後日談・晩冬の光

 吹きつける木枯らしに背を丸め、老魔術師ガーダルは咳き込んだ。ここのところ、頓に寒さが骨身に沁みる。これが老いというものなのだろう。

 七人いた弟子は今や二十歳のルルド一人になり、広々とした家の中は随分と静かになった。床板の軋む音はこんなに大きかったのかと気づくくらいに。巣立っていった弟子たちは時折戻ってきてはガーダルを気にかけるが、実際淋しいとは思わない。ガーダルは十分に生きた。日々は満ち足りているし、人生の最後をこうして穏やかに過ごすのも悪くはない。

 ひとつ心残りがあるとすれば、まったく唐突に姿を消したあの男のことだ。妙な男だった。もう十余年も前のことだが、ガーダルとしてはすっかり友人のつもりでいたので、気落ちさせられたことは否定できない。一言もなくどこへ行ってしまったのだろう、故郷にでも帰ったか、女のところにでも行ったかと色々考えを巡らせたものだが、今では死んだのだろうと思っている。あれの弟子はなにも説明しようとしなかったが、それでもガーダルには分かった。カレドアは多分死んだのだろう。

 カレドアの家の前で、ガーダルはふと足を止めた。扉が薄く開いていたからだ。誰かがこの家の中にいる。ガーダルは杖を握っていないほうの手で錆びついた把手を掴み、家の中へと躊躇いなく足を踏み入れた。乾いた紙と、埃と、壁に染みついた香のにおい。ガーダルにとっては十年にしろ二十年にしろ飛ぶように短い時間だが、このときばかりは無性に懐かしいような心持ちがした。

 誰か、丈長の外套を羽織った男が此方に背を向け、あの雑然とした棚の中身を無遠慮に弄っていた。ガーダルが杖の先を床に打ちつけると、男は驚いたように振り向いた。

「ガーダル」

「戻ってきたのか」

 ガーダルは皺だらけの顔をくしゃくしゃに歪めてみせた。男——ロクドも控えめに笑い返した。

「前回お会いしてから十年ほどになりますか。お変わりないですね」

「世辞はいい。何故ここに」

「ええ」

ロクドは右手に瓶を——鹿の角を粉末にしたのがぎっしり詰まっている——握ったまま、作業室を見回した。

「そろそろ、ここを引き払おうと思いまして」

「引き払う?」

「維持しておきたい気持ちはあったんですがね。定期的に保護魔術を掛けに来るのも大変ですし、なによりここをこのまま残しておく意味がない。誰か別の、幸せな家族でもここに住んでくれたらと」

 言われてみれば、この家は綺麗すぎた。これほどの時間が経っているにもかかわらず家の中が劣化していないのは、ロクドが維持していたからだったのか。ガーダルはふと首を傾げた。

