第32話

 扉と等幅の階段は、ロクドと華奢なヨグナがぎりぎり並んで降りられるか降りられないかといった広さだ。やはり、ひどく音が響いた。あのときとは――ロクドがレドニスであったときとは――違って、今は存在を気取られぬようにする必要はないと知ってはいても、無意識のうちに二人は足音を忍ばせていた。階段が終わると、今度は既視感のある長い地下通路が続く。壁燭台がやはり誘導するように灯されて、行き先を照らしている。ロクドは横道の一つを尻目に通り過ぎながら、それがレドニスたちが囚われていた地下牢へと続く道なのだということを思い出していた。ゆっくりと歩くロクドの額に、つめたい汗が滲む。厭な予感がした。やがて最奥の空間へと辿り着いたとき、その予感は当然のように的中した。昏い水を湛えた人工泉、天まで続く圧倒されるような吹き抜け、円形の広場、そこはかつてのメルパトス神殿の至聖所であった。地下部分だけそっくりそのまま切り離して、カレドアの家の下に縫い付けたかのようだった。カレドアの家に踏み込んだのは昼間であったというのに、ここは夜だ。あのときと同じ満月の夜。天頂から、煌々とロクドたちを見下ろしている。この場所には、一帯の大気そのものに色が付いているかのように、隠しようもなく禍々しい闇が渦巻いていた。二人は茫然と泉の前まで進み出て、そこに立ち尽くした。

「これは」

とロクドは掠れた声で呟いた。そして、自分自身有り得ない話だと分かりながらも、続けた。

「……転移の魔術なのか?」

「今のトラヴィアの神殿に、地下はない」

 息が詰まるような濃厚な闇を切り裂いて、背後から唐突な返答があった。ロクドたちが振り向くと同時に、よく通る声がまた響いた。

「作りなおされるときに、敢えて省かれたのだ。全ての事実を葬り去るために。ここは、私が精巧に再現した結界の中なんだよ。よくできているだろう?」

 ロクドたちが今まさに通ってきた通路の入り口に、カレドアが立っていた。ロクドの記憶通りの佇まいで、両方の手をゆったりと後手に組んでいる。カレドアはあくまで平静だった。今にも天気の話でも始めそうな彼の態度に、ロクドはかえって身の毛のよだつような恐怖を感じた。

「久々の再会だ。また少し、背が伸びたんじゃないか?」

「どうして、こんなものを作ったんですか」

「忘れないために」

 カレドアは冷ややかに答えた。

「そして、私の最も重要な目的の為に。悪の魔術師には、拠点というものが必要だろう?」

「悪?」

 思わず問い返したロクドに、カレドアは不思議そうな顔をした。

「それはそうだろう。私のしてきたことを悪と言わずして、何と言う? ここへ来たということは、きみは全てを知ったんだろうな。どのような方法でそれを知ったのかについては、どうでもいい。興味がない」

「悪だと思っているなら、どうして……」

「確かに私は悪だが、この世はそもそも悪に満ちている。根本的に、本質的に。そんな世界で善悪など、論ずるほうが間違っているとは思わないかい? きみ、きみはどう思う」

 カレドアは凍り付きそうな視線をヨグナへと投げた。息を飲むほどに鋭く、純粋な敵意が籠った眼差しだった。ヨグナの全身が蛇に睨まれた蛙のように硬直したのが分かった。

「わた――わたしは――そうは思わない」

 ヨグナがつっかえながら言った。

「そうだろうな」

 口の端を皮肉げに緩めながら、おそろしく冷淡にカレドアは認めた。

「だから私はきみと分かりあうことはない。分かりあいたいとも思わない。きみのような化け物とは」

「だから、殺し尽くすことを選んだというのか。イーリアを蘇生させるために」

「ああ、そうだ。どのみち、ルースの理の上では失ったものは戻らず、死したものはけして蘇らない。理に拮抗するもの――闇の力を用いなくては。それに、これは神に対する私の復讐でもあるんだよ、わが弟子」

 ロクドは噛み締めた歯の間から絞り出すように言った。

「他の方法はなかったのですか。他の、生き方は」

「もう遅い」

 カレドアは哄笑したが、それには自嘲じみた響きが混じっていた。

「五百年の時をかけて、私が幾千、幾万の命を奪ったと思う? 今更後戻りは許されない。あの夜に、私はもう死んだのだ。私の中身は空っぽだ。何もない。この生暖かい暗闇の他は」

