酒、魔術師を飲む
前編
「何故だ」
向かいに座る男が喧騒に紛れそうな声で呟いた。機嫌よさげな白猫亭の主人が新しい麦酒を持ってきては、テーブルの上にどかどか置いていく。
「ほれ、さっさと飲まんか。次が来るぞ」
「何故私がきみと飲み比べをしなくてはならないんだ?」
「往生際が悪いぞカレドア」
ガーダルに同意するように、一つ向こうのテーブルの集団が囃し立てた。どうやら、飲み比べが始まると聞くやいなや、どちらが勝つか賭けを始めたらしい。
——お前に今月分の給金賭けたからな!
——頼むぞ!
がなり声の全てを無視してカレドアは溜息を吐き、立ち上がった。
「おい、何のつもりじゃ」
「帰る」
「どこへ」
「家に決まっているだろう。かわいい弟子が待っているものでね」
「なあにがかわいい弟子か! 飲みにも連れ出してやらん癖に」
「まだ子どもだ」
「サリマトとラバロのやつがこの間一緒に酒を飲んだと言っておったぞ」
ガーダルがにやりとすると、カレドアが眉間に皺を寄せ、口を閉じた。
その背後では、早くも出来上がった客どもが揉めている。
——あいつが帰るなら賭けは無効だ!
——金返せ!
——いいや、ガーダルの不戦勝だろう!
「とにかく、帰る。こんな下らない賭けに使われるのは御免だ」
「ここ最近娯楽に乏しいからな」
「大体、突然都合も聞かずに連れてこられて酒を飲めなど、意味が分からない。毎度のことだが、きみの唐突さにはほとほと呆れる」
「逃げるのか」
「なんとでも」
「そんなこと言いおって、ただ単に飲めないんじゃろ」
安い挑発の言葉を吐きかけると、意外にも外套を掴みかけていたカレドアの手が止まった。此方を振り向き、不愉快げに目を細める。
「ようく考えてみたら、おまえ、いつも二、三杯しか付き合わんな。成る程、そういうわけか」
「乱暴な飲み方をしたくないだけだ」
「飲めないんじゃな」
「そうじゃない」
「認めろ」
カレドアは溜息を吐いた。舌を打って踵を返し、目を丸くするガーダルの方へ靴音高く歩み寄ってくる。テーブルに片手を突くと、カレドアは今さっき立ち上がったばかりの椅子を大きな音を立てて引いた。
「条件がある」
無責任な観衆がどよめき、盛り上がった。
「私が勝ったら、 こうやって面倒ごとに付きあわせるのはこれっきりにしてくれ。それと」
カレドアはそこで白猫亭の主人をちらりと一瞥した。主人は存外円らな目を瞬かせ、首を傾げた。その服の隅に、体格に似合わずかわいらしい猫の縫い取りがしてあるのが見えた。カレドアは咳払いをした。
「金輪際、此方に厄介な客を紹介するな!」
ロクドは口をぽかんと開け、サリマトの言葉を鸚鵡返しにした。
「飲み比べ?」
「そう」
カレドアの家である。
ロクドが今日二つ目の護符作りに精を出していたところに、サリマトが一人訪ねてきたのだ。季節外れの
サリマトは長椅子の背凭れに寄り掛かり、淹れたての香茶を啜る。水色も美しく、香水薄荷の香りが爽やかな特性の香茶はロクドの好みで、カレドア用のものとは別にわざわざ毎週買い求めているものだ。茶器を持ったまま突っ立っていたロクドは自分の分を淹れ終え、サリマトの向かいに腰掛けた。前髪にはまだ綿毛が纏わりついて、ふよふよと揺れている。
「なんでまた」
「師匠っていつも唐突だからさ」とサリマトが笑う。
「午後突然玄関が騒がしくなったなと思ったら、散歩に出かけたはずの師匠がカレドアさんを捕まえてきててさ。彼、すっごく嫌そうにしてたけど。一泡吹かせてやるって息巻いてたよ」
「ふらっと出掛けてから帰ってこないと思ったら……」
ロクドは頭を抱えた。
「今夜は術式の構築で教えてほしいところがあったのに」
「手伝う?」
依頼人の個人情報にかかわるんだ、とありがたい申し出をやんわり断り、ロクドはようやく自分の香茶に口をつけた。大きな溜息を吐く。この三年半で、随分上手く淹れられるようになった。最初は、それはもう酷いものだったのだ。
「先生って誰かと飲みに行ったりするんだ」
「うちの師匠とは昔からたまに飲んでるみたいだよ。いつもこうやって、師匠が無理矢理連れ出して」
「先生、そういうことあまり言わないし。家では飲まないから、知らなかったよ」
そうなんだ、とサリマトが頷いた。
「うちは、しょっちゅう弟子連中引き連れて飲みに行くよ。きっと意思疎通の一手段なんだろうね。師匠、頑固者だし厳しいし怖いけど、酒の席だとあたしたちも普段言えないようなことを言いやすいから」
「へえ」
まだ微かに湯気を上げるカップを両手で包みながら、ロクドはぽつりと言った。
「なんかそういうの、いいな」
サリマトがカップを置き、ロクドを観察するようにした。ロクドは急に居心地が悪くなり、足をもぞもぞと動かした。
「ロクドから誘ってみればいいじゃないか」
「おれが?」
「別に変じゃないだろう?」