「それほど愛着があるなら、おまえ自身がここに住むことは考えなんだか。悪くはないだろう」

「長が亡くなってしまったので。今は、私がネルギを離れることはできません」

「そうか。ザハンのやつも逝ってしまったか」

「ええ。それに……ここにいると色々と思い出してしまいますから」

 ロクドが自身の手の甲を撫ぜながら言った。ひきつれを残したその白い肌と、人差し指に嵌った菫青石アイオライトの指輪とをガーダルは見た。

「たった四年間だったのに。ここには思い出が多すぎる」

 ガーダルの顔に視線を投じ、ロクドは淋しげに微笑した。その目許に、暗い茶の前髪がうすい翳を落とした。ガーダルはどこか特別な思いでこの若い男を注視した。

「おまえ、あの男に似てきたな」

「私が?」

 思わずと言ったように、ロクドが目を丸くした。

「そんな。ちっとも似てませんよ」

「言っておくが褒めとらんぞ。貶したんじゃ」

「そうでしょうね」

 呆れたように肩を竦めるその仕草にも、やはりどこかカレドアの面影があった。顔かたちではない。似ていた。ガーダルは目を細めた。

「歳の頃も、当時のあやつと同じくらいじゃろう。いや、超したか」

「でも、背丈は少し届かなかったんですよ」

「なぜ分かる」

「この棚……」

 ロクドがやおら腕を伸ばし、上から二番目の棚板をなぞった。板は傷だらけだった。

「先生は一番上の段にも手が届いていた。ほら、私は今でも少し足りない。悔しいなあ」

 そう言って若い魔術師は愉快そうに笑った。悔しいと口では言いながら、そのようすは寧ろ嬉しそうにも見えた。ガーダルは口の端を歪め、ロクドの傷だらけの爪先へと目線を落とした。あの昏い目をした男の履物も、いつも草臥れていた。こんなにもあの男の存在を感じるのに、彼がここに──おそらく永遠に──現れないということが、なんだかやけに奇妙なことのように思えた。そしてそれが、やたらに腹立たしかった。


 不意に、思い出したようにロクドがガーダルに向き直った。

「そうだ、ガーダル」

 ガーダルは首を傾け、ロクドの言葉を待った。

「このあと伺おうと思っていたんです。用事がありまして」

「用事?」

「あなたにと言うわけではないのですがね。まずはあなたに先に話を通すのが筋かと」

「なんだ、勿体ぶらずにさっさと要件を言え。そんなところまでお前の師に似なくていい」

 ガーダルがぴしゃりと言って促すと、ロクドは真面目な顔をして言った。

「アイリアを……娘をサリマトに弟子入りさせたいんです。魔術師の素質がある」

 それを聞くやいなや、ガーダルは思わず笑い出してしまった。若い魔術師は呆気に取られたようにガーダルを見つめたが、すぐにむっとした表情を浮かべた。

「なにがおかしいんです」

「サリマトも同じことを」

「えっ」

「送るつもりが、忘れるところだった。書簡を預かっとる」

 ガーダルは懐に手を潜らせ、もぞもぞと目的の紙を探り出した。厚く盛られた封蝋の端が、カミツレの文様を残してわずかに欠けていた。ロクドは差し出されるままにそれを受け取ると、その場でそれを開封しようとして、思いとどまったようだった。よれた書簡を手の中で何度か転がし、ロクドは尋ねた。

「同じことを、というと……」

「あっちは随分もう大きいがの」

「シーラ村の……生き残りの?」

 ガーダルは頷いてみせた。

「十五、六になるじゃろうな。少年だ。是非とも、おまえに弟子入りさせたいと」

 その瞬間、傍目にも分かるほどにロクドの顔が上気した。ガーダルが目を瞠るよりも先に、しかし彼の顔色は平常のそれに戻っていた。なにごともなかったかのように。今はもう手袋をしていないロクドの指が、落ち着き払った仕草で暗い茶の封蝋の上をなぞった。

「それは……願ってもないことだ」

「わしにも気を遣ったようじゃがな。ま、わしももうこの歳だ」

「ガーダル、結局あなたはいったい今幾つなんです」

 ガーダルは凶悪な笑みを浮かべた。

「おまえもそのうちに分かる。歳を数えることに意味などないとな」

 ロクドは首を振った。

「私もそのうち長生きしたいと願うようになるのかな?」

「生にしがみつくほどみっともないことはないが、死に急ぐほど愚かなこともない。死ぬべきときはルースが決める」

「仰る通り」

「まだしばらくここに留まるのか?」

 杖の先で床をトントンと鳴らし、ガーダルは問いかけた。久々に、ルルド以外の人間とゆっくり茶を飲んでもいいという気分になっていた。ガーダルは、ふと対局途中のまま勝負がつかずに埃をかぶっている遊戯盤のことを思い出した。あの続きを、あの男の弟子と指してもよかった。ロクドはほんの一瞬迷ったようだったが、憂鬱そうに眉を寄せた。

「もう少し留まりたい気持ちもあるのですが……実は今、妻と喧嘩をしてしまっていて」

 ロクドが溜息交じりに言った。

「おまえが?」

 意外だ。ロクドがばつの悪そうな表情で咳払いした。

「私と彼女の思い出の品を、私がうっかり壊してしまったんです。一刻も早く帰って謝らなくては」

「さっさと帰れ」

 内心残念に思いながら、ガーダルは頷いた。

「……私はもう少しここを片付けなくては」

 ロクドはまだ雑然としている作業室を見渡した。「まだ」どころか、この部屋はあの頃のままのように見えた。多分、ここを引き払えるほどに綺麗にするには時間がかかるだろう。長い時間が。