 底知れぬ闇が、数知れぬ怨嗟が、カレドアの四肢を幾十にも取り巻き雁字搦めにしているのを、ロクドは見た。カレドアの漆黒の瞳が、狂気と妄執に爛々と輝いていた。

「以前おれがあなたの年齢を推測したとき、あなたは笑った。ガーダルさんとあなたの年はとても離れていると」

「ああ、ガーダルのか」

 カレドアは愉快気に、若造、と殊更強調するように言った。

「あれは、聡い男だ。私がこの呪いについて何か知っていると睨んでいた。尤も、私こそがその張本人だというところまでは至らなかったようだが――もう五年もあれば、自力で真相の一歩手前までは辿り着いただろう。五年は、私にとって十分すぎる時間だ。いかんせん、ガーダルは探偵役としては人が良すぎた」

「先生、あなたがルーメス教を滅ぼし、国を滅ぼし、全てを犠牲にしようというなら、おれはそれを黙って見ていることはできない」

「正義のために、きみは私を阻むか」

 カレドアは鼻で笑った。

「その娘は人に似てはいるが人ではない。君は魅入られているようだが――それの中には神が棲む。生かせば後に再び悲劇を生むかもしれんぞ。きみの正義はそれを容認するか」

 ロクドは冷静に首を振った。

「おれは正義を掲げない。おれが抱えるのは望みだけだ。おれはおれの望みを以って、あなたの望みを打ち砕こう」

 それを聞いて、カレドアは凄惨な笑みを浮かべた。

 次の瞬間、おそるべき煉獄の炎がロクドとヨグナを包んだ。激しい熱風が眼球の表面を乾かし肌を焦がそうとしても、ロクドは狼狽しなかった。きらきらと光を乱反射する冷気のベールが既に二人をぴったりと覆い、暴力的な熱から守っていた。ロクドは一言呟くと、つめたい無数の氷晶を含んだ空気の一塊を膨張させ、魔術の炎を吹き飛ばした。炎の欠片は、動じないカレドアの身体を避けるようにして辺りへ飛び散る。冷気は鋭い獅子の爪を形作りながら、反対にカレドアへと襲いかかった。カレドアの胴体を捉えようとした凍てつく爪は、彼が露でも払うかのように軽く腕を一振りすると、たちまち掻き消える。そのまま、カレドアは黒曜石の指環の嵌った指をロクドたちへ突きつけた。

 同時に、闇が暴風のように吹き付けた。反射的に、千切れ飛ばぬよう菫青石の首飾りを掴んだ。轟音が今にも食いつこうとするけだものの咆哮に似て、耳元で唸りを上げる。ロクドは今にも吹き飛ばされそうなヨグナの腕を掴み、身を屈めた。

 目を開けているのも難しいほどの黒い嵐の中で、カレドアだけが眉も動かさずに佇立していた。長衣の裾は重力にしたがって緩やかな襞を作り、闇に溶け込むような黒髪の一束さえ風に煽られることはない。カレドアの周りだけに透明な壁が張り巡らされていて、この空間と隔絶されているかのようだった。カレドアは首を僅か傾げ、余裕さえ感じられる足取りでロクドたちの方へと歩き始めた。ロクドはヨグナを捕まえながら嵐に抗うのに精一杯で、指一本動かすことができない。代わりに、ヨグナがロクドの上着に手を伸ばした。腕を脚をもぎ取ろうとする風に耐えながら、ヨグナは上着の内側に縫い付けた衣嚢から小瓶を取り出す。やっとのことで片手でその栓を外すと、瓶の中から水晶の微細な粉が飛び出してぱっと二人を覆うように広がった。ヨグナの性質を帯びて清廉な力を得たそれは、煌めく白い風となって黒い風と拮抗した。二つは相殺し合い、ロクドは不意に身体が楽になるのを感じた。顔を上げ、カレドアを見据える。ロクドの視線に射抜かれてカレドアは目を細めたが、それは一瞬のことだった。

 すぐに全身に鉛の重りを括り付けられたかのような感覚が二人を襲った。全てを薙ぎはらう暴風こそ打ち消されたが、動きを止めた闇の質量がずっしりとロクドたちの頭を、背を押さえつけていた。関節がみしみしと鳴り、ロクドはたまらず膝を吐いて頭を垂れ、ののしりを上げた。ヨグナが悲鳴を上げた。濃密な暗闇が夥しい数の指となって、うなじや肩に食い込む。硬い石床に押し付けられ、身体の下敷きとなった片腕が無理に捻じ曲げられた。隣でヨグナの柔らかな骨格が折れそうに撓むのを見て、ロクドは歯を食いしばった。

 トラヴィアを滅ぼし、十の町や村を滅ぼし、幾万もの怨嗟を以て自らの身体に蠢く闇を肥やしたカレドアの力は既に魔術師の常識を逸脱していた。最早闇そのものとなったカレドアは傷一つ、着衣の乱れ一つなく、絶対的に君臨していた。

「愚かだ、愚かだ、私のたった一人の弟子よ」

 まるで許しを請うような体勢で足元に這い蹲るロクドを見下ろし、カレドアは憐れむように言った。

「二人掛かりだろうが、ロクド、きみは私には勝てない。分かるだろう? この魂喰らいの身が一体幾つの命と、嘆きと、恐怖と、怨みとを吸い上げたか」

「ガレの村」

「そうだ」

「シーラ村も」

「そうだ」

「サリマトがどれ程悲しんだと思っている」

 カレドアは表情を変えなかった。

「ナトーレンの町――ファルマとモンノを殺したのもあなただ」

 闇の重みに抗いながらロクドが突きつけると、ふとカレドアが呟いた。

「初めて君に近付いてその腕を見たとき、すぐに分かったよ。それが私のかけた呪いだと。そして気付いた、ネルギの村はきみによって救われたのだと」

 カレドアの口角が上がり、彼が微笑んだのだと分かった。

 次の瞬間、反撃の機会を狙っていたロクドの命令と共に、菫青石が赫きを放ち、眩い氷の鷹が現れた。全身が重みから解放され、代わりに迎え撃つ、燃え盛る炎の鷹。かつてロクドを救った魔術の鷹が、今度は命を奪わんと翼を広げた。カレドアとロクドが二つを認めた瞬間、それらは交錯した。じゅう、と凄まじい音がした。高温に曝された氷が一瞬にして気化し、視界が真っ白な霧に覆われる。

「ロクド!」

 ヨグナの叫び声が耳に届いたときには、既に遅すぎた。霧を裂くようにして、全く勢いを失っていない炎の鷹が滑空してくる。あの頃とは違うのだ、と奇妙にゆっくりと進む時の中でロクドは思った。カレドアはもう、とうに理から外れていたのだ。鷹がロクドを飲み込み、今度こそ全身が灼熱の炎に包まれた。ヨグナの編んだ魔除けの腕輪が、圧倒的な力に耐えかねて焼き切れる。灼かれた皮膚が膨れ上がり、べろりと剥けるのがわかった。ロクドは悲鳴を上げた。自身の肌が炎に曝されるのにも構わず触れようとするヨグナを拒んで、火達磨のロクドは転げまわった。藻掻き苦しみながら、何とか凍結の呪文を喚く。狙いを定めず床ぎりぎりに放たれたそれは、反応の遅れたカレドアの足首を掠めて氷漬けにした。それはカレドアに直接打撃を与えるものではなかったが、彼の集中を削ぐには十分だった。

 カレドアがよろめき、炎の勢いが弱まる。ロクドはその隙を見逃さなかった。真っ直ぐに射ち出された重い金属の球のような呪文の塊はカレドアの胴に直撃し、およそ三ラート分の距離を跳ね飛ばした。空中に放り出されたカレドアの身体は肩の辺りから石床に着地し、鈍い音を立てた。短く低い呻きが上がり、ロクドを嬲っていた魔術の炎は瞬く間に掻き消える。

 追撃しようとしたロクドの足元が突然ぐにゃりと歪んだ。大気が揺らぎ、ヨグナの姿が空間の屈折の中に消えた。ヨグナ、と叫んだ声は床石の狭間に吸い込まれ、わんわんと余韻だけを残す。また大きく波打った石床に思わずたたらを踏むと、何かがロクドの足首を掴んだ。泥でできた人の腕が、足元から伸びていた。泥はロクドの足を取っ掛かりにして、ずるりと地から這い出した。人の形をしたそれからぼたぼたと粘性の高い泥が滴り、ロクドの革靴を黒く汚す。ロクドは総毛立ち、鞭のようにしならせた呪文の帯で泥人形を薙ぎ払った。飛び散った泥は自らの意思を持つかのようにすぐさま寄り集まり、再び人型を形成する。後ずさったロクドの上着の裾を、別の腕が引っ張った。振り向きざまにその腕を叩き崩して、ロクドはひどい寒気を覚えた。無数の泥人形が、地面から湧き出していた。壊しても壊しても、無尽蔵にあらわれてきりがない。人形の一つが呪文の網を掻い潜り、襟元を掴んだ。ロクドは心臓石を守ろうとして腕を振り被り、その泥の塊を視認して愕然とした。人形の顔は母のものだった。母ばかりではない。泥の中には様々な人の顔があった。父、ガーダル、サリマト、ファルマ、モンノ――皆等しく怨嗟の呻きを上げながら、ロクドの首に手をかける。ロクドは恐慌に陥って意味のない叫び声を上げた。父のつめたい泥の手が荒々しく顔を掴み、ロクドの頰を黒く汚す。サリマトが鋭い歯を剥き出してロクドの首筋に噛み付こうとした。犬歯が肌に食い込み、血が飛び散る。その痛みで、ロクドは自分を取り戻した。ヨグナの声が頭蓋の中を駆け回り、警鐘となって鳴り響いた。急激に引き摺り戻された理性が大音声で叫びたてる。

 ——これは幻覚だ!

 ロクドは古いドルメア語を唱え、耀く魔術の刃で顔のない泥人形の一つを貫いた。男の怒号が響き、景色が回転しながら混じり合う。灰色になった世界は粉々に砕け散り、元通りの世界がロクドの周りにあらわれた。カレドアは追い詰められたかっこうのヨグナの前で片膝を突き、自身の左腕を押さえつけていた。指の間からくろぐろとした血液が伝い落ち、床にしみを作っている。あと少し戻るのが遅ければヨグナは殺されていたかもしれないと思い、腑が冷えた。カレドアがロクドを一瞥し、立ち上がる。長々と切られたそこには血こそ派手に流れているが、傷そのものはそう深くない。対するロクドはひどい火傷と打撲、それに切創だらけの満身創痍だった。視界は霞み、全ての感覚が絶え間ない痛みに支配されている。

 しかし、ロクドの目には奇妙にもカレドアのほうが余程打ちのめされているように見えた。カレドアはひどい酩酊感に襲われているかのようにふらついていた。二本の足で立ってはいるものの、重心を乗せる足を頻繁に替えている。非常に不可解なことだった。カレドアの言う通り、今のカレドアとロクドの間には到底埋められないほどの力の差がある筈なのだ。闇の魔術師は嘔気を堪えるように胸を掻き毟り、前屈みになった。

「ロクド、おまえはこの娘に――光に、毒されているな」

 ぎらつく黒曜石の双眸に憎悪を籠めて、カレドアが絞り出した。彼が外套の衣嚢からナイフを取り出し、覚悟を決めた風に鞘から抜き放つのを見て、ロクドは警戒した。しかし、次にカレドアのとった行動は予想だにしないことだった。鞘を投げ捨てたカレドアは、ナイフのその鋭い鋒を、今しがた負った腕の傷にざっくりと突き立てたのだ。迸った血が、傍らに倒れ込んでいるヨグナの頰にかかった。ヨグナの顔が驚愕に彩られた。悲鳴を飲み込みながら傷口を広げ、ナイフを手から滑り落とすと、カレドアはそこに自身の指を差し入れた。肉と骨の間に潜り込もうとする、白くすばしこい何者かの尾が見えた。カレドアの指がそれを捕らえ、一気に引き摺り出す。血に塗れた何かは、石床の上に水っぽい音を立てて落ち、びちびちと忙しなく跳ねた。それは鰭と尾を兼ね備え、白銀に輝く奇妙に細長い魚のようないきものだった。容赦なく振り下ろされたカレドアの靴が、それを踏み潰す。魚は真っ二つになり、微細な光の粒子となって霧散した。カレドアは、白い顔をますます白くして、苦痛にだらだらと脂汗を流していた。ロクドは気が付いた。ロクドとヨグナを結ぶ透明な糸は今や二人の精神の奥底にまで織り込まれ、臓器を繋ぐ血管のように、ロクドの内部にヨグナの力を循環させていた。ロクドの魔術を取り巻くヨグナの光はカレドアの傷から入り込んで、その中に巣食う闇と激しく対立する。

「あなたは矛盾している」

 苦しむカレドアを見据え、ロクドは喘ぎながら言った。

「闇でさえ、結局はルースから生まれたものにすぎないというのに。あなたはルースを憎みながら、ルースの世界の中で生きている」

「ああ、そうだ。私が魔術師であろうとする限り、私はルースから解放されることはできない。知っている、だが、それは私にとって重要なことじゃないんだ」

 おそろしい拒絶反応を強靭な精神力で捩じ伏せながら、カレドアは錆び付いた声で言った。

「私はイーリアを奪ったものに復讐するだけだ。殺されたから殺す。あるものを滅ぼすために、あるものを利用する。単純明快な話だ」

「いいや、そうじゃない。そんなのは後付けだ」

 ロクドは唇を歪めてみせた。

「あなたが本当に望んでいるのは復讐ではなく贖罪だろう。あなたはイーリアを救えず、ライネルのように死ぬこともできず、ただ喪われるのを見ていた。死に追いやった。その罪に耐えられなかったんだろう。だが、あなたが山と死体を積み上げてイーリアに相見えたところで、彼女が微笑むことなどあるものか」

 ここまで平静を保っていたカレドアの顔が、激しい憤怒に歪んだ。髪が逆立ち、眦が吊りあがり、鬼の形相となる。カレドアはけだもののように唸った。

「違う! 全てはルースとそれを崇めるものたちの罪業だ」

「違うな。あなたはそう思いたいだけだ。そして五百年の間そう信じてきた」

「おまえに何が分かる!」

「イーリアはあなたを赦しはしないぞ」

 ロクドが言い終わらないうちに、耳を劈く鷺の声と共に、漆黒に燃え上がる七本の矢がロクドを襲った。ヨグナが革袋を放り投げた。開いた袋の口から大量の紙切れが飛び出し、盾となってロクドの代わりに灰になった。

 激昂しているはずのカレドアは、今は温度のない仮面のような貌をしていた。彼は血に汚れた指で黒曜石をするりと撫ぜ、命令した。途端に、ロクドは自分の周りの空気が粘り始めるのを感じた。危機感を覚えてすぐさまそこから這い出そうとしたが、遅かった。絡みつく大気は硝子のように不可逆に硬化し、ロクドの身体を固定した。カレドアが空中に浮かぶ文字を読み上げるかのような口調で、また童歌でも歌うような口調で奇妙な節をつけながら呟いた。

「常闇焼けつくエイラムひとつ――紺色捻じ切るエイダルひとつ――竜胆引き裂くエイリヤひとつ――」

 戯れに似た言葉に籠められた魔術は黒曜石を通して捻れた鉄の楔となり、カレドアが数える毎にロクドの腕に、掌に、足に打ち込まれた。ロクドはがっちりと全身を縛る空気の枷から逃れることのできないまま絶叫した。カレドアの肌にどす黒い痣がまだらに浮かび上がっては消える。動けないロクドに向かって歩き出すカレドアの足に、ヨグナが死に物狂いでしがみついた。熱した鉄板を水に落としたようなひどい音がして、カレドアは咆哮を上げながらヨグナを蹴り飛ばした。小柄なヨグナの身体は嫌な音を立てて床に打ち付けられる。それでもヨグナは這いずってカレドアに再び手を伸ばそうとした。ヨグナは喉から血を吐くような声で言った。

「殺させない」

「ならば、おまえからだ」

 再びカレドアの瞳が激情に彩られた。迸る怒気が紫電となって全身を包み、ばちばちと音を立てる。その稲妻の刃は烈しく弾けて、カレドア自身の皮膚さえ裂いた。

「同じようにしてやろう。同じように」

 カレドアはヨグナの髪を掴んだ。歯を食いしばり、カレドアは抵抗するヨグナを引き摺って歩き出す。深い深い暗黒を湛えた泉の方へ。ヨグナが床を掻き毟って抗い、石の上に血の筋が付いた。ヨグナの身体が白銀に発光した。掌が真っ赤に焼け爛れ、怯んだカレドアがヨグナをののしり、蹴りつけた。ヨグナが呻いた。

「ああ、憎い。分かるか? おまえが憎いんだ。おぞましくもイーリアの血を浴びて、イーリアの胎から這い出たおまえが。五百年前殺し損ねたおまえを今こそ殺そう。この苦しみに決着をつけなくては」

「光の娘を殺したらどうなる」

 ロクドはカレドアの魔術から抜け出そうとしながら、叫んだ。

「何が起こるか分からないぞ。もしも理そのものが崩壊したら、おまえも破滅だ!」

「構わん」

 カレドアは狂人の顔で哄笑した。

「それで一矢報いることができるなら! 喜んで死のうじゃないか、!」

 一層烈しく抵抗するヨグナに、カレドアは立ち止まって髪を掴んだ手を離し、彼女を投げ捨てた。同じ右手で、ヨグナの首を荒々しく掴む。闇の魔術師の獣のごとき力はヨグナを軽々と持ち上げた。ヨグナは苦悶の顔で足をばたつかせ、両手の爪でカレドアの手をはげしく引っ掻いた。

「やめろ!」

 絶叫したロクドの関節がごきりと音を立てた。左手の楔が振動を始め、新たな血が噴き出す。ヨグナの身体が再び耀きを放ち、直に触れるカレドアの皮膚をじゅうじゅうと灼いた。真っ赤に膨れ爛れた皮はずるずる剥がれ、その下の蒼白が露わになる。苦痛の呻きを上げながらも、カレドアは力を緩めない。その手が焼け落ちる前に細い首を千切り落とさんと、ますます指に力を籠めた。

「ヨグナ!」

見開かれたヨグナの目に涙が溢れた。縁から零れ、ゆっくりと頰を伝う。その透き通った雫は、顎から滴り落ちてカレドアの指環と、その心臓石と触れ合った。

 その瞬間、時が止まったようにカレドアの全身が硬直した。

 黒曜石の表面にぴしりと罅が入る。硬質な音を立てて亀裂が広がり、カレドアの指が緩む。

 鉄の楔が砕け散り、ロクドが叫んだのはそれと同時だった。

 一瞬の静けさのあと、重く短い音がした。

 ロクドの放った呪文は真っ直ぐにカレドアの身体を貫いていた。

 力を失ったカレドアの手から、ヨグナの身体が滑り落ち、床に倒れた。解放されたロクドは縺れる足でヨグナの元へひた走り、激しく咳き込む彼女を抱き締めた。カレドアは呆けたような顔で、ぼんやりと串刺しになった自分の胸を見つめていた。一拍遅れて、せり上がってきた血液が唇から零れた。カレドアを取り巻く闇が震え、刹那、ぴたりと静止した。カレドアとロクドの視線が交錯し、お互いの瞳の中に驚愕の表情を浮かべた自分自身を発見する。次の瞬間、無数の屍者の叫喚と共にカレドアの闇は漆黒の爆発となって四方八方に迸った。ロクドはヨグナの肩越しに、カレドアの嵌める指環の黒曜石、その亀裂から一条の黒が流れ出しているのを見た。鼓膜にごうごうと叩きつけるような暴風が、ヨグナの亜麻色の髪とロクドの焦茶の髪とを勢いよく吹き上げる。ロクドはヨグナを抱く腕に力を籠めた。

 風がおさまり、静寂が戻ると、そこにはカレドアが横ざまに倒れていた。胸には未だ両錐構造をしたロクドの呪文が貫通していたが、そこからは何も零れてはいなかった。指環の石は、遠い昔そうだったように、うつくしく透き通る青色調へと変わっていた。闇の抜け落ちたそれは黒曜石ではない。角度によって色を変える、菫青石アイオライト

 ロクドはヨグナを離し、膝をついたままカレドアの傍へにじり寄った。茫然とその顔を覗き込むと、乾きかけの血がべっとりとついた唇が微かに震え、まだ彼に息があることを教えた。カレドアの瞼が薄く開き、ゆるゆるとロクドを見た。ロクドは掠れた声で呟いた。

「あなたはどうしておれを助けた。魔術を教えたんだ」

「はは、おかしな事を言うな」

 それは、かつて何度も聞いた穏やかな笑い声だった。喉から溢れた血がまたごぽりと音を立てて、口から吐き出された。

「きみが散々食い下がったんじゃないか。私はいやだと言ったのに。きみは、頑固な子どもだったなあ」

「先生」

 ロクドは喋る度に零れるカレドアの血を、掌で無意識に受け止めようとした。カレドアは溜息を吐いて、顔を背けた。そのあとで静かに瞑目して、少し考えてから答えた。

「何故だろうな。私にも分からん」

「先生」

 ロクドはもう一度呼び掛けた。それ以外の言葉を忘れてしまったかのようだった。

「呆気ないな」

 カレドアの顔は血の気を失っていたが、声ばかりは余計な力が抜けたように饒舌で、見ようによっては存外元気そうにも見えた。カレドアは時間を掛けて右手を重そうに持ち上げ、真っ二つに亀裂の入った自身の心臓石を眺めた。それからその手でロクドの手を掴んだ。焼け爛れずたずたになったカレドアの右手は冷え切って、まさに命が少しずつ零れ落ちてゆこうとしているのが分かった。カレドアは今も自らを貫く魔術の結晶へと、ロクドの手を誘導した。きらきらと輝いて浮遊する光の粒の集合体。二人の手は、その表面に触れることなく透過した。

「素晴らしい魔術だ。私が今もきみの師であったなら、たいへん誇らしく思っただろう」

 動かした口元からひび割れ、白い細かな破片となってぱらぱらと崩れていく。ロクドはカレドアの手を強く握った。鼻の奥がつんとした。胸があまりにも苦しくて、幼子のように蹲って泣き喚いてしまいたかった。ロクドは喉の奥から言葉を絞り出した。

「先生、おれはずっとあなたのようになりたかった」

「きみは私とは違う。何の罪も持たず、ただ痛みだけを負わされて生きてきた。だから、きみはその分、これから人一倍幸せにならなくてはいけないな」

「先生」

 カレドアは首を振った。カレドアはロクドの手を弱く握り返すと、力を抜いた。カレドアは次にヨグナを見た。その眼差しには、複雑な色が混じり合っていた。カレドアはさっきよりも苦労しながらやっとのことで手を伸ばし、憎々しげに、愛しげにヨグナの頬を撫でた。ヨグナの頰が紅く汚れたが、もうカレドアの指がそれ以上灼けることはなかった。闇は既にカレドアの身体から出て行ったのだ。カレドアは何度か喋ろうとして失敗し、声を詰まらせた。微かな声で、ヨグナが呼び掛けた。

「カレドアさん」

 カレドアが唇を震わせた。

「レドと」

 カレドアの瞳は、若き日の色に戻っていた。深い海の青、澄んだ泉の透明、枯草色。重ねて、カレドアは懇願した。

「頼む」

 ヨグナは囁いた。

「レド」

 カレドアの瞳から透明な一雫が零れ落ちた。最早カレドアにはヨグナが見えてはいなかった。それでも、真っ直ぐにヨグナの瞳だけを見つめていた。カレドアは弱く安堵に似た溜息を吐き出して、ゆっくりと瞬きをした。

「イーリア」

そして、聞こえるか聞こえないかの無声音で、呟いた。

「ここにいたのか」

 それは、救われたような響きだった。カレドアの瞳孔がきゅっと縮まり、弛緩して、ゆっくりと灰色になっていく。灰色が広がっていく。カレドアから、全ての色が失われていく。黒い髪が。血に汚れた唇が。そして全身が灰色の石になったかと思うと、さらさらとした細かな砂に変わり、風の中に消えた。

 床石が陽炎のように揺らめく。壁がとろけて形を失う。満月が輪郭を曖昧にして、円い空の中に混じり合う。

 結界が溶け去ると、ロクドとヨグナは、元の寝室の中央に座り込んでいた。薄暗い部屋の中には、小さな窓から穏やかな日差しが差し込んでいた。二つ向こうの通りから、遠く喧騒が響いてくる。主を失った寝室はひどくがらんとしていた。どこにもカレドアの痕跡はなかった。最初から誰の部屋でもなかったかのように。

 ロクドは左の袖をめくり上げた。生まれたときからロクドと共に寄り添ってきた痣は、今はもう其処にはなかった。

 ただ、罅の入った菫青石の指環だけが、唯一の証として二人の前に残されていた。

 ヨグナが呟いた。

「カレドアは、あなたに似ていたと思う」

 ロクドは頷いた。

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