針と糸
「きみは器用なほうか?」
長い間こちらを見つめていた魔術師が、ふと思い出したように尋ねた。ロクドはやや緊張気味に「どちらかといえば」と答えた。
ひとつ頷き、頰を擦った黒髪の魔術師はロクドの師である。しばらく前にそうなった。つまり、この男と二人暮らしを始めてから既にふた月が経過したということになるが、ロクドは未だこの男──カレドアとの距離感を図りかねていた。
カレドアは徐に体を捻り、背後の棚から大ぶりな箱を取り出した。年季の入ったその箱は二段構造になっており、下の段は真鍮の把手のついた抽斗になっている。カレドアが上段の蓋を開け、ロクドは身を乗り出してその中身を覗き込んだ。箱の中には様々な長さ、太さの針が整然と並んでいた。
「用途、縫うものの生地によって選ぶべき針は変わる。これは絹。これは綿。これは革……」
長い指がひとつずつ指し示すのを遮り、ロクドは思わず口を挟んだ。
「なんですって。縫う?」
カレドアは首を傾げた。
「やったことがないのか?」
「縫い物ですか? 女の人の仕事でしょう」
「違うな」
魔術師は片眉を上げた。
「女と、魔術師の仕事だ。見てごらん」
カレドアが把手を摘み、下の抽斗を引き開けた。ロクドは溜息をついた。今度は見たこともないような鮮やかな色の糸の数々が、それぞれ木の芯棒に巻き取られ、きっちりと収められていた。
「イラクサ、柘榴、アカネ、マンジュギク、くちなしの実、バラの樹皮。この青いのはアイタデ」
あまり日に焼けないらしいカレドアの指が、今度は糸を順に指差す。
ロクドはおそるおそるうつくしい臙脂色をした糸のひと束に触れ、「これは?」と尋ねた。
「それは貝殻虫の死骸から煮出した赤だ」
慌てて手を引っ込めたロクドにカレドアは説明した。
「染料となるのは植物ばかりじゃない。イカの墨や、泥を使って染めるものもある。この糸の組み合わせと、縫い取りの柄で効き目が決まるというわけだ」
「効き目?」
ロクドが首を傾げると、カレドアが大仰な身振りで手を広げた。
「おいおい、さっきからなんの話をしていると思ったんだ。きみは魔術を学ぶためにこの家に留まっているんだと思っていたんだが、私の勘違いだったかな」
カレドアはとりどりの糸から暗い赤むらさきをしたものをひと束取り出して、 中指に指貫を嵌めながら言った。
「これはひと月前にログウッドで染めた糸。普通、刺繍糸に蝋引きはしない。手袋を貸しなさい」
ロクドはわずか戸惑ったが、すぐに両の手から革の手袋を外し、師へと手渡した。大人用の手袋はぶかぶかで、容易に脱げる。カレドアは手袋をひっくり返した。箱から長い針を一本選んで手早く糸を通すと、カレドアは寛いだ姿勢で脚を組み、膝の上にロクドの手袋を乗せた。ロクドはカレドアの手元を覗き込んだ。
「説明はしないから、よく見ているといい。こういう類のものは口で説明したところでほとんど役に立たない。もちろん面倒だからという理由もあるが」
悪びれもせずそんなことを言いながら、カレドアは手袋の裏地に針を刺し始める。教える気があるのかないのか、すいすいと縫い進めるカレドアにロクドは尋ねた。
「下絵は作らないんですか?」
「簡単なものなら使わない。複雑な図案なら、下絵からひと月かけて用意することもあるな」
「今回の図案は?」
「ログウッドは水を遠ざけ、螺旋模様は風をあらわす。ここに途切れることのない二重の鎖刺繍を重ねることで風雨を凌ぎ、きみの手袋を丈夫にする」
ロクドはははあと頷いた。
「鎖刺繍にはイラクサ……いいや、肌に触れるものだからアカネで染めた糸がいい。冬には暖かく、夏は涼しいだろう」
それだけ言うと、カレドアは無言になり、宣言通りロクドのことなどお構いなしに縫うことに専念しはじめた。ロクドは師の手元を熱心に観察するにつけ、彼がひと針縫うたびに細やかな光の粉が針先に散ることに気づいた。ただ縫うんじゃない、とロクドの表情に気づいたカレドアが独り言のように呟いた。
「わかるかい。理を縫い込むんだ」
手袋の上で、一際あかるい翠のきらめきが舞い散った。ロクドは居ても立ってもいられなくなった。
「ぼ……おれもやってみたいんですけど」