「うーん……いいよ」
「なんでさ」
「先生は、なんというか、そういう感じじゃないんだ」
「まあ、ロクドがそう言うなら別にいいんだけどさ」
ロクドは香茶の残りを流し込み、勢いよく立ち上がった。いつの間にか空になっていたサリマトのカップと自分のカップとを持ち上げる。
「ご飯食べていくだろ」
「いいの?」
「どうせ先生もガーダルさんも帰ってこないんだろ。うちで食べていけばいい」
「手伝うよ。何作るの?」
「シチューかな」
昨日の玉ねぎがまだ残っているはずだ。サリマトが笑顔になり、握り拳を作った。シチューは好物らしい。てきぱきと腕捲りをし始めたサリマトに、ロクドは尋ねた。
「先生たちは、何時頃に帰ってくるのかな」
「まあ……五時間後くらいに迎えに行けばいいんじゃないかなあ」
「そんなに?」
サリマトが肩を竦めた。
空いた葡萄酒の瓶を矯めつ眇めつして、カレドアがまた溜息を吐いた。
「こんな飲み方をして……勿体ない」
「なんじゃ、やっぱり自信がないのか」
カレドアがむっとしたように此方を見る。カレドア自身は認めようとはしないが、こう見えて存外負けず嫌いな質なのだ。きっとそれを知っているのはわしだけだ、とガーダルは思う。なにしろこの男、ガーダルに言わせれば、猫かぶりが抜群に上手い。
「性に合わないだけだ」
「本当は弱いんじゃな。やあい」
何がやあいだきみは子供か、とカレドアが鼻で笑った。
「言っておくが、ガーダル。私はすごく、すごく、すごく酒には強いんだ。きみよりもな。お生憎様だ」
そう言ってカレドアが景気良く杯を呷った。空いたグラスを荒っぽく机に置き、新しい瓶を開ける。
「ふん、すぐに分かることじゃわい」
「潰れたら置いて帰るからな」
「やってみろ」
二人はそれきり黙り込み、葡萄酒を淡々と口に運んだ。どこかのテーブルで酔っ払いが席を立つ。喧騒が耳に纏わりつく。白猫亭の薄暗い灯りが葡萄酒の液面をなめらかに通過し、指輪へと滑ってゆく。しかしそのぼんやりとした反射光は、カレドアの人差し指を飾る黒曜石に到達した途端に、奇妙にもするりと溶け消えてしまうのだった。ガーダルはまた一口酒を飲み下し、目を細めた。カレドアの前髪がその瞼に暗い翳を落としていた。まっくらな双眸は指輪の石と同じく、少しの灯も弾かない。
「少しは師匠らしいことをしてやれ」
カレドアがゆるやかに眼差しを上げた。傾けたグラス越しに、ガーダルの瞳へとその焦点を合わせる。
「ロクドのことだ」
カレドアが溜息を吐き、周囲の空気がほんの僅か解けた。このとき初めて、ガーダルは自分が無意識の緊張状態にあったことを知った。ガーダルはしずかに狼狽した。
「きちんと教えている。それに、別に、弟子にしたくてしたわけじゃない」
「それでも弟子にした以上、責任というものがあるだろうに」
「責任ね」
「そうだ」
カレドアがグラスを置き、行儀悪く片肘をついた。片手で髪をぐしゃりと乱し、不愉快そうに笑う。
「きみが私に説教か」
「おまえはまだ家庭も持っとらんのじゃろ」
「きみだって持っていないくせに」
「持ったことがないとは言っておらん」
今度はガーダルが深い溜息を吐いた。翡翠の指輪の嵌った右手をテーブルの上でぎゅっと握る。
「カレドア、そういうことを言いたいんじゃない。おまえには妻がない。子どもがない。友人すらおらん」
「放っておいてくれ」
「たった一人の弟子にくらい、きちんと向き合えと言っとるんだ、わしは」
ガーダルの視線を阻むように、カレドアは瞑目した。
「なあカレドア。ロクドは、あれはいい子じゃな。おまえだって、そう思っておるのじゃろ」
「ああ……いい子だ」
ぽろりと零すように、カレドアは呟いた。その、今までとは打って変わった柔らかな響きに、ガーダルは思わず眉根を上げた。
「心根の優しい、善良な子だ。それに、魔術師見習いとしても優秀だ。申し分のない弟子なんだろう。私には勿体ないほどのな」
ガーダルは何か一言掛けようとして言葉を探したが、適した言葉は見つかりそうになかった。カレドアは再び目を開き、ガーダルを見た。その瞳の色は、しかし想像に反して冷ややかだった。
「こんなことを話したくて私を付き合わせたのか」
ガーダルは反射的に噛み付いた。
「こんなこととは! 折角人が心配してやっとるのにその言い草か」
「心配してくれたのか? きみが? 私を? それはありがたい」
カレドアが口角を均等に上げた。ガーダルは口をへの字に曲げ、無言で空のグラスを突き出した。カレドアも何も言わずそこに葡萄酒を注ぐ。
「おまえに友だちがいないわけがようく分かる」
「何故だ? 教えてくれ」
心底不思議そうな顔を作ってみせ、カレドアは今度こそ声を上げて笑った。
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