……」

 レドニスは温度を失った身体の奥底に、沸騰するような熱が湧き上がったのを感じた。サルバローザは首を振った。

「違う。そうではないのだ。あの結界はそういうものではない。からくりが分かったとしても、解錠することそれ自体普通の魔術師に出来ることではないのだよ。お前は現在の結界がどれ程の時間と労力をかけ、幾十にも織り上げられてきたかを知らぬだろう。その〈扉〉を開くための方法は、神官の持つ印を除いては短い三回の呪語のみ。選ばれたものの力が無くては開けない。だからおぬしは認められたのだよ。われわれの仲間として」

 レドニスは呆然と呟いた。

「それでは、ライネルは」

「どのみち、殺さねばならなかった。悪い男ではなかったが、ここに並ぶには魔術師としてあまりに不出来だった。この地下に足を踏み入れた時点で、再び日の光を浴びることは許されぬと決まっていた」

 レドニスの胸中に、胸を貫くような哀惜が弾けて飛び散った。サルバローザは魔術師の誇りだと微笑んだライネル。強く、清らかな心を持ち、優しかったライネル。いつも隣を歩いていた。輝く瞳は太陽の光だった。

レドニスは今度こそ全力を以って師の胸倉を掴み上げた。年月に晒され衰えたサルバローザの身体が乱暴に揺さぶられ、浮き上がらんばかりになる。目の縁から涙が零れた。黙りこくっているサルバローザを前に、言葉は何も出てこなかった。今この男の首を絞め上げたなら、俺はすぐに殺されるだろう。ライネルのように。それで構わないと思った。視界の端で、サルバローザの手首がゆっくりと持ち上がった。レドニスは覚悟を決めた。魔術師の老いて筋張った首に、そろそろと指を掛ける。殺せなくともよかった。ライネルのためにと、美しい理由をつけて死んでしまいたかった。枯れ枝のようなサルバローザの掌が、レドニスの胸の上で止まる。そして、魔術を伴わないそれは、ただ撫ぜるように、嬲るように押し付けられた。

 かさり、と音がした。

 レドニスは目を見開いた。今まさに投げ出そうとしていた命の意志が、突然ぐんと音を立てて強く引き寄せられるのを感じた。懐に仕舞い込んだ手紙が無視できないほどに熱を持ち、レドニスの全意識を絡め取る。待っている、というイーリアの声が星の輝きのように脳髄に弾け、火花となった。熱い雫がレドニスの頰を伝った。

 死ねない。

 まだだ。まだ死ねない。

 レドニスの手は力を失い、サルバローザの首からずるずると滑り落ちた。一拍おいてサルバローザの掌が離される。レドニスは崩折れこそしなかったが、心は既に屈していた。はらはらと涙が零れ落ちた。後から後から流れるそれを、レドニスは手の甲で拭った。サルバローザは表情を変えないまま前に向き直ると、此方の成り行きをじっと見守っていた魔術師たちをぐるりと見回し、頷いた。ライネルの亡骸を一瞥する魔術師たちはみな同じ顔に見えた。レドニスはシーグランとネガンを振り向いた。冷ややかでなく、けして暖かでもない視線が何も見なかったかのようにただ通り過ぎていくのを感じた。そこに温度はない。ライネルの死は何も変えなかった。途切れていた儀式は、何事もなく再開された。

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