エピローグ
そよ風がブナの幼い葉を揺すり、やわらかな音を立てた。若緑のうつくしいレース編みが飴色に丸みを帯びた陽光を透かし、地面にまだらの木漏れ日を落とす。その陽だまりには、新しい季節の訪れを告げるスズランや二輪草が、清楚な純白の絨毯のようにかわいらしく群生している。耳を澄ませば、鳥の囀りに混じってせせらぎの音が聞こえる。水が流れている。細く流れる小川は、山から下りてきた冷たく浄らかな雪解け水を湛え、静かな森の土壌をしっとりと潤す。森から村へ続くささやかな小径を辿ってゆくと、香りのよいヒアシンスやクロッカスがとりどりの花をつけ、道端を彩っている。
その道を、一人の少女が駆けてゆく。さらさらと靡く淡い薄茶の髪は、光の加減で金にも白銀にも見える。あどけない顔立ちの中で存在感を放つ大きな瞳も、やはり同じ亜麻色。白いトゥニカの裾を翻し、履物に素足の裏がぶつかるぱたぱたという音を立てて、少女は家へと向かっている。まろく膨らんだ頰を紅く上気させ、息を切らしながら。
少女の目指す家の前に、男が一人佇んでいる。男は手紙らしい紙切れを一枚広げている。少女の髪よりも数段階濃い焦茶の短い髪をしたその男は、紙切れから目を上げると、駆けてくる少女の姿を見て微笑んだ。
「アイリア、転ばないように」
「おとうさん!」
少女が男に抱き着き、服を掴んで引っ張った。男が掛けている首飾りが揺れて、蒼いきらめきを布の上に散らした。
「おとうさん、一緒に来てよ! いっとう綺麗な場所を見つけたの」
「アイリアは、森が好きだね」
「もうアネモネは咲いてるし、いっぱいに春が吹き溜まってて、いい香りがするんだよ。ねえ、行こうよ」
「わかった、それじゃあみんなで行こう。お母さんたちにも教えてあげなくちゃいけないだろう?」
アイリアが小さく頰を膨らませたところで、開け放した扉の向こうから小さな声が聞こえた。
「ロクド」
「ああ、待ってくれ」
ロクドはアイリアの手をひくと、家の中へと入った。
この十年で、森は随分と安全になった。〈大平原〉からは瘴気が晴れ、毒の泉は清廉さを取り戻し、荒れ果てた土地にも次第に緑が戻りつつある。
ロクドがヨグナと共にネルギの村へと帰ったのは、あれから一年が経った後のことだった。約束通りメイズへ戻り、アメラにまじない指南の続きをしたり、ファルマとモンノの墓を訪れたりしていたら、遅くなってしまったのだ。夫婦は、海岸に沿うナトーレンの隣町、ミームの外れにある共同墓地へと揃って埋葬されていた。二人が愛したナトーレンに骨を埋められなかったことを、もしかしたら夫婦は悔しがったかもしれない。しかし、ロクドの見立てではミームの町もなかなか悪くはない。いい風が吹いている。きっと夏になれば、ミームにも燈虫がちらほらと現れて、海辺の町の夜を仄かに照らすだろう。
久方ぶりに帰省したネルギはそっくり記憶のままだった。父と母は顔に皺が増え、髪に白いものが混じり、やつれて実年齢より随分と老いたように見えた。ロクドの顔を見た瞬間の二人の表情を、ロクドは忘れることができない。涙を流してロクドを抱擁した両親は十も若返ったようになり、ヨグナをも歓迎した。
ロクドは手にしていた羊皮紙をひらりと振った。
「アメラから手紙が来ていたよ。順風満帆だって」
「よかった。わたしにも、よく見せて」
「安心した?」
「何言ってるの、ロクドが一番心配していたんじゃない」
ヨグナが声を抑えながら、ころころと笑った。ヨグナは寝台の上で、上半身だけを起こしている。アイリアが落ち着きなく声を上げた。
「ねえ、森に行こうよ!」
「ああ、そうだった。アイリアが一緒に森に来てって言うんだ。どうだろう、調子は」
「もう大丈夫よ。そろそろ退屈してきちゃったくらいなの。少し、外を歩きたいわ」
ヨグナは膝掛けをめくって寝台から足を降ろすと、傍らに丸まった小さないきものを見つめた。二本の腕と二本の足、それにまろやかな丸みを併せ持ち、あたたかくしめったそのいきものは生まれたばかりのヨグナの息子だった。赤子は目を瞑り、すやすやと寝息を立てている。ヨグナは首を傾げた。
「起きちゃうかしら」
「平気だよ。昨日も家の中でアイリアがはしゃぎ回ってたけど、てこでも目を覚まさなかったじゃないか。なかなか図太そうな子だ」
「それもそうね」
微笑むと、ヨグナはそれを包む布ごと、そっと赤子を抱き上げた。彼は眠ったままだ。アイリアに先導されて、二人と一人は家の外に出た。全身をやさしく包むようなうららかな陽気に、ヨグナが気持ちよさそうに目を細めた。
「春の匂いがする」
ロクドは頷き、ヨグナの背に手を回してゆっくりと寄り添うように歩いた。ここ数日家に篭っていたヨグナの足取りは、喜びに満ちながら、どこか覚束ない。
「ずっと考えていたことがあったんだけど」
ふと頰を撫ぜる風に乗せるようにして、ロクドは小さな声で呟いた。ヨグナがロクドを見つめる。
「あのとき……どうしてルースはきみをこの世に生んだのかとという話になっただろう?」
「突然ね」
ヨグナは花の精霊のように笑った。
「もしかしたらきみは……連綿と続いてきた血塗られた儀式に終止符を打つために、そしておれと共にカレドアを止めるために、その為に――」
「ロクド、ルースは神じゃないわ」
「分かってる。だから、これはおれの勝手な理由付けだよ」
「わたしが生まれた理由よりも、今はもっと急いで付けなくちゃいけないものがあるわ」
なんだ、というようにロクドが首を傾げると、ヨグナが責めるように大袈裟に唇を尖らせた。
「この子の名前。もう今日で三日目だから、帰ったら長老さまに報告しなくちゃ。決めておいた名前でいいの? 男の子だから――」
「ユトレド」
ロクドが答えると、アイリアが振り向いて、嬉しそうに叫んだ。
「それじゃあレド! レドね!」
そのとき、赤子の目がぱっちりと開き、透き通った蒼の瞳が現れた。ロクドと同じ、そしてカレドアと同じ――
ロクドはヨグナと顔を見合わせて微笑み、左腕を見つめた。呪いの痣はこの身から消え去ったが、引きつれのようなごく微かな瘢痕はうっすらと残った。痣の名残を探るように撫ぜる右手の人差し指には、指環が一つ嵌っている。首飾りと同じ菫青石には大きな罅が入ってはいるが、常にうつくしく磨かれて、澄みきった光を放っている。その上に、やわらかなヨグナの手が重ねられた。
風が吹いている。
花がそよいでいる。
幸福だと思った。
沁みるような太陽の光が、一つの家族を祝福するように照らしていた。
了
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