しずかな日

 先生、血石の粉末を切らしてます。

 そう呼びかけようとしたロクドの口は、カレドアの鋭い視線によって閉ざされた。ロクドははっとして手で自分の口を押さえた。手を粉だらけにしたカレドアは、立ち上がってロクドの肩ごしに瓶の中身を覗き、ひとつ頷いた。了解したという意味だろう。ロクドは頷き返すと、リストを引っ張り出し、鵞ペンをインクに浸して「血石 粉末 ひと瓶」と書きつけた。少し考えてから、「粉末」の部分を二重線で消す。自分で砕けばいいのだ。少し安くなる。

 まだ立っていたカレドアが、汚れた指で机の端をトントンと叩いた。机の上に白い粉が散った。ロクドが再び振り向くと、カレドアは作業台の傍で束になっている乾燥させたニワトコの枝を指差し、次いで硝子の大瓶を指し示した。

 そうだ、忘れるところだった。

 ロクドは慌てて枝を一本抜き取って、それを瓶の中の水に浸した。カレドアが何か言いたげにした。首を振り、僅か躊躇ったあと、億劫そうに自分の手を拭う。そして、今しがたロクドが浸したばかりの枝を取り出し、三つに折って入れなおした。ロクドは「すみません」だとか「そうやるんですね」だとか、なにかそれに近い意味合いの身振りをしようとしたが、うまくいかないとすぐにわかった。カレドアはロクドをちらりと見ると、やはり面倒くさそうにかぶりを振った。彼は濡れた手をもう一度拭い、自分の作業——鹿と山羊の角をすり潰して粉末にする——に戻った。

 ふたりは喋ることができない。というのも、「術者は作業をしている間一切口をきいてはいけない」という厄介きわまりない術式に今現在取り組んでいるからである。

 この手の面倒な術式は、ここ二百年で飛躍的に簡略化の進んだドルメア魔術にも未だしぶとく残っている。この前の失せ物探しの蝋燭は月のない夜に急いで作り終えなくてはならなかったし、更にその前の関節痛をやわらげる薬は三百回もテーブルの上で叩き潰さなくてはならなかった。これらは代替となる手順のない術式なので、いくら馬鹿馬鹿しいと思ってもやらなくてはならない。いつか誰かが、もっといいやり方を見つけてくれるだろう。今回は突然左の耳が聞こえにくくなった女性のための薬で、最終的な仕上がりは丸薬のような形になる。飲み込むわけではなく、耳に詰めるのだ。

 ロクドは先ほどかき集めた最後の血石の粉末をカレドアのそばに置き、それから大瓶を持ち上げてよろよろと台所へ向かった。水に浸かった枝ごと中身を鍋に移し、とろ火にかける。乾燥させた月桂樹の葉を一枚と、大量の丁子の蕾とを放り込んでおく。台所から作業室のほうまで、特有の鼻をつく匂いが広がった。人によってはいい香りだと言うだろうが、ロクドに言わせればあまり快い匂いではない。作業室に戻ると、カレドアが気にしたようすもなく先ほどの粉を分包していた。先生はこの匂いは苦手じゃないのだろうか。妙に気になった。気になったが、尋ねることはできない。いつでも聞けることなのだが、今聞けないとなると、途端にこんなどうでもいいことがやたらと知りたくなる。

 もの問いたげなロクドの視線に気づいたのか、カレドアは此方に視線を遣った。なんだ、という風に首を傾げる。ロクドは手を左右にひらつかせた。なんでもないんです。

 暫く煮出したあとで鍋の中身を一旦濾し、液体だけを更に煮詰める。この汁が鍋の底に僅か溜まる程度になるまで、延々火にかけ続けなくてはならない。これがなかなか骨である。

 今が真夏でなくてよかった、と考えながら、ロクドは再び鍋から離れようとした。

 次の瞬間、靴底に柔らかい感触を覚え、ロクドは飛び上がった。

鍋やら器やらが盛大に崩れ落ちる物音を聞きつけ、カレドアが台所に顔を出した。説明を求める視線に答えるべく、ロクドは足元を指差した。長さにして半ラートほどの蛇が、床をゆっくりと這っている。カレドアがぎょっとしたような顔をした。

 どうしてここに蛇がいるんだ。

 おれが聞きたいですよ。

 顔を見合わせて無言のうちにやり取りし、床を這い回る蛇を観察する。なにやら縞のある不気味な姿ではあるが、毒蛇ではない。見てみれば、蛇のほうも戸惑っているようすである。もしかしたら、屋根裏にこっそり潜んでいたのだろうか。ありえない話ではない。ふと蛇の動きが止まった。ちろちろと舌を出したり引っ込めたりしている。こんなふうに注目されて、途方に暮れているのかもしれないなと思った。よく見ると、背に(ロクドは蛇のどこからどこまでを背と呼んでいいのか知らない)一部微妙にくぼんでいるような場所がある。なんだろうと考えていたが、あ、とロクドは気がついた。あれっておれが踏んづけたところじゃないか?

