後篇

「酒が空いた」

「新しいものを」

「葡萄酒だ」

「グラスをもう一つ」

「おうい、麦酒が切れたぞ」

「こっちにも」

「切らしちまったよ」

「なんじゃい」

「他はまだあるよ」

「それなら、蜂蜜酒」

「女子供が飲むもんじゃろ」

「葡萄酒や麦酒ばかりでは飽きる」

「なんでもいい、飲め、飲め」

「野蛮だ」

「言えたことか」



 *



「おっと」

 空いたグラスを置こうとしたカレドアが、誤ってリエール酒の瓶の一つを倒した。慌てて起こすが、幸い中身は既に空だ。瓶を置き直すカレドアを、ガーダルが欠伸混じりに揶揄した。

「どうした、もう酔ったのか」

「この程度で酔うものか。きみこそ随分眠そうじゃないか。そろそろ帰って寝たほうがいいのでは? 老人の夜は早いからな」

「眠くなどないわ!」

 そう怒鳴ったものの、正直に言えば少し眠い。ガーダルは頭を振り、目の前でグラスを揺らす男を睨めつけた。灯りの下で、カレドアの姿が左右にゆらめく。

「お前だって、さっきからふらふらしとるじゃないか」

「ははは」

 カレドアが面白そうに笑った。グラスを置き、おどけたように左右に上体を傾けてみせる。

「いいかい、きみがふらふらしているんだよ。だからそう見える。私はふらついてなんかいない」

 言葉通り、確かにカレドアは顔色のひとつも変えていない。流石に普段よりも饒舌になっているような気はするが、憎らしいほどに平然としている。唸るガーダルを見つめ、カレドアがせせら笑った。

「きみ、口ほどにもないな」

「なんじゃと」

「思ったよりも早く勝負が付きそうだということだよ。まともな時間に布団に潜り込めそうだ」

「言ってろ!」

 ガーダルは拳をテーブルに叩きつけた。痛みで少し頭がはっきりする。

「そもそも、わしの方がおまえより五杯は多く飲んどるからな」

「おいおい、それはないだろ」

「いいや、飲んどる」

 ひい、ふう、みい、よお、と指を折り始めるガーダルに、カレドアが顔を顰めた。

「まさか! まったく同じペースで飲んでいるはずだ。おい、見ていただろう」

 カレドアが