香水指南

「つけすぎだ」

 肩越しにカレドアの指が小瓶を取り上げた。

「早く全部拭き取れ、明日まで残るぞ」

 ロクドは布に酒精を含ませ、首のあたりを擦った。カレドアが小さく咳き込み、窓を開け、部屋の換気をしはじめた。窓から晩秋の清々しい大気が忍び込んでくる。ロクドは肩を落とした。

「そんなにひどいですか? そうは思えないんですけど」

「自分じゃ分からないものなんだ」

 カレドアがロクドのほうを振り返ると、顰めていた眉のあたりを緩め、言い聞かせるようにした。

「まじない香というのは、きみが思っているよりもずっと繊細なものだよ。加減が難しい」


 魔術師には独特の匂いがある。それは芳香の強い材料を頻繁に扱うためでもあるし、一連の術式の中で多種多様な香を焚くためでもある。そういった馨は、経験を積むうち次第に魔術師の衣服や肌の上に離れがたく染みついて、取れなくなってしまう。どういった香りが目立つかは、その魔術師がどのような術式を好むか、あるいはどんな分野を専門としているかによって異なる。例えば、ロクドの師であるカレドアからは削った琥珀と白檀の匂い、サリマトからはカミツレと温めた蜜蝋の香り、と言った具合に。

 それとは別に、魔術師は意図してまじないの香りを纏うことも多い。一部の芳香には呪術的な作用があるし、そうでなくとも香りというものは人の気分を操ることに長けている。依頼人の緊張を解いて信頼をえるためだったり、苛立った気分を落ち着かせ率直な言葉を引き出すことに、まじない香はときに絶大な効果を発揮する。

 自己暗示にもなる、とカレドアは言う。

「失敗できない大掛かりな儀式の前には集中力を高める薄荷がいいだろう。疲れたときには爽やかなベルガモット……あるいは反対に気分を宥めるラワンデルなんかもいい」

「でも、たかが匂いでしょう。そんなに効くのかなあ」

「意外と馬鹿にできない。それだけ影響力があるということだよ。きみだって不快な臭いの中にいるよりも、自分にとって好ましい香りに包まれていたほうが気分がいいし、なにかいいことがありそうな気がするだろう」

「女の子が言いそうですねそういうこと」

「男だろうと女だろうと同じだ。そんなことを言っているときみは恋人ができない」

「そ……それ今関係ありますか」

「ないな。私もそんなところまで指南する気はない」

 カレドアがあっさりと言い、窓を閉めた。先ほどまでの匂いは清浄な風に無事洗われていったようだった。先ほど取り上げられ、今は机の上に置かれている小瓶を見つめ、ロクドは溜息を吐いた。

「けっこう控えめにしたつもりだったんだけどなあ」

「まだ多い。見ろ」

 カレドアは棚から瓶を他に二種類取り出し、机の上に並べた。一回り大きい瓶と、それよりも更に大きな瓶。

「香には大きく分けて三種類ある。きみが今つけたのがこれだ」

 一番小さな瓶を指し示す。

「これが一番濃い。この類の香は普通、点でつける」

「点?」

「指先に一滴だけとって、擦らないよう軽くつけるんだ。濃さによってつけ方に決まりがある。これは点、次に濃いものは線、一番薄いものは面を意識してつける」

 カレドアは瓶を順に指し示しながら言った。

「一番濃いものは、きみにはまだ早いだろう。重く甘い香りが多いから男には扱いが難しいし、実際使う魔術師も少ない」

 小瓶を取り上げ、棚に仕舞う。

「それにつける場所も違う」

「普通首じゃないんですか?」

「上すぎる。もっと下でいいんだ。香りは下から上にのぼっていくものだからな」

 ははあ、とロクドは頷いた。確かにその通りかもしれない。

「第一、そんなに鼻に近い場所につけたら自分自身も酔ってしまう。脈打つところにつけるのはいいが、首は中でも温度の高い部分だし、その分香りの飛び方が強烈でもある。光を浴びると毒になるものも多いし、感心しない」

「じゃあ、どこにつけるんです」

「ものにもよるが、私は腰か膝の裏につけることが多いな」

「服の下? それで、匂いが分かるんですか?」

「分かるだろう」

 カレドアが目を細め、ロクドに向けてぐっと身を屈めた。それまで気づかなかったが、言われてみれば微かな芳香があった。ほのかな甘さの中にどこか湿り気を帯びた苦味のある、独特の匂いだ。草花の爽やかさもあるが軽くはなく、落ち着いた安心感のある匂いと言えるだろう。一旦意識してみるとそれは明らかで、どうしてこれまでこの特徴的な匂いに気づかなかったのだろうと感じさせられた。思い返せばときどき作業室で香っているのはこれだ。ロクドは黙って頷いた。

「常に匂いが分かる必要はない。動作のときに香るくらいでいい。依頼人に意識させるようでは強すぎる……まじない香が働きかけるのは無意識でなくてはならない。まったく分からないほど薄いのはいけないが、強すぎるのは論外。なにより下品だし、そういった魔術師は例外なく三流だ。このへんの塩梅は慣れだね」

「慣れ……」

「さっきのようなものはきみには合わないな。甘すぎる」

 カレドアが顔を顰め、瓶の並んだ棚を睨みつけた。

「まだ十五か……十五……」

 ふと、カレドアがロクドのほうをちらりと見た。ロクドは首を傾げた。

「きみ、今日手を洗ったか?」

「洗いましたけど……」

「いつ頃」

「そんなこと言われても。それ、なんの関係があるんですか?」

 カレドアが突然ロクドの手を掴みあげ、目と鼻の先に近づけて凝視し、眉を寄せた。そして、次の瞬間断りもせずその皮膚をぺろりと舐めた。ロクドは短い悲鳴を上げて手を引っ込めた。