 ロクドと同様に蛇を凝視していたカレドアが、そちらに向かってゆっくりと歩き出した。何をするつもりなのかと思えば、静かに蛇の脇を通りすぎる。そして、外へ通じる勝手口をそっと開けた。そのまま、すっと一歩下がる。ふたりが息を飲んで見守る中、蛇はしゅるしゅると暫くそのあたりを這い回った。やがて、蛇は開いた扉に気付き、そして、音も立てずに外へと出て行った。蛇が姿を消すのを見届けてから、カレドアは再びそっと扉へ近づき、扉をカタンと閉めた。台所には、馬鹿みたいに突っ立った魔術師ふたりと、湯気を立てる鍋と、崩れた器類が残された。

 カレドアがロクドを見た。

 ロクドは静かに頷いた。

 カレドアは突然口元を手で覆った。顔をそむけ、足早に台所を出て行く。そのようすを見たらもう駄目だった。ロクドは手の甲を壁に何度か叩きつけ、懸命に笑いを堪えようとした。こんなくだらないことで、今日の午前一杯の頑張りを無駄にするわけにはいかないのだ。ロクドは暫く苦しんだが、最終的には手の痛みでなんとか冷静さを取り戻すことに成功した。たいして面白くない普通の出来事で笑いそうになったりなんかして、おれはどうかしている。手順通り一旦竃の火を消し、気合を入れて作業室に戻る。

 何をどうやったのか、カレドアは既に何事もなかったように肘掛椅子に腰掛け、犢皮紙の書簡に目を通していた。これが常日頃からカレドアが言っている『安定した情緒』というやつなのかもしれないな、とロクドは思った。カレドアがロクドを一瞥した。視線はすぐに去っていこうとして、一瞬ロクドの赤くなった右手に留まった。カレドアは瞼を下ろし、首を振った。そして、読み終えた書簡を暖炉に放り込もうとして、ふと動きを止めた。

 暖炉の火が絶えている。

 魔術師のいない普通の家では、こんなことはありえない。火が要り用になる度に暖炉にいちいち点火するのは、なかなか面倒な作業だからだ。しかし、カレドアは火の扱いに長けた魔術師であり、今の季節は陽射しもうららかな春であった。必要なときに必要なだけの火を灯し、また消すことにふたりは慣れていた。カレドアは台所に目を遣り、次いでロクドを見たが、ロクドは静かに否定の意を示した。そういえば、竃のほうも今しがた消してしまったのだった。カレドアは渋い顔をすると、肘掛椅子から立ち上がって戸棚をごそごそやり、玉髄の火打石と火口とを取り出した。それから、きょろきょろとなにか探しているようすなので、別の棚から打ち金を探し出してきて、渡す。これでしょう。カレドアは頷き、玉髄を叩きはじめた。それが、あまりに不器用な手つきなので、ロクドはすぐに見ていられなくなった。火花は散るが、なかなか火口に点火する気配がない。火口が湿っているのかもしれないが、それ以上にカレドアのやり方に問題がありそうだった。カレドアは一旦作業を中断し、手の中の火打石をみつめた。呪文を口に出さずに、小さく調整した炎を呼び出せるか考えているようだった。結局賭けに出るのはやめたらしい。何度も失敗し、いよいよロクドが勇気を出して自分が代わる旨(ロクドは村にいたころ普通に火打石を使っていた)を伝えようとしたころになって、漸く火は点いた。カレドアは疲れたようすで、右手でもう片方の手の指先を押さえた。火傷したらしかった。ロクドは何の気なしに冷却を命じる呪文の一節を唱えようとした。声が喉から飛び出す前に、カレドアの指が突きつけられた。ロクドははっとして両手で口を覆った。おれは馬鹿なんだろうか?

