第5章 闇を纏う男

第31話

 二年半振りに訪れたトラヴィアは何もかも記憶のままだった。街路樹はすっかり葉を落とし、寒々しく裸の枝を晒している。その隙間を冷たい風が吹き抜けて、高い音を立てる。果物の籠を抱えた少年が、アーチの上から澄み切った冬のせせらぎを覗き込んでいた。ロクドたちは少年の横を通り過ぎ、俯きながら足早に歩く黒衣の女とすれ違う。晩冬の弱い陽射しが作る控えめな影が、溶け合うように交錯した。連なる赤茶の屋根を数えながら、幾つもの細い路地を抜けて、トラヴィアの石畳を二人は進んでいく。行くべき場所はわかっていた。

 飾り気のないその家は画一的な並びの中に埋もれながら、それでいて全ての人間を拒むように佇んでいた。ここはこんなにも淋しい家だっただろうか、とロクドは思った。確かに、何一つ変わってはいない。年月と風雨に吹き曝され灰色がかった象牙色の壁も、植物の鉢一つない窓も、黒ずんだ真鍮の取っ手の付いた重たげな扉も。それでも四年暮らした記憶の中の家に比べてひどく寒々しく見えるのは、単にロクドの心境が変わったからかもしれなかった。ロクドは錆び付いたドア・ノッカーを掴んで打ち鳴らし、家の主に来訪を伝えた。コツ、コツ、と二回。暫くおいて、もう一回。返事はなかった。ロクドはヨグナの顔を見て、頷いた。丸い取っ手を握り込み、鍵穴から細い呪文の糸を滑り込ませる。ヨグナの家の扉を開けたときと同じ。あのときは無意識と制御不能な感情の昂りが行わせた魔術だったが、今のロクドはそれを意図して行うことができた。カレドアの家の扉に掛けられているのはロクドがいたときから変わらない、ごく一般的な構造の錠前であった。すぐにそれが外れる硬質な音がして、ロクドは躊躇いなく扉を押し開けた。

 家の中に、カレドアの姿はなかった。雑然とした部屋の、埃と仄かな沈水香木の入り混じったにおいはひどく馴染み深く、ロクドの心を重くした。ロクドに続いて、ヨグナのほっそりとした足が床に散らばった写本と鉱石の山を踏み分ける。使い込まれた道具特有の透き通るような艶を持った傷だらけの机の上には、大量の紙切れと鵞ペン、乾燥した植物のくずと、中身がほんの少し残ったカップがあった。ロクドは居間を出て、廊下へと進んだ。廊下の突き当たり、四年間入室を禁じられていた、魔術師の寝室。ロクドたちが向かうべき部屋はそこだった。扉の取っ手を掴んだ瞬間は、緊張した。ヨグナが励ますように、ロクドの背に手を当てる。勇気を出し、ロクドは部屋の中に踏み込んだ。鍵さえ掛かっていない扉は、拍子抜けするほどに軽い音を立てて開いた。寝室にはけっして入らないように、と告げたかつてのカレドアの語調の厳しさと、この無用心さはあまりにちぐはぐに思えた。しかし、ロクドは理由もなく確信していた。きっと、四年間、この部屋に鍵が掛けられたことはなかった。

 初めて目にするカレドアの寝室は、予想を裏切るかのように殺風景だった。殆ど使われた形跡がみられない寝台が一つに、小さな机が一つ。装飾のない質素な棚を開けると、見慣れた衣服が大雑把に畳まれて収まっていた。居間や書斎と違って片付いているように見えるが、物が少なすぎるせいで散らかるようなものがそもそもないのだ。持ち主の中身を反映したかのように、この部屋はまったく虚ろだった。

 その中で、たった一つ異様な存在感を放つものがあった。

味気ない部屋の寒々とした壁、その中央に掛けられた一枚の豪奢なタペストリー。

ぴかぴかと光沢を放つ糸が随処に織り込まれているらしいそのタペストリーは、薄暗い部屋でも輝いて見えた。擬人化されたルースと幾何学模様、絡み合う植物にカロメ虫――すなわち燈虫の複雑な図案。それは一見ぎょっとするほどに、白昼夢で見た地下への〈扉〉に似ていた。ヨグナが首を振った。ロクドは、震えそうな足でタペストリーへと近付いた。鼻がくっ付きそうなほどの距離でまじまじと眺めると、それが結界の類などではないことにすぐ気がついた。よく似てはいるが、別物だ。考えてみれば、人型のルースも、燈虫も、唐草模様も、ドルメアのタペストリーにはよくある図柄である。カレドアは、単に似たものを買い求めたのだろう。しかし、彼が〈扉〉を彷彿とさせるタペストリーをわざわざ自分のごく個人的な空間に飾っているその心理を忖度すると、ロクドは暗澹たる気持ちにならざるをえなかった。ともかく、タペストリーには何の魔術的な力も宿っていない。魔術のにおいを感じるのは、寧ろその後ろだ。ロクドはタペストリーをめくり上げた。

 ぴりりと緊張が走る。今のロクドには巧妙に隠された微かな魔術の痕跡がはっきりと分かった。壁の上にある、小指の爪の先ほどに小さな空間の縫い跡。ロクドは指を伸ばすと、そこにある見えない糸を引っ張り、綻びを作った。それだけでは駄目だった。ロクドはヨグナと声を合わせ、古いアルスル語で解放の呪文を三回唱えた。最後の音節を口にし終えるや否や、壁が不自然に隆起しはじめた。平らだったところに重厚な取っ手が現れ、菱形と唐草模様が美しく組み合わせられた彫刻が浮かび上がる。二人が一呼吸を終えるうちに、目の前には部屋に不釣り合いなほどに装飾的な扉が現れていた。変色により黒々とした青銅の扉は、それを隠していた筈のタペストリーよりも一回り大きかった。きっと、カレドアはこの向こうにいるのだ。ロクドは今更のように、カレドアに時折姿を消す奇妙な癖があったことを思い出し、その解答を得た心持ちになった。

ロクドがそれを力を籠めて押し開けると、その奥には石で出来た階段と、先の見えない暗闇があった。ロクドは、思わずヨグナと顔を見合わせた。ヨグナの表情に怯えを見てとった瞬間、ロクドは心の中で自らの頰を張り飛ばした。おれがしっかりしていなくてどうするんだ。ロクドは恐怖を抑えつけるように険しい顔をして、ヨグナの手を取り、地下へと――深くつめたい暗闇へと足を踏み出した。五百年前、レドニスとライネルがそうしたように。

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