瞼にインク

「いっこうに治らないじゃないか、と言っているんだ」

 男がいらいらと左の手の甲を指差した。さっきから同じ台詞を三回繰り返している。

「ですから、時間が掛かるんです」

 ロクドも三回目の説明をした。男は赤い発疹の浮き出た手で、クルミ材のテーブルを強く打った。男は明らかに興奮しはじめていた。

「あの軟膏をもう十日も塗り続けているのに、まったく小さくならない! いいか、おれは紹介されて来たんだぞ! 治せないなら金を返してくれ!」

「もう少し、待ってください。よくなりますから」

「もう少し待てだと!」

 男は唾を飛ばしながら怒鳴った。ロクドは額に冷や汗が滲むのを感じ、上衣の袖で拭った。

「あのう、あのですね……説明をさせてくれませんか」

「ぺらぺら喋って誤魔化すつもりか? 大体、どうしておまえみたいな半人前に診られなきゃならないんだ! 心臓石をぶらさげちゃあいるが、まだガキじゃないか! おれは魔術師と話をしに来たんだ」

 この言い様に、流石のロクドもむっとした。反論しようと口を開きかけた瞬間、背後からひんやりした手のひらが現れ、ロクドの肩を押しとどめた。ロクドははっとして我に返った。彼の尊敬すべき師であり、この家の中のもうひとりの魔術師──カレドアがゆったりとロクドと男の間を通り抜け、空いた肘掛け椅子に座った。落ち着き払ったようすで右足を左の膝に乗せ、寛いだ姿勢になる。緊迫していた空気が解け、男がやや勢いを失った。

「彼は既に一人前ですし、私の弟子の中でももっとも優れた男ですが」

 カレドアが飄々と嘯いた。勿論、彼はロクドの他に弟子をとってはいないので、この詭弁にはロクドは内心呆れてしまった。

「彼が何か不始末をしでかしましたか?」

「こいつの処方した軟膏が全然効かない」

 怒りを爆発させそこねたかっこうの男が、むっつりと言った。

「軟膏が」

 カレドアが繰り返し、依頼人の男に向けて手のひらを差し出した。男は素直に自分の左の手を出し、カレドアが湿疹を観察するに任せた。手の甲の様子をざっと検分したあと、カレドアはロクドのほうへ視線を向けた。

「何を処方した?」

「ベトニーの粉末にギンバイカを加えて……」

「ギンバイカは花弁まで使ったか?」

「二対一で」とロクドが頷くと、なるほど、とカレドアが頷き返した。腹の辺りで指を組み、依頼人の男へと向き直った。男はさっきまでの調子を失い、黙っている。

「どのくらい使ったんです?」

「え?」

「軟膏ですよ。何日間使った?」

「十日間。朝晩と」

「ははあ」

「おれの使い方が間違ってたってのかい」

 男が顔を顰めつつ唸った。男の声色に先ほどまではなかった自信なさげな響きをみとめ、ロクドは思わず首を傾げた。いつの間にか、さっきまでの横暴な態度はすっかりなりを潜めている。カレドアがにっこりした。

「いいや、そんなことはない。あなたは間違っていない。私の弟子も間違っていない」

「どういうことです?」

「もう少し様子を見てくれ、ということです。その軟膏は効果が出始めるまでには少なくとも二十日はかかる。これはそのことを説明しませんでしたか?」

 カレドアがロクドを指差すと、男は一瞬口籠った。ロクドは力を籠めてカレドアを見た。おれは説明した。ちゃんと説明しました。

 男が何か言う前に、カレドアは再び口を開いた。今度の声色は柔らかく、窘めるような調子だった。

「分かりますよ、早く治したいでしょう。でも、悪いが、見たところそう簡単に引っ込む質のものじゃあないですよ。それ、出始めてからふた月は経っているでしょう」

「見て分かるものですか」

「よく観察すればね。現れてからすぐに来ていただきたかったものですな。完全に元に戻すには、放置していたのと同じだけの時間を覚悟してもらわなくては」

 男がしゅんとしてしまったのを見て、ロクドは唖然とした。ついさっきまでは、さっぱり話が通じなかったはずなのに。

「でもきっちり塗りつづけてらっしゃるんでしょう」

「ああ」

「立派ですよ。もう十日ばかり様子を見ていれば、色が薄くなってくるのが分かるようになるでしょう。もし効果が実感できなければ、そのときはまた来てください。セランダインを足すのでね」

