第29話

 神官が、短剣を高々と掲げた。その磨き抜かれた鋒は、満月から放たれる白銀の光を浴びて燦めく。鋭い沈黙が、一本の鉄の針のように夜の大気を貫いた。神官は短剣を女の胸にあてがうと、その皮膚を僅かに裂いた。女がくぐもった声を上げた。

「これはわれらが信仰の証。約束の水である」

 ぬめる血を纏わせた剣を再び掲げ、彼が宣言すると、女を縛り付けていた方の神官が祈りの句を厳かに口にした。続けて、列をなす全ての魔術師が同じ言葉を唱和する。その低く荘厳な響きは賛美歌に似て、静謐な広間に広がり、天へと上っていった。

「光の神、われらが主、いと尊きルースよ」

 神官が声高に言った。

「われらモルフを屠るもの、汝が為に血を流し、汝が為に肉を断つ。汝が憐れみを以てわれらを照らし給え。われら光を冀い、汝が前に跪かん。汝は奪い、与え、全てを濯ぎ、太陽と月の交わりのもとで混沌を拓く。与え給え」

「与え給え」

 ネガンが繰り返した。

「赦し給え」

 高らかに。

「赦し給え」

 隣に立つサルバローザが嗄れ声で呟いた。

「憐れみ給え」

 レドニスは唇を千切らんばかりに噛み締めた。神が何を与えるのだ。何を赦すのだ。何を憐れむというのだ。神官が短剣を今度こそ大きく振りかぶった。心臓が抉り取られるような恐怖と痛みを覚え、レドニスは悲鳴を喉の奥に押し込めた。歯を食いしばったレドニスが目を背ける前に、刃の鋒は女の胸を貫いた。衝撃に女の身体が跳ねる。女は悲鳴一つ上げなかった。深々と突き刺された短剣は捻るようにして瞬く間に引き抜かれ、胸からは鮮血が迸った。最前列に位置していた魔術師たちが僅かに後ずさる。レドニスは自身の顔にその生暖かい飛沫が浴びせかけられるような心持ちがして、襲い来る嘔気を堪えた。全身を脂汗が伝い、滴り落ちる。

 女が絶命するまでにそう時間はかからなかったようだった。神官は短剣の血を拭い、鞘に収めて祭壇の脇に置くと、もう一人の男と共に死んだ女の四肢の拘束を解き始めた。女の身体に縄をかけ、鉛の重りをぐるぐると巻きつける。彼女の亡骸を二人がかりで持ち上げ、至聖所の全員を見渡した。纏わりつくように濃厚な大気がひっそりとした了解に満ちているのを確認すると、神官たちは女をなるべくその中心へと押し出すようにして、黒い泉へと横たえた。底知れぬ、昏く、深い水の中へと。完全なる満月が、湖の上に影を落とし、正円を模っていた。夜よりも尚暗い漆黒の水面で、月は眩く清廉な光を放つ。その中に、輝くばかりに白くまろい女の裸体が、ゆっくりと沈んでゆく。

「ああ」と誰かが零すように呟いた。

「神よ」

 そのとき、泉が轟いた。

 闇が渦巻き、耳を劈く悲鳴を上げて光を取り巻く。全てを攫わんとする風がごうごうと唸り、夜を巻き込んで凶暴なサメの群れのように湖へと向かっていく。音がちぎれ、大気を叩き割り、粉微塵の欠片にした。泉から立ち上った黒い水が見上げるような大波となり、レドニスたちを飲み込みながら柱と壁とを打ち付け、砕ける。怨嗟の叫びが上から、下から、右から、左から、一つのとどろきとなって押し寄せ、皮膚を裂き、心臓を貫き、抉り取った。無数の闇の爪が石の床をはげしく掻き乱し、ばらばらにしようとする。そのおそろしさに誰もが目を覆い、また耳を塞いだ。

 刹那、全てが静止した。

 水面の月から泉の底までを貫くような光の柱が現れたのを、レドニスは見た。

 眩い閃光が弾けた。世界の隅々まで満たすような暴力的なまでの光の奔流に、レドニスの金の襟飾りが千切れ飛んだ。光は暗闇を退け、揺らぎ、うねり、そして収束した。

全てが終わると、泉は元通りだった。何もかもそのまま、泉は昏い水を湛えていた。至聖所は息詰まるような沈黙に支配されていた。魔術師たちはみな、息を殺して目を大きく開き、床に膝を突いていた。