ロクドが控えめにそう言うと、小さな巾着袋と木枠が放られた。特に指示されなかったので、ロクドは箱の中を覗きこみ、黒っぽい糸を選んだ。
「それは月のない夜にヤシャブシで染めたもの」
此方を見もせずにカレドアが呟いた。
「悪くない選択だ」と付け加える。
「口のところを一周してくれ。矢羽根刺繍で」
「矢……なんですって?」
「本に書いてある」
億劫げなカレドアの声が飛んでくる。
「右から三番目、下から二番目の棚のどこか。そこになければ私の書斎の……面倒だな。やっぱり山型刺繍でいい。ただし、二種の糸で」
ロクドは二色目としてつやのある紺色の糸を選んだ。アイタデ。カレドアはそのことに気づいたはずだが、なにも言わなかった。
「ただ、縫うだけじゃないでしょう?」
「ただ縫うだけだ。初めのうちは」
ロクドは不承不承ながらなんとか納得し、カレドアの指示通り袋を木枠に嵌め込むと、不慣れな手つきで縫い始めた。早速針で指を刺し、悲鳴をあげそうになる。血の滲む指先をロクドは舐めた。
はじめのひと月は基本的な知識を頭に詰め込むところからで、すべてが新しく、難解で、飛ぶように過ぎていった。次のひと月は、指示されたことをただその通り済ませるばかりだった。ロクドは、自分がカレドアとこうして並んで作業するのははじめてのことだと気づいた。次いで、いつもの静寂がいやに気に障った。
観察する限り、カレドアはけっして無口な男というわけではなかった。ただ、自分とカレドアとがまだ余計なお喋りをする間柄ではないというだけだ。この魔術師は、外に出て笑っているときには柔和にも、ともすれば陽気にさえ見えるが、こうして表情をそぎ落としていると驚くほど冷淡に見えた。角度によってその色を変える
ロクドは沈黙に耐えかね、師に声をかけようとし、針で再び指を刺してしまった。思わず呻き声が上がる。カレドアが目を上げてちらりとロクドを見た。視線が交錯した瞬間、ロクドは奇妙な安堵に襲われ、堰を切ったように話しかけた。
「先生」
「なんだ」
すぐさま返ってきたカレドアの声に気負いは感じられなかった。居心地の悪い思いをしていたのは自分だけだ。
「いったいどうしたら先生みたいにすいすい縫えるんでしょう。難しすぎる。先生は初めからそんなふうに?」
今は手を止めている魔術師の、まさに縫いかけの手袋を見つめながらロクドは尋ねた。継ぎ目のない縫いあとは革の裏地の上で一分の乱れもなく、かろやかな曲線を滑らかに描いていた。たった今濡らした細い筆で引いたばかりだとでもいうように、その線のような縫い目はうつくしかった。カレドアは笑いもせずに、いいやと答えた。
「私は縫い物がおそろしく苦手だったよ」
こともなげにそう言うので、ロクドは大きく瞬きをした。
「今はこんなに上手なのに?」
「見習いの頃は」とカレドアは言った。「針を持てばいつも布が真っ赤になった。刺繍魔術の項を睨んでは、早く終わらないかと願っていた」
「どうしてうまくできるようになったんです」
そうロクドは口に出し、すぐに愚問であると気づいた。上達するには練習以外に方法があるはずがない。そこで、ロクドはこう言い換えた。
「どうして投げ出さずに続けられたんです」
「さあ。いつも私より下手で、私より一生懸命な男が傍にいたからかな」
ロクドの問いかけにそれだけ答えると、カレドアは口を閉じた。カレドアが手元に目を落とし、再び熟れた手つきで縫い取りを入れはじめたのを見て、ロクドは自分も縫いかけの袋を見つめた。針を摘まみ、既に血の染みがついてしまった布地を睨みつけながら、ロクドは呟いた。
「先生はその人と仲良しだったんですね」
半ば羨むような響きになってしまったことに慌てるやいなや、息を飲むようなかすかな音が大気を伝わってロクドの耳に届いた。ロクドはカレドアのほうに目をやり、彼の白い指先に血の雫が膨れ上がるのを見た。カレドアも自身の指先を凝視した。わずかに驚いたような表情で。ロクドは、カレドアの驚きの表情をこのとき初めて目にした。ロクドはカレドアの手元を覗きこみ、尋ねた。
「大丈夫ですか」