 男が頷いた。カレドアの話に納得したらしい。彼は立ち上がり、衣嚢を探りはじめた。

「お騒がせしたよ。それじゃあ──」

「ああ、構いませんよ」

 そうですか、と男は呟き、大人しく帰っていった。去り際には振り返って「また頼むよ」と言い残し、ロクドに目礼しさえした。

 男が行ってしまったあとで、書斎に消えようとするカレドアを呼び止めると、彼は肩を竦めた。

「依頼人の前で汗を拭うな。信頼されなくなる」

「汗? 信頼とそれに何の関係があるんです」

「まだあるぞ。椅子には深く座れ。呼吸はゆっくりと。脚は組んでもいい」

「全然分かりませんよ。それに、それ、悪い印象を与えませんか?」

「それは依頼人が何を求めているかによるな」

 カレドアは長い指でトントンと鼻梁を叩き、ロクドを一瞥した。細めた黒曜石の目の奥に、ほんの僅か悪戯めいた色が踊ったような気がして、ロクドは目を瞠った。

「だが、ロクド、これは覚えておいたほうがいいぞ。依頼人の多くがまず欲しがるのは安心感だ。もしかしたら、効力のある魔術なんかよりずっと需要があるのかもしれないな。きみにはまだ理解できないかもしれないが」

「安心感?」

「人はいつでも支配者を求めている。何故なら、人は本能的に従属したがる生き物だからだ。とは言っても、自分より弱そうに見える人間に従いたいとは誰も思わないだろう。だから、場合によっては傲慢なくらいのほうがいいんだ。場を支配しろ」

「支配だなんて」

「勿論、いつでもその方法が正しいわけじゃないこともきみは知らなくてはならないが」

 不意に、カレドアが窓の外を覗いた。何かに気づいたように、彼は口角だけを上げる笑い方をした。丈長のガウンを脱いで椅子の背もたれに引っ掛ける。

「どうしたんですか?」

 カレドアが面白そうな顔で指先をインク瓶に突っ込むのを見て、ロクドは怪訝な顔で問いかけた。

「まあ、見ていればわかる」

 魔術師が笑い、まもなく扉のドア・ノッカーが打ち鳴らされた。ロクドは扉に駆け寄り、新しい依頼人を迎え入れた。

 依頼人は、冴えない表情をした中年女であった。酒に焼けたような赤ら顔であり、態度には落ち着きがなかった。ロクドはこの依頼人の女を師匠に紹介しようとして振り返り、妙な違和感を覚えた。カレドアは視線を自分の手元に落として爪を弄っており、ロクドが声を掛けるとはっとしたように挨拶をした。

「どうぞ、お掛けください」

 カレドアは女に長椅子をすすめ、自分は先ほどの肘掛椅子に腰掛けた。彼の隣にロクドも腰を下ろした。女はカレドアの指先のきたならしいインク染みに目を止め、眉間に皺を寄せた。

「本日はどうなすったんです」

「問題を解決してほしいの」

 女が横柄な口調で言った。きんきんとして、不平を言うことに慣れた声音だった。

「問題、というのは?」

 カレドアが遠慮深げに問いかけた。

「夫が浮気しているのよ」

「そうお考えになった根拠が何かあるんです?」

「あたしを疑うの!?」

 女が突然甲高い声でがなり、ロクドは度肝を抜かれた。しかし、ロクドがショックを受けたのは寧ろ隣のカレドアの態度だった。尊敬すべき彼の師は、このいかれた女に完全に気圧されてしまったように見えた。