 一番初めに自分を取り戻したのは、サルバローザだった。彼は老いて丸まった背筋を伸ばし、威厳を込めて口を開いたが、その声に纏わり付いた怯えの気配は隠しきれてはいなかった。

「女の亡骸を引き揚げよ」

 膝を折り、縮こまっていた神官たちが我に返る。彼らはよろよろと立ち上がると、先端に鉤針の付いた長い棒を持ってきた。真っ青な顔でそれを泉に突っ込み、焦燥に満ちた手つきで掻き回す。男たちの手があまりに震えているので、レドニスは彼らが棒を取り落とすのではないか、と考えた。やがて、神官たちは鉤針に何かが引っかかったのを確信すると、荒々しく女の屍を引き揚げた。

誰かが悲鳴を飲み込んだ。

 女は元のままではなかった。

 女は、胎を膨らませていた。

 一瞬の静寂のあと、爆発的などよめきが広間中に広がった。

「なんだ、あの腹は」

「あれは身籠っているのだ」

「死体が子を孕むものか!」

「いいやしかし、確かに孕んでいる」

「誰か、確認するものはいないか」

「誰か、誰か」

 怯えと畏れ、期待、混乱の入り混じった叫びが交錯する。不意に、サルバローザが乾いた視線をレドニスに向けた。

「レドニス」

 その声は喧騒の中で奇妙に響き渡った。魔術師たちが一斉に口を閉ざし、此方を見つめる。その視線は尋常ならざる熱を帯びていた。

「お前があの女に触れよ」

 レドニスは耳を疑った。激しく首を振り、拒絶の意を示す。収まっていたざわめきが、再び勢いを取り戻しはじめる。

――そうだ。お前が。

――お前が。

「師匠」

 殆ど悲鳴のような声を上げたレドニスに対し、サルバローザは冷ややかだった。

「急げ。あれに宿ったものが、死んでしまうかもしれん。或いは、もう死んでいるのかもしれんが。確かめるのだ、お前が」

 レドニスは打ちのめされ、おそれながら周りを見回した。味方は誰一人いなかった。味方であり親友であったはずの唯一の男は、床につめたく転がったままものも言わなかった。レドニスはがくがくと折れそうになる膝を叱咤し、中心へと歩み出た。女の亡骸を前にして、足が竦む。女の胎は臨月を迎えたそれのように、確かに大きく膨らんでいた。水に濡れ、緩やかな曲線がぬらぬらと月光を弾いた。胸には未だ生々しい刺し傷があり、紅い肉が覗いていた。レドニスは女の前に跪き、そっとその腹に触れた。掌を沿わせ、その下にあるものをはかろうとする。レドニスは震えそうな息を細く吐き出した。そのとき、肉の壁を隔てたところで、微かに何かが蠢く揺らぎを感じた。それはまぎれもない胎動だった。レドニスが小さな声を漏らした。視線の熱気が輪のようにぐわりと押し寄せるのを感じ、戸惑いながら口を開いた。

「動いている……中で、何かが」

 それを聞いた途端、取り巻く熱気が膨れ上がった。

「生きている!」

「それは神の子だ、光の子だ!」

「ああ、光の神が人に子を授けられた!」

 異様な興奮、静かな熱狂が女とレドニスを中心に渦巻いた。サルバローザが輪の中に踏み入って、レドニスの肩を力強く押した。

「取り上げるのだ、その子を! お前が、お前がやるのだ!」

 拒みようもなかった。神官がついさっき女の胸を抉った短剣をレドニスに手渡した。レドニスは右手でそれを握ったが、どんなに力を籠めてもどうしようもなく鋒が震えた。汗が噴き出し、女の白い腹の上にぱたぱたと落ちる。最早、レドニスは全身の震えを抑えることができなかった。短剣を女の腹に食い込ませると、死んだ肉の弾力がそれを押し返した。レドニスは柄を握りしめる右手に左手も添えた。筋肉の壁を突き抜けた手応えがあり、手を止める。がたがた震えながら、ゆっくりと女の腹を裂いた。細めていた目を見開いて、レドニスは息を飲んだ。ぱっくりと開いた女の胎の中には、輝くばかりの女の赤子が身体を丸めていた。レドニスがそれを正しく取り上げると、女の血と羊水とに塗れた赤子は呼吸を始め、割れんばかりの大音量で泣き出した。まるで、普通の人の子のように。