 カレドアがようやく暖炉に書簡を放り込み、依頼人の個人情報を守ったところで、今度はドア・ノッカーが高らかに打ち鳴らされた。ロクドは溜息を吐きたくなったが、それはカレドアも同じようだ。目を細め、手振りで耳を塞いでみせる。居留守を決め込め、ということらしい。

 ところが、ロクドたちの予想に反して、訪問客はなかなか諦めなかった。ドア・ノッカーの音はより力強く、頻回になり、扉の向こうのだれかは、ついにはなにか別の硬いもので扉を叩き始めた。

 なにか別の硬いもの。ロクドは、なんだか扉を叩いているのが誰なのか分かってしまったような気がした。

 やがて、嗄れた怒鳴り声が途切れ途切れに聞こえてきた。

——おい——いるのは——分かっとるんだぞ——

 カレドアが天を仰いだ。

 ガーダルだ。

 カレドアは荒っぽく立ち上がると、靴音高く歩いていき、扉を開けた。ガーダルがちょうど杖を振りかざしたかっこうで立っていた。

 この老人が口を開こうとするやいなや、カレドアは有無を言わさずガーダルを自分の体ごと外に押し出した。バタンと勢いよく扉が閉まる。外から小さく老人の喚き声が聞こえてきた。

 ロクドは肩を竦め、暖炉から火を竃にもう一度移した。ついでに別の鍋で湯を沸かし、香茶を淹れることにする。先日サリマトに分けてもらったばかりのリンドラの紅茶である。色を変えるための檸檬はないが、このままでも白い器に菫いろが映えて、十分にさわやかだ。

 ちょうど二人分の茶が入ったところで、何故か上着を皺だらけにしたカレドアがひどく疲れたようすで戻ってきた。椅子にどっかりと腰をおろし、うんざりしたように肘をつく。そうしながらも、右手の指先ではしきりに呪文の糸を紡いでいる。

 ロクドはそっと香茶を差し出した。テーブルに置かれた器に目を落とし、カレドアがなにげなく呟いた。

「ああ、ありがとう」

 一旦頷きかけて、ロクドはぽかんと口を開けた。それを見て、カレドアは信じられないという顔をした。呪文の繊細なレース編みが端から断ち切れてゆくのがロクドにも分かった。カレドアは右手を振って大きな溜息を吐き、そのまま掌を額に当てた。

「やめだ」

 カレドアが呻いた。

「すまない……やり直しは、今度きみが家を空けているときにしよう」

「先生でも、うっかりするんですね」

 カレドアが首を振った。目を瞑り、疲れた、と吐き出す。

「変だな。たった一日なのに。この術式は、なにも初めてじゃあないんだが……初めてだ。こんなに疲れたのは」

 ぽつりと呟いた。

「不思議だ」

 ロクドにしてみれば、カレドアがどうして不思議に思うのか、そちらのほうが不思議だった。

「ひとりじゃなくなったからでしょう」

 ロクドは言った。

「今は家の中にもうひとりいるんだから、喋るのが普通ですよ。喋るのが普通なのに、我慢しているんだから、鬱憤だって溜まって当然じゃあないですか」

 それを聞いて、カレドアはなんともいえない複雑な顔をして、瞬きをした。暫くの間、カレドアの黒曜石の瞳はロクドの顔を見つめていた。ロクドがだんだんきまりが悪くなってきたころ、カレドアは漸く「そうだな」と頷いた。

「じゃあ、おれ、夕飯の準備をしようかな」

「そうしてくれ」

「丁子の煮出したのは、どうします?」

「また別のことに使うかもしれないから、一応瓶に詰めて、棚へ」

 ロクドは言われた通りに鍋の中身を処理し、袋から野菜を取り出した。土を落としはじめる。水の音に紛れて、向こうから小さく歌を口ずさむのが聞こえてきた。滑らかな、小声でも不思議によく通る声。ドルメアの人間なら誰もが知る、古い唄だった。


金に輝くロウナの丘

さざめき笑う銀の小川

汝は語りかける

あえかな星の囁きで


 玉ねぎの皮を剥きながら、ロクドはそれに唱和した。


夜に朝にわれらは歌う

過ぎ去りしうつくしき日々

朝日を透かすマロニエの木立

雨に濡れたトネリコの葉


 無意識であったらしいカレドアの声は、戸惑ったかのようにぴたりと止まった。それでも、ロクドはいつまでも歌い続けた。


いつか帰らん

いつか帰らん

愛すべき我が家

愛すべきふるさと……



おわり

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