「疑っているわけでは」

 カレドアは目を泳がせながらぼそぼそと呟いた。驚くべきことに、彼は僅かに吃りさえした。女は自分の膝を引っ掻きながら続けた。

「あの人、浮気してるんだわ。そうに決まってる。絶対にそうなのよ。隣の女が怪しいの、だから、そいつを懲らしめてやれるような魔術を処方して頂戴」

「お言葉ですが」

 ロクドは思わず口を挟んだ。カレドアが此方に素早く視線を向けたのが分かった。

「お話だけでは。そもそも人に危害を加えるような魔術はうちでは扱いませんし、それに、思い込みってこともありますよ」

「思い込みなわけないわよ!」

 女がまた激情に駆られたように叫んだ。ロクドは耳を塞ぎたい衝動をなんとか抑えこんだ。

「あの女がうちの人を見る目はおかしいもの。あんた、そんなにあの女を庇うなんて、もしかしてぐるなんじゃないの!」

「そんな無茶苦茶な!」

 女が立ち上がったところで、まあまあ、とカレドアが取りなした。カレドアの手のひらが、さり気なく再び肩に押し付けられる。普段からすれば驚くほどに頼りない言葉の調子とは裏腹に、その手のひらには意外に力が籠められていたので、ロクドはますます困惑した。

「しかし、奥さん、それはうちでは無理ですよ」

「なんで無理なのよ」

「私の弟子も言った通り、人に危害を加えるような魔術の処方は禁じられているんです。ほ──他の魔術師はそう説明しませんでしたか?」

 女は顰め面をした。

「どいつもこいつも言い訳ばかりして」

「いや、いや、これは決まったことでね」

「じゃあどうしろってのよ!」

「そう言われましても」

 カレドアがおどおどと呟き、手で額の汗を拭うような仕草をした。指先のインクが融け、眉や瞼の辺りが黒っぽく汚れた。女はうつむき加減になったカレドアの顔を眺め、不意に失望と侮蔑の色を浮かべた。女は荒々しく立ち上がった。

「他の魔術師を探すわ。ふん、決まりがどうとかじゃなくて、どうせ出来ないんでしょう」

 カレドアがぴたりと息を止め、肘掛けを握りしめた。ロクドは耐えかねて立ち上がろうとしたが、カレドアの靴が彼のガウンの裾をしっかり踏みつけていたので、その試みは失敗に終わった。女はカレドアとロクドを口汚く罵り、あっという間に出て行った。彼女は最後に「もぐり魔術師め」と吐き捨てていくことも忘れなかった。

 ロクドは椅子に座ったまま女を見送ったが、憤懣やるかたなく、カレドアを見遣った。彼は既に足を投げ出し、寛いでいた。汗ひとつかいていなかった。ロクドは混乱しながら呟いた。

「先生、今のは」

「分かっただろう。彼女に解決すべき問題なんぞないのさ」

 魔術師はにやりとした。先ほどまでのおどおどした仕草は綺麗さっぱり消え、いつものカレドアのように見えた。

「有名な女だ。もちろん良くない評判でだが」

「酒ですか」

 ロクドはようやく思い至った。

「酒浸りの嫉妬妄想」

「病であることは確かだ。しかし、治せない。治せないし、あの調子では病であることさえ納得させることはできないだろう。お引き取りいただくしかない。出来れば、平和的に、自分の意思で」

「だから、ああいう態度を?」

「私はどんな風に見えた?」

 カレドアは面白そうに尋ねた。

「でも、吹聴されますよ。無能な魔術師だって」

「別にいいさ」

 どうでもよさそうに魔術師は呟き、肘掛椅子から立ち上がった。パキパキと音を立てながら肩を回す。

「おれはいやです」

 ロクドは椅子に座ったまま言った。カレドアは微かに目を瞠り、ロクドを見下ろした。白い瞼の、目立つインク汚れが気になった。彼は気づいているのだろうか。

「ならば、きみは、きみの好きな方法を選べばいい。私のやり方が万人に好まれるとは思わない」

 カレドアはやさしい口調で言った。それから、またにやりと笑った。

「それに、確かにきみはあまり器用じゃなさそうだ」

 今度こそ書斎に戻っていこうとするカレドアを、ロクドは再び呼び止めた。そういう意味じゃないと言いたかった。尊敬する自分の師匠が誰かに軽視されるのが我慢ならないのだと伝えたかった。カレドアが振り返り、しかしロクドは何も言うことができなかった。どうしてなのか、自分にもよく分からなかった。仕方なく、口下手な弟子は魔術師を見つめ、ただ黙って瞼を指差した。


おわり

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