「わしの弟子に手伝わせてもいいが」

 おそらく断られるだろうと予想しながら、ガーダルは提案した。ロクドはやはり首を振った。ガーダルはそれ以上食い下がりはせず、杖を握り直した。

「また来るといい。ここがおまえとおまえの師のものでなくなったとしても、この街はおまえの帰る場所のひとつだ。それは変わらん」

「ありがとう、ガーダル。あなたには随分助けられた」

「やめろ、礼には及ばん」

 ガーダルは手をひらひらと振り、ロクドに背を向けようとした。そのとき、ロクドが思い出したように声を上げた。

「忘れ物が」

「なに?」

 老魔術師が振り返ると、なにか小振りな袋が放られた。それを反射的に受け止めてから、ガーダルは首を捻った。カミツレの縫取りのある、その古びた小袋にはどこか見覚えがあった。固く結ばれた紐を解くと、中には乾燥したラワンデルがぎっしりと詰まっていた。かさついた花弁が指の間でぼろぼろと崩れ、床へと零れた。

「あなたのものでしょう。棚の奥で見つけた」

 布の裏地に仕込まれたまじないの印を、ガーダルは節くれだった指先でなぞった。よくないものを寄せつけないための印。魔術はまだはたらいていた。ガーダルは呟いた。

「わしのものじゃない」

「そう」

 ロクドは首を傾げた。

「でも、おれよりもあなたが持っているべきだ」

「そうかもしれん」

 ガーダルは笑い、袋を握りしめると、今度こそ背を向けた。背後でまた小さく「ありがとう」と聞こえた。聞かせるつもりのない言葉だと分かった。それで、ガーダルは返事をせず、かつてのカレドアの家を出た。

 陽が暮れかけていた。

 石畳を杖の先で叩き、帰途に着きながら、ガーダルは想像した。低くなった夕陽が窓から射し込み、ロクドだけが佇む作業室を照らしだすのを。光を浴びた埃がきらきらと浮遊し、うつくしい帯となって静寂の中に浮かび上がるのを。

 作業台の上の開きっぱなしの写本、擦り切れた絨毯、羽根が駄目になりかけた鵞ペン、あの男がインクを零したところ。天井から連なって吊り下がり、わずかに光を透かす鬼灯の実、弟子がよく足をぶつけていた低いテーブル、封の開いていない古い水晶煙草の包み、使いかけの銀粉、広げられたまま放置された作り途中の護符。

 あのころとなにひとつ変わらない。変わらなかった。生活の途中で、ふと持ち主だけが姿を消したようだった。

 どのような思いで──ロクドはあのように部屋を保っていただろう。今琥珀色の光の中で、静止した部屋の中に立ち尽くすロクドはなにを思うだろう。あの男と、あの黒髪の魔術師によく似た外套を身に纏い、同じ指環を嵌め、穏やかに笑う若者は。

 刹那、ガーダルは引き返そうとした。完全に、衝動的に。しかし、彼はすぐにそれがまったく無意味なことだと気づいた。

 ロクドはカレドアではない。

 ガーダルはロクドのあのうつくしい瞳を思い出した。過去を振り返ってはただいとおしむくらやみではなく、痛みを恐れずに未来を見据える、澄んだ青の瞳だった。

 凍えるような木枯らしが今、ガーダルの老いた身体に吹きつけた。しかし、ガーダルは首を竦めることはしなかった。強張りそうな背筋を伸ばし、ガーダルは一際強く杖を打ち鳴らした。帰って、時間をかけて水晶煙草を吸おうと思った。

 きっと、ルルドが温かい茶を淹れるだろう。



 若き魔術師が我が家に帰りつくころ、ネルギの村はしらじらとした冬の夜明けを迎えていた。この時間では妻も子もすっかり眠っているだろうとロクドは予想したが、扉の把手を握り込んだ瞬間に憶測は外れたと気づいた。扉の隙間から、かすかな灯りが漏れ出していた。