 魔術師たちがそれを目にした途端、至聖所は弾けるような興奮に包まれた。赤子を一目見ようと、誰も彼もが詰め寄せる。輝く娘はレドニスの手から瞬く間にもぎ取られ、手から手へと受け渡された。

 レドニスは短剣を投げ捨てた。今度こそ崩折れようとする身体を抑えることができなかった。跪いた姿勢のまま、前に手をつき、倒れ込もうとする。そのとき、不意に布に覆われたままの女の頭が目に入った。厚い布は水に浸かってぐっしょりと濡れ、その下の顔に張り付いている。布の下から微かに覗いた女の髪もまた濡れそぼり、縺れて首に纏わり付いていた。レドニスの中にふと、女の顔を見ておくべきなのではないかという思いが浮かんだ。何の罪も持たない女だ。ただ犠牲となって残酷にも命を奪われ、腹を裂かれ、今はぼろのようにここに横たわっている。このまま顔も見られず、名前も呼ばれず、どこの誰かも知られずに葬り去られてしまうのでは、あまりに憐れではないか。その思いはレドニスの頭の中で極星のように瞬き、行動する力を与えた。レドニスはゆっくりと息を吸って吐き出すことを三回繰り返し、荒げていた呼吸を落ち着かせた。それから、そろそろと布の覆いに指をかけ、それをめくり上げるように外した。


 


「何故だ」

 自分ではない誰かがそう口走ったような気がした。別の誰かが、またどこかでぱさついた声を上げた。

「イーリア?」

 懐で、手紙がまたかさりと音を立てた。

 灰色の瞼が半ばまで開き、白濁した亜麻色の瞳をでろりと覗かせている。濡れた髪の張り付いた頰に、艶はない。血の気の失われた薄い唇も瞼同様、物言いたげに開いている。その中、ぽっかりと暗がりを内包した空洞には、小さな墓石のように並んだ歯と、青白く膨らんだ舌が収まっていた。かつてその瞼は流れる血潮を薄赤く透かし、亜麻色の瞳は宝石のようにきらきらしく瞬き、頰はまろく薔薇のように赤らんでいた。唇はつやつやとした花弁のようで、微笑むと小石のような白い歯が覗いた。それがレドニスの知るイーリアだった。しかし、生贄となった女もまた、どうしようもなく、イーリアそのものだった。

 レドニスは膝を床に擦り付けながら一歩後ずさった。待っている、と再びイーリアの声が脳髄を満たした。身体の震えがぴたりと止まる。冷え切り、傷つけられ、縮こまっていたレドニスの心は既に一切の寒さを受け付けないひとつの氷塊となっていた。酷く具合の悪い夢の中にいるような心持ちで、レドニスはイーリアだったものの口元に耳を寄せた。その唇が何かを呟くのではないかというように。

髪をじっとりと濡らす昏い水のにおいと、死んだ生き物特有のにおいが混じり合って鼻を突いた。周囲の歓声がわんわんと頭蓋の中で鳴り響く。心臓の内部にまで忍び込んだその喧騒は、金属がぶつかるような音を立てて、身体を内側から力任せに殴打した。レドニスは唇を歪めた。

 背後からサルバローザがレドニスの肩を叩き、声を掛けた。

「ああ、レドニス。お前はよくやった。名誉なことだ」

 サルバローザに触れられたところから、身体の表面に無数の虫けらが這い回り始めたような気がした。レドニスは身体を捩り、サルバローザのおぞましい手を払い落とした。レドニスは魔術師どもの熱狂の中で、聞き取れないほど微かに呟く。

 うるさい。彼女の声が聞こえないだろう。

 静かな興奮に身を任せていたサルバローザはやはりレドニスの静かな言葉を聞き落とした。それが致命的だった。もし聞こえていたなら、その声に隠しようもなく滲んだ紫の狂気に気付いただろう。そして、身を切るような悪寒とともにレドニスを縊り殺していた筈だ。そうすべきだったのだ。レドニスの精神は最早後戻りのできないところまで壊れようとしていた。サルバローザは高揚に染まった声をレドニスに投げ掛ける。

