番外編

或るありふれた夜

 硝子の瓶が倒れる硬質な音がして、カレドアはふと我に返った。作業台の方に目を遣ると、ロクド——カレドアの唯一の弟子——が僅かに背を丸め、散らばった水晶のさざれ石を掻き集めているところだった。作業台の上には磨かれた銅板と鹿のなめし革とが、まだ一杯に広げられている。カレドアは水晶の瓶を元通り置き直す弟子の背をなんとなしに眺め、不意にしずかな驚きにうたれた。彼の背中は、カレドアの認識の中のそれよりも随分と大きく見えたからだ。カレドアは溜息を吐いて、開きっぱなしにしていた写本を閉じた。

「まだ続けるのか」

 カレドアの声に、ロクドは緩慢に振り返った。鼻の頭が金属の粉で汚れている。

「あと二枚なんです」

「集中力を欠いているように見える。もう遅いし、残りは明日にしなさい」

 そう言い聞かせると、ロクドは案外素直に頷いた。本人もそれなりに疲労を感じていたと見える。目を凝らせば、台の上には既に七枚の護符が並べられていた。大したものだ。カレドアは肘掛け椅子に腰掛けたまま、ロクドが作業台の上を片付けるようすに黙って目を注いだ。彼が作業のときも嵌めたままの手袋を外し、丁寧に机の端に重ねるまで。彼の一連の動作には迷いがなく、滑らかだった。

「先生?」

 ロクドが伺うような視線を此方に向けていた。カレドアは微かに動揺している自分に気付いた。ゆっくりと瞬きをし、首を傾げてみせる。ロクドは問い掛けた。

「先生は、まだ眠らないんですか」

「そうだな」

 もう習慣になってしまった微笑を口の端に上らせながら、カレドアは写本を押しやった。

「部屋に戻ろう。私も今日は、なんだか疲れてしまった」

「何かあったんですか?」

 椅子から立ち上がると、長いこと同じ体勢でいたせいか身体の節々が痛んだ。カレドアは小さく眉を顰める。

「いいや、特に。歳を取ると、理由もなく疲れるものだよ」

 ロクドが分かったような分からないような顔で頷いた。それから、テーブルに積まれた写本の一山——カレドアが夕方に持ち出してきたものだが——を指差した。

「書斎ですよね」

 片付けを手伝う、という意味だろう。

「用が済んだら私が自分で戻しておくよ」

「そう言って戻さないでしょう」

「信用がないな」

 ロクドが顔を苦笑の形に綻ばせ、もう一度首肯した。

「お休みなさい」

 返事をしようとして、カレドアは一瞬言葉に詰まった。カレドアが漸く「お休み」と言うことができたのは、ロクドが階段を上っていき、彼の部屋の扉が閉まる音がしてからのことだった。椅子の前に立ち尽くしたまま、カレドアは二回目の溜息を吐いた。もう一度肘掛け椅子へと腰を下ろす。ロクドにはああ言ったが、眠るつもりはなかった。階上で、ガタガタとロクドが床板を軋ませる音が微かに聞こえた。カレドアは写本をもう一度引き寄せ、さっきまで読んでいた頁を再び開いた。

 古アルスル語だ。黒々としたインクの文字列が七色に閃き、カレドアの指の下で踊った。ちかりちかりと瞬くその一文一文を追いながら、しかしカレドアは自身がその行為に没頭していないことに気付いていた。カレドアは人差し指で頁の端を三回叩き、努めて文字の海の中に沈み込むようにした。深く。小魚に似た呪文の群れが、風に翻る旗のように燦めく。元気のよい文字の一つが歪んで弾け、飛び跳ねる。カレドアは瞬き一つせずその一頁をやっつけると、次の頁を開いた。今度の頁は繊細な青と金の装飾に縁取られていた。乾燥気味の羊皮紙の上で古の文字たちがじっと息を潜め、カレドアを見上げている。カレドアは前の頁と同様に文字列の全てを検め、また様々な角度から入念に眺めてみたが、その頁にも探していた記述は見つからなかった。その次の頁にも、更にその下の頁にも。結局、その写本の中からはそれほど重要と思える手掛かりを得ることは出来なかったが、カレドアは落胆しなかった。こんなことはよくあることだからだ。カレドアは疲れた目を細めながら、写本の別の一山に手を伸ばした。

 そこで、ふと、いつからか階上の音が聞こえなくなっていたことに気付いた。ロクドが眠りに就いたのだろう。カレドアは、集中の糸がぷつぷつと途切れていくのを感じた。そこで、再び椅子から立ち上がった。

 部屋の中は、おそろしく純度の高い静けさに満たされていた。冬の夜の湖の、その一番深い場所がそうであるように。カレドアは息を潜め、階段へと近寄った。なにかに引き寄せられたかのようだった。そして、足音を忍ばせながら、その階(きざはし)を上りはじめた。二階は暗闇に支配されている。作業室に灯した蝋燭の灯りが、カレドアの影を階段へぼんやりと落とした。一段一段、階段を上るにつれて影はその輪郭を曖昧にし、暗闇と溶け合っていく。光に慣れた目が、次第に暗闇の中にあるものを拾いはじめる。闇の中に、ロクドが眠っている部屋の扉が浮かび上がった。そのときになって初めて、カレドアははっとした。

 私は何をしようとしているのか。

 階段の一番上の段に足をかけた状態で、カレドアは硬直した。扉は黙してただ閉じていた。手摺を握る手に力が篭り、カレドアは息を止めた。この瞬間にも、ロクドが目を覚ましてこの扉を開けるかもしれない。彼はカレドアを見つけて驚きの表情を浮かべ、どうかしたんですか、と聞くだろう。その問いに答えるすべを、今カレドアは持ち合わせなかった。

 カレドアは後退りで一段降り、それから踵を返して階段を最後まで降りた。足音は立てなかった。灯りの中に戻ってくると、自分が酷く緊張していたことがわかった。カレドアは蝋燭を消し、本の山をそのままにして作業室を出た。

 廊下の突き当たりへ。

 カレドアは寝室の扉を——ロクドには入室を許していない寝室の扉を開け、その中に身を滑り込ませた。後手に扉を閉めると、再び完全な静寂がカレドアを包んだ。カレドアは細く息を吐いた。小さな窓から射し込んだ月光が、壁のタペストリーを銀色に照らし出していた。カレドアはのろのろと寝台へと歩み寄り、そこに腰を下ろした。ギシリと乾いた音が鳴った。

 月はカレドアを照らさない。タペストリーから零れ落ちた光の欠片が、床に点を作っていた。

 カレドアはこうべを垂れ、両肘を膝に置いた。両手の指を組み合わせ、そこに額をつける。酷く馴染み深い闇の蔦——夜よりも尚昏い真っ黒な指先がするすると全身に絡みつき、耳元に甘い怨嗟を吐きかけた。カレドアは今再び小さな溜息を漏らした。今度のそれには、微かな陶酔の色が混じっていた。

 それからカレドアは黙って目を閉じ、色々なことを考えた。そして、ひたすらに新しい朝が来るのを待った。

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