その言葉には答えずに、カレドアは驚きの表情を消し、指先を押さえて速やかに止血した。小さな傷はすぐに塞がり、ごく小さな点を残すばかりとなった。
「なんでもない」
カレドアは呟いた。いつも通りだった。
「慣れているからといって油断は禁物ということだね。これが依頼の品でなくて幸いだった。勿論、きみの持ち物だからといって血の染みをつけていいというわけじゃあないが」
最後の声音にはほのかに笑いの気配があった。そのやわらかさにロクドは確かに親しみを覚えたが、カレドアはそれきり口をきかず、ただロクドの手袋に糸を縫い込むばかりだった。再び生ぬるい沈黙と衣摺れの音とが部屋を支配した。それでも、先程までの沈黙とはなにかが違うように思われた。ロクドは自分の指に針を刺し続けた。
次にカレドアが口を開くまで、それから数十分余りが経った。
「できた」
カレドアは唐突に呟き、ひと組の手袋をロクドのほうへ放った。
カレドアがずっと掴んでいたせいか、受け取った手袋はあたたかかった。魔術師の手から奇跡のように生み出されていた菫色の微細なきらめきが、陽射しを浴びてちらつく埃のように、縁のところにまだ纏わりついていた。螺旋と二重の鎖とが二色の糸でおそるべき精密さを以て刺繍され、地味な手袋の裏地を控えめに彩っていた。カレドアが針と糸とを片付けている間、ロクドは感嘆の溜息を吐き、自分がそれを汚してしまわないか心配しながらおそるおそるそれを嵌めた。手袋はロクドの記憶の中にあるよりも遥かに軽く、あたたかかった。ロクドが握ったり開いたりして手袋の感触を確かめていると、カレドアが手のひらを差し出した。ロクドは首を傾げた。
「見せてくれ」
ロクドは一瞬呆け、すぐにカレドアの意図に思い当たった。先程まで格闘していた巾着袋を素早く握りこみ、視線から隠す。縫い目は不揃いで曲がりくねり、ある部分ではきつすぎ、あるいは緩みすぎ、ところどころ血の痕さえ付いているそれは到底見せられる代物ではない。
「うまくいかなかったので」
「次に作るものはうまくいくのか?」
そう尋ねられ、ロクドはしぶしぶ手渡した。カレドアは巾着袋を広げるとしげしげと眺め、遠慮なく声を上げて笑った。それに銅を磨いた手鏡を仕舞い、そのまま当然のように懐に入れるのを見て、ロクドは思わず制止した。
「やめてください、そんなもの使わないでくださいよ」
カレドアが芝居掛かった仕草で目を見開いた。
「捨てろというのか? 勿体ない」
「でも、みっともないですよ」
「どうして」
「先生みたいなひとかどの魔術師がそんなひどい出来の袋を持っていたら、陰口を叩かれるかも」
「言いたいやつには言わせておけ、が私の持論だが」
カレドアが薄くほほえんだ。
「きみがそうまで言うなら、早く上達するといい。巾着の次は手袋だ。その次は帯、更にその次はシャツ。順番はどうだっていい、もしきみが満足いく技術を身につけたなら、最後に私の外套に縫取りを入れて、それを以て刺繍魔術は修了としよう。それでは早速……明日は私の手袋を縫ってもらおうか」
ロクドは呆気に取られた。これは自分自身を人質に取った脅しだ。
「私のためにも早くうまくなってくれ」
そう言って、カレドアは再び愉快げな笑い声を立てた。表情はやさしかった。邪気のないカレドアの笑い声を聞くうち、ロクドはなぜだか一緒に笑い出したいような、怒り出してしまいたいような、堪らないような気持ちになった。なんでもないことを喋りたかった。母や、友人たちとそうしていたように。話は終わったとばかりに腰を上げようとするカレドアをロクドは呼び止めた。なんだい、と無造作な返事をした師を見据え、ロクドは大いなる勇気を以て言った。
「ちょっと、お茶にしましょうよ」
カレドアは大きく瞬きをし、笑うのをやめた。ロクドの提案について、カレドアは少し考えているかのようだった。そして、ややあってこう呟いた。
「器を温めておいで」
それを聞いたロクドは微笑み、すぐさま薬缶のところへ飛んでいった。だから、そのとき魔術師の瞳に過ぎった感情の色を少年は知らない。
了
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