「何をしているのだ。それはもう死んでいる」

「それ?」

 イーリアのつめたい唇に耳を押し付け、レドニスは繰り返した。彼が名も知れぬ憐れな女をただ悼んでいるのだろうと勘違いしたサルバローザは、頷いてみせた。

「尊い犠牲だった、丁重に弔おう。光の娘を宿した母親でもある。ルーメス教の二つ目の象徴として、今後千年に亘り尊ばれるだろう」

「黙れ……」

 今度の呟きはサルバローザの老いた耳にも届いたようだった。怪訝な顔をする。身体の中で、ぷつぷつと何か大切な糸の束が千切れていく音がした。

「黙れ」

 レドニスは絶叫した。ぎょっとしたように弟子の名を呼ぼうとした男の唇は半ばにして硬直した。サルバローザの左胸を、鋭く凶悪な魔術の刃が深々と貫いていた。

「何故だ、何故だ」

 刃はゆっくりとその形を変えながら回転し、老魔術師の未だ脈打つ生暖かい心臓を抉り取った。サルバローザは軽く目を開き、何が起こったのか分からないという顔をした。その顔は、奇しくも殺されたライネルの表情に似ていた。彼の瞳が、身体の外に放り出された自身の心臓を映したかどうかは分からなかった。サルバローザは前のめりにどうと斃れた。彼の周りに血溜まりが広がり、気付いた誰かが恐怖の叫び声を上げた。

「何故きみが」

 かつての師の姿など見えていないかのようにレドニスは髪を振り乱し、足を縺れさせながら立ち上がる。実際、彼の目は何も映してはいなかった。取り押さえようとする神官の腕を、獣の如き力で振り払う。骨がへし折れる鈍い音がして、悲鳴が耳を劈いた。レドニスはびりびりと鼓膜を鳴らすような咆哮を上げた。白皙の顔に、どす黒い痣が浮かび上がっては消えた。記憶の中のイーリアの微笑みが粉々に砕け、その鋭い一片が心臓に食い込んだ。足元に落ちる影から、漆黒の憎悪が迸り、立ち上り、レドニスを包み込む。その闇は、レドニスを拘束せんと周囲が投げかけた呪文の一切を凍てつく氷の刃へと変容させ、弾き散らした。黒い炎が皮膚を灼き、肉を焦がし、骨を炙るのが分かった。脳漿が沸騰し、眼球が煮えたぎる。息もできない激痛に悶え苦しみ、胸を掻き毟ろうとする。そしてとうとう若き魔術師は血の涙を流しながら、荒波のように押し寄せる闇を胸一杯に呑みほした。その闇はレドニスの全身をその爪の一片、毛髪の一本に至るまで満たしつくし、欠け落ちた部分を埋めていった。かつてイーリアが愛した瞳――深く澄んだ蒼い瞳は昏く濁った漆黒に。そして、菫青石の指環は闇を孕んで黒曜石に。

 天を引き裂くようなおそろしい雷鳴がとどろいた。

 地が真っ二つに割れ、暗闇を湛えた大穴がぽっかりと口を開けた。その中に、なす術もなく恐怖に顔を引きつらせた神官や魔術師ども、サルバローザの屍体、ライネルの屍体、そしてイーリアの屍体、その全てが飲み込まれていった。一人のまだ年老いては見えない神官が空中で藻掻き、地上に向かって手を虚しく伸ばした。彼もまた、若くして才能を認められ生贄の儀に加わることを許された男なのかもしれなかった。彼の眼が壮絶な恐れに曇っていなかったなら、崩壊する世界の中でただ一人佇み、闇を見下ろす男の姿に気付いただろう。

 至聖所の石床が脆い土塊のように崩れ落ちていく。いや、至聖所ばかりではない。西塔が根元から折れ、砕け、無数の礫となって降り注ぐ。八角錐の尖塔が大きく傾ぎ、地響きを上げながら拝殿へと崩れかかる。トラヴィアの象徴たる八枚羽根の風車はばらばらと解け、神殿のあった周囲の土を抉って突き立った。何もかもが闇の中に散り散りになっていった。

放射線状にうつくしく伸びた石畳の大通りが。同心円の街並みが。赤茶の屋根が、象牙色の石壁が、積荷をひいた行商人、鵞ペンを舐める男、花売りの少女、目を覆う女――。

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