 扉が開くやいなや、ロクドがただいまを言う前に、華奢な両手が彼の服を摑んだ。ロクドは戸口で立ち止まり、突進するような勢いの妻を抱きとめた。

「汚れるよ、ヨグナ」

「ランタンのこと、ごめんなさい」

 ヨグナはロクドの胸元に額を擦り寄せて口早に言った。

「わざとじゃなかったのに」

「いや、おれが悪かったんだ」

 ロクドは旅塵に塗れた自分の身体を気にしながら、そっとヨグナの両肩を掴み、離させた。ヨグナは薄手の寝衣一枚だった。

「そんな薄着で風邪をひく」

「許してあげなかったことを、あなたがいない間後悔したわ」

「おれもひどく後悔したよ。きみに会いたかった」

 ロクドは屋内に足を踏み入れながら外套を脱ぎ、ヨグナがそれを受け取った。家の中は暖かく、香草入りの蝋燭がゆっくりと燃える穏やかな匂いがした。

「ガーダルに手紙を預けてきた。サリマトがひと月のうちに迎えに来るはずだ」

「アイリアがいなくなると、淋しくなるわね」

 ロクドは笑った。ヨグナが不思議そうに首を傾げた。

「ところが、入れ替わりにひとり増える」

 悪戯めいた表情で、ロクドはヨグナにくしゃくしゃの書簡を手渡した。ヨグナはその場でそれに目を通すと、驚いたような声を上げ、破顔した。

「あなたも、本当の本当に先生になるのね」

「ああ」

 ロクドもまた顔を綻ばせ、すぐにその表情を消すと、自信なさげに呟いた。

「大丈夫かな」

「大丈夫よ」

 ヨグナが頼もしげな声音で断言した。

「ロクドなら大丈夫」

 その瞬間、まったく唐突に、ロクドの頭の中にかつての師の声が蘇った。

──覚えておきなさい。もし将来きみが弟子を持つつもりなら。

 はっとするほど鮮明な声音だった。やさしい、複雑な感情の響きを帯びた声だった。まるでカレドアがすぐ傍に立っているかのような錯覚に捉われ、ロクドは思わず立ち止まった。息が詰まるような思いがした。ヨグナが再びロクドの腕の中に身を寄せた。喉元まで熱いものがこみあげ、ロクドはヨグナの髪に口元を埋めた。乳香とくちなしの入り混じったような、やわらかい匂いがした。

 ロクドはしばらくの間そうしていたが、やがてヨグナから身体を離し、尋ねた。

「アイリアとユトレドは?」

「寝てるわ。そろそろ帰ってくるはずだなんて言って、随分夜更かししてあなたを待っていたけれど」

「遅くなって悪かったよ。橋が落ちていて……」

「知ってるわ」

 ヨグナは笑い、ロクドの手を引いて居間へと連れていった。部屋の中は、旅立つ前と変わりなかった。黄金色のしよこうが東の遥か彼方から射し始めていた。清らかな光の筋は窓から一直線に、おどろくべき濃淡を作りながら部屋を分断していた。

 窓辺に置かれたランタンをロクドは見た。ランタンは決定的にひび割れていた。旅立つまえ、ロクドがそれを綺麗にしようとして、過って壊してしまったのだった。ふたりの大切な思い出の品、かつて燈虫が仄かに照らした素晴らしいランタン、その蓋は歪み、二度と開かなくなってしまった。ひたりと止まってしまったロクドの視線を追い、ヨグナはやわらかく微笑んだ。

 未だ夜の青みを帯びた薄闇がわだかまる部屋の中で、清浄な夜明けの光がふたりのランタンを照らし出していた。硝子の上を無数に走る罅に光が乱反射して、窓辺全体へと青と橙の影を放射線状に広げ、言葉を失うほどにうつくしかった。

 陽が昇る。新しい陽が。

 黄金色の光がやがて白銀へと変わり、すっかり部屋の中が明るくなってしまうまで、ふたりはランタンを見つめていた。


 了

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