「いきなり何するんですか!」

 カレドアは意に介さずといった調子で、再び棚の中身を矯めつ眇めつしている。やがて、長い指が大ぶりの瓶のひとつを掴み出した。中を満たしている液体はほとんど透明だが、眼を凝らすとほんのりとうす青い。

「これなんかがいいんじゃないか。どうだい」

 カレドアが蓋を開けると、爽やかな馨が広がった。柑橘系の果物と青々とした葉の匂いだ。初夏の風と水の流れを思わせる、瑞々しい香気。ロクドは思わず溜息を吐いた。確かに好きな香りだった。

「これ、おれ好きです」

「まあ、八割がたの人間は好感を持つ匂いだろう」

「先生の使ってるのはどれですか?」

「これか? きみにはちょっと重いと思うが。まあ試したければ構わないが、同じものを使ってもつける人間によって違った匂いになるからね。飛ばされる香料、残される香料、体温、肌の表面の酸性度、湿り具合、そういったもの……」

 カレドアはまた別の瓶の蓋を開け、そこから直接嗅がせた。それは確かにカレドアから漂う香りと同じだったが、比べてみると、カレドア本人から香る匂いとはなにかが違うように思われた。服に顔を近づけて、もう一度慎重に確かめる。ややつんとくる瓶のものよりも角が取れて、甘くなっている。その違いがどこにあるのかを探ろうと熱心になっていると、カレドアは変な顔をして一歩引き、咳払いをした。

「一般的に、女よりも皮脂の分泌量の多い男のほうが甘い匂いになりやすいから、その辺りも考慮する。まあ昼前につけてもうこの時間だから、今は香木やパチュリの匂いくらいしか分からないかもしれないな。狙った効果を発揮するには、纏う香水がどの程度の時間でどのように変化するかを知った上で、適切なタイミングで用いなくては」

「難しいなあ」

「そう、非常に繊細だ。なかなか奥が深いと思わないか。時間帯にもよるし、同じ人間がつけても体調や精神状態によって変わるほどだ。だから常に安定した情緒を保てと日頃から言っている。きみはまだ子どもだから——」

「もう子どもという歳でもないですよ」

「きみはまだ若いから」

 カレドアが面倒くさそうに言い直した。ロクドが気を遣って付け足す。

「先生も若いですけど」

 今度のはカレドアは無視した。

「代謝が活発だろう」

「まあ、汗はかきますね」

「多少飛びやすくてもさっぱりして軽いものをつけたほうがいい。つけすぎてもある程度誤魔化しがきくし」

 ロクドは先ほど勧められた瓶から液体を少し取り出し、シャツをめくりあげると、腰のあたりにトントンとつけた。ふわりと全身が爽やかな香りに包まれ、夜なのになんとなく気分があかるくなる。確かに、これは自己暗示にもかかりそうだ。

「今私のつけているこれは合わないだろうが、普段使いのもうひとつのほうなら、もう何年かしたらきみも使えるかもしれないな。少し麝香ムスクと月下香が目立つが、あちらのほうが清潔で万人受けする。結局は自分の年齢や雰囲気、体質に合ったものをつけるのが一番いいんだ。合わないと変なことになる。例えば、きみが竜涎香アンバーグリスの官能的な香りなんかさせていたら笑い種だろう。すれ違った人間が二度は振り向くな」

「そこまで言いますか」

「私なら五度は振り向く」

 そう言ってカレドアが笑うので、ロクドもちくりとやり返した。

「先生から芍薬ピオニーやバニラの甘くて華やかな匂いがしてきたら面白いのとおんなじですね」

 カレドアは笑うのをやめた。

「そういうことだ」

 使わなかった瓶を片付けながら、先ほどの瓶を片手でロクドに押し付ける。

「まあとにかく、これを使っていなさい。毎日はつけなくていい。五日に一度だ」

「そんなものですか?」

「いきなり張り切ってつけはじめると鼻が麻痺する。自分で適切な量と場所の感覚を掴め」

 渡された瓶を受け取り、ロクドはもう一度その香りを確かめた。いい匂いだ。カレドアはいつもの外套を広げている。

「私は出かけてくる」

「こんな時間にですか?」

「依頼だ。朝までには戻る」

 そう言って、カレドアはふと棚に近寄り、奥のほうから香水の瓶を一つ取り出した。普段のものとは違う、非常に小さな瓶。カレドアは小瓶を持ったまま、肘掛け椅子に腰を下ろした。琥珀色の液体を小瓶からほんのわずか取ると、彼は自分のブレーの裾を少し捲り、それを素の足首へとつけた。ほんの一瞬、離れていても分かるほどにくっきりとした香気が立ち上った。たったひと雫にも満たないほどの量を、足首につけただけなのに。芳香はすぐに朧になってカレドア自身の匂いや先ほどの香水の残り香と溶け合い、馴染んだ。それは、ほのかに煙いような、それでいてどこか甘いような、重たく、気だるく、気分をざわめかせる匂いだった。心を不安定にさせる匂い。いったいなんの香りなのか、まったく検討がつかなかった。瓶の蓋を閉め、立ち上がるカレドアにロクドは尋ねた。

「それはなんのまじないなんですか」

「うん?」

 カレドアが立ち止まる。外套の裾が揺れ、先ほどの匂いがまたかすかに届いた。

「『信頼』でも『安心』でもないでしょう。なんなんです」

 ロクドの問いを受けて、カレドアは少し考えるような素振りをみせた。蓋をした瓶を鼻先に寄せ、すんと息を吸い込む。カレドアはおもしろくなさそうに口角を上げた。

「秘密だ」


おわり

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