第30話
男が一人、歌を口ずさんでいた。瓦礫の散らばる荒地の中で。遠い昔少女が少年へと歌って聞かせたその旋律は、やさしげに澄んで、どこか懐かしい響きを纏っていた。男は薄い外套をたなびかせ、死の平原を歩いていく。男の他に生きたものはなく、男の他に動くものはなかった。ただ歩みを進めるだけの男からは、色彩というものがおおよそ抜け落ちていた。初めから持たなかったかのように。男の髪は何にも染まりようがない黒髪で、切れ長の目から覗く瞳もまた、一切の光を逃さない黒だった。露出した顔と両の手は骨のように白く、指に嵌った指環の石はやはり黒。男――レドニスは、このおそろしい無彩色の地においてなお燦然と輝く、不思議な鉱石の道標を眺めて足を止めた。地面から垂直に伸びるその八枚は、かつて一つの風車を構成していた聖なる羽根だった。レドニスは、その羽根の一枚に寄り添うようにして蠢く光を見た。歩み寄ると、それはあの神の娘、光の赤子だった。今その肌は輝いてこそいないが、透き通るような頰には擦り傷ひとつ無かった。この赤子だけが、おぞましい地獄を無傷で生き残ったのだ。
赤子がむずかるような声を上げた。
レドニスは赤子を抱き上げた。男の両手で不安定に持ち上げられて、彼女は大きな泣き声を上げ始めた。何も知らず、何にも染まらず、ただ母を慕う無邪気な泣き声。赤子の強く瞑られた目尻から、涙が一粒零れて筋を作った。レドニスはこの娘を縊り殺そうと思った。このうつくしい赤子が憎かった。赤子は忌むべき光の神の、その娘だった。生暖かくどす黒い感情に後押しされて柔らかな首に指をかけたとき、まったく唐突に、赤子の目がぱっちりと開いた。
涙に濡れて透き通った亜麻色の瞳に、自身の澱んだ双眸が映りこんだ。その瞬間、レドニスは今自分がこの娘を殺すことはどうしてもできないと思った。右手を首から離し、代わりに額に触れる。そして、指先に呪文の細い帯を纏わせたレドニスは、赤子の白く柔い肌に見えない呪いを刻んだ。五百年の凍結の魔法。
レドニスは綿々たる眠りについた赤子を抱え、ひどく長い間歩いた。そして、やがて深い森の中に行き着くと、その奥まって、けして人目に付かぬせせらぎのほとりにその娘を棄てた。
その身に闇を喰らい、不老となった若き魔術師がすべきことはただひとつだった。贄となった愛する女を蘇らせること。そのためには、身体の内にとぐろを巻き、ぞろぞろと這い回るこのおぞましい力を喜ばせることが必要だとわかっていた。レドニスは、タルジャの町へと向かって歩きながら、手の中にいくつもの呪いの欠片を生み出した。それは小さな郁子の種のような、見落としてしまいそうに目立たない欠片だった。これが、いずれ遠い未来の果てにイーリアを蘇らせるための糧となると、レドニスは信じた。
もう少し、待っていてくれ。
レドニスは呟いた。タルジャの町へと辿り着いた闇の魔術師は、ふとすれ違った男に声を掛けられ、振り向いた。
「あんたその服は、トラヴィアから来たのかい?」
「ああ。そうだよ」
「ああ、嬉しいな。おれもトラヴィアの出なんだ。今は商売でこっちに来ちゃあいるけど、家内をあっちに残していてね。明日漸く、帰るつもりなんだ」
男が人懐こい笑みを浮かべた。その夏の陽射しのような明るさは、かつての友人に似ていた。穏やかに目を細めたレドニスは、同じように口角を上げてみせた。氷になった心はとうに死んでいたが、唇だけは微笑み方を覚えていた。
「あんた、名前は?」
「私かい? 私の名前は――」
微笑を湛えたまま魔術師は、指先から種を一粒落とした。そして、ゆっくりと答えた。
「カレドアだ」
五百年の時を越えてロクドとヨグナの意識が現在へと舞い戻ってきたとき、部屋には未だしとしとと雨音が響いていた。細かな水の粒が屋根を打つ柔らかい音を聞きながら、随分と長いこと、二人は口を閉ざしていた。ヨグナに話しかける代わりに、ロクドは傍らの椅子を引き、腰掛けた。何か一言でも声を発しようとすれば、その言葉は喉を内側から掻きむしってひどく抵抗するのだった。明らかになった真相に背骨を叩き割られるような痛みと衝撃を受けながら、また同時に深く納得している自分の存在にもロクドは気付いていた。拾い集めてきた全ての破片が収まるべきところに収まったという感じがした。先に口を開いたのはヨグナだった。彼女は唇から細く息を零してから、ゆっくりと瞬きをし、問いかけた。
「ロクドは、どうするの」
「どうするの、とは」
「都に戻るの」
単刀直入なヨグナの言葉を受け、ロクドは一瞬答えに窮した。ヨグナの亜麻色の瞳は、今は鈍色の雨雲によって覆い隠された月の尋常ならざる輝きを帯びて、真っ直ぐに此方を見つめていた。ヨグナ――神の娘、光の子。今となっては疑いようもない。夢の中での輝き、奇妙な出自、そして呪いの痛みを癒した不思議な力。彼女の顔が突然別人のように見えた。薄暗い部屋の中で、亜麻色の長い睫毛が白銀に透き通る。ヨグナの光を浴びて、ロクドは釘付けになったように全身が動かなくなるのを感じた。
「おれは……」
ヨグナが見ている。ロクドは乾いた唇と、縮こまろうとする舌に努めて力を入れようとした。そのとき何かに気付いたように、すう、と彼女の視線が逸れた。
「わたしが普通の人間ではないと分かって、恐ろしい?」
表情を変えないままに放たれたヨグナの言葉が耳朶を打ち、ロクドは殆ど反射的に首を振った。身体の緊張が解け、ヨグナの柔らかな指の感触が手の中に蘇った。彼女の身体の中に、不可視の神性と人の体温が離れがたく混じり合って同居しているのを今のロクドは感じ取ることができた。ロクドがもう一度力強く首を振ると、ヨグナが再び此方を見た。その亜麻色の双眸は、これまでに幾度となく見つめてきたヨグナという人間の瞳だった。ロクドは一瞬でも畏れようとした自分を恥じた。
「普通の人間だろう、きみは」
ロクドは微笑んだ。
「おれと変わらない。カミツレの香茶と焼き菓子が好きで、よく驚いてよく笑う、ただのヨグナだ」
それを聞いてヨグナは目を瞑り、頷いた。二度、頷いた。ロクドはヨグナが何か言おうとする前にそっと言葉を続けた。
「おれは戻ろうと思う。先生のところへ」
「カレドアさんのところへ?」
改めてカレドアという名前の響きを耳にして、ロクドは突き刺すような鋭い痛みに襲われた。今はもうその男のことをレドニスと呼ぶべきなのかもしれなかったが、口で言い表せない抵抗があった。
「カレドアはルースと、この国とを憎んでいる。かつてのトラヴィアを含め――既に十一の町や村が失われた。おそらく、時間はそう残されてない」
痛みに耐えてロクドは言った。
「おれがカレドアを止めなくては」
口に出した瞬間、それは明確な使命感となってロクドの体を鎧のように覆った。ずっしりとしたそのつめたい重みは、逃れ難くロクドの上にのしかかる。
「ロクドだけじゃないわ。ロクドがそう決めたのなら、それはわたしの問題でもある」
ロクドは頷いた。ヨグナのルーツを知らなければ、きっとロクドは迷いながらもヨグナを置いていっただろう。単に呪いを解き、病の連鎖を止めるためであったなら。もう、ヨグナはメイズに馴染んでいる。トラヴィアで一人ぼっちだった頃とは違う、彼女の場所がこの村にはある。しかし、全てを知った今、最早呪いとヨグナとが無関係であるとは言えなかった。既に、これはロクドだけの問題ではなくなっていた。拒まれなかったことに安堵したようすを見せたヨグナは、そこでふと考え込むようにした。言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。
「気になるのだけど……十年毎の生贄の儀式は確かに迷信だった。そう?」
「うん、少なくともカレドアや、一部の魔術師はそう考えていた。おれもそう思う。ルースが自らの意志を以て生贄を求めるなど」
「今は、その儀式は?」
「続けられてはいないだろう。あのようなことがあって、神殿が生贄の儀を続けるだろうか? 関わっていたもののうち、殆どはあの夜メルパトス神殿の地下で儀式に加わっていたはずだ。それに、そもそも禍を退けるための儀式だったんだから……尤も、おれがそう信じたいだけなのかもしれないが……」
ロクドの返答を聞いて、ヨグナは胸に手を当てた。
「生贄の儀式は単なる迷信、ルースはわたしたちに何も求めない。干渉しない。それなら、どうしてわたしは生まれたのかしら。五百年前ルースは例外的に、イーリアの中に自らの一部を孕ませた。どうして……」
それがヨグナが最も問いたかったことなのだろうと思った。ロクドは答えを持ち合わせていなかった。
「ルースの理に人の理解は及ばない。きみが生まれたことに理由があるなら、それは自ずと分かるだろう」
それから、ロクドとヨグナはメイズの村を離れるための準備を始めた。次の日早速ロクドはアメラを呼びつけ、二人が村を出なければならないことを伝えた。そして、これから七日の内にアメラが今後必要となるだろう基本のまじないをあと三つ教えると言った。突然のことである上、仔細な理由を明かすことができなかったため、説得は困難を極めた。アメラはひどく寂しがりながらも、最終的には納得してくれた。
「もう二度と会えないってわけじゃないのよね」
アメラは鼻をすんと鳴らした。普段は勝気な
「また会えるわ。きっと、すぐに」
ヨグナの肩口に鼻を埋めながら、アメラは目だけをロクドへ向けた。
「約束して。……先生も」
小さな声で付け加えられた最後の呼び掛けに、ロクドは照れ臭さと胸を穿つようないとおしさで胸が一杯になった。アメラがロクドのことを「先生」と呼ぶのは初めてのことだった。ロクドは頷いて、アメラの頭を撫ぜた。カレドアも、自分が初めて彼のことをそう呼んだとき同じような気持ちを味わったのだろうか、とちらと思った。そのあとで、ロクドはカレドアと相対するための対策を立てた。上着の袖にペンタクルを刻んだ護符や植物の種をぐるりと縫い込む。それ単体で効力を発する呪文を書き付けた紙切れの束、瓶に詰めた水晶の粉。二人の身を守るための金盞花の汁で染めた紐の腕輪は、ヨグナが編んだ。
二人がメイズの村を出たのはまだ日も昇りきらぬ早朝だった。来たときとは反対に街道を進んでゆく。街道のメイズに近い辺りは道幅も細く、舗装されていない剥き出しの道だ。行きとは違って、都に近付くにつれて歩くのは次第に楽になっていく筈だった。時間は無駄にできない。二人は宿場で休憩を取りながら、黙々と歩いた。そして、時折話をした。ロクドはヨグナにこう語った。
「実を言うと、未だに何かの間違いだったらいいって、そんな風に思ってるんだ。心の何処かで。そんな訳ないってことは分かってる。それでも、そう願ってしまう」
「わたしには、彼と暮らした経験がない。言葉を交わしたことさえない。だから、あなたの悲しみすべてをまったく同じように理解することはできないわ」
言葉とは裏腹に、ヨグナの声は痛みと思い遣りに満ちていた。
「苦しみを和らげることはできない。だけど、あなたと一緒に苦しむことはできる」
ロクドは頷いた。ヨグナは次の問いを発する前に、微か言い淀んだ。しかしそれは、問われるべき質問だった。
「もし、ロクドがカレドアだったら、どうした?」
「分からない」
ロクドは正直に答えた。白昼夢の中で、あの瞬間、確かにロクドは彼そのものだった。全てを飲み込む憎悪に骨の一欠片まで焼き尽くされる感覚を味わい、一度死に、そして生まれ変わった。
「でも、おれはカレドアじゃない」
胸元で揺れる母の菫青石を、ロクドは握り締めた。仄かな熱と燐光を放つそれは、掌の薄い皮膚を介して全身をあたためる。今はもう、カレドアからは喪われてしまった澄んだ青。かつて彼が捨てたものを、ロクドは体を丸めて大切に抱いていた。その上から、ヨグナがそっと手をあてがう。肩を包むように、ファルマとモンノの幻影がロクドの後ろに立った。ロクドの頰を在りし日の母の涙が濡らし、父がそれを掬いとった。
ロクドは、きっと自分はカレドアと戦えるだろうと思った。しかし、かつて袂をわかった師とこのような形で再会しなくてはならないということは、ロクドにとってつらく憂鬱なことだった。おれを救い、おれに教え、おれを手放したカレドアは、どのような表情でおれを見るだろう。その考えは夜眠るころになると、澱んだ沼の表面にぽつりぽつりと現れる灰緑色の泡のように浮かび上がっては、きまってロクドを苦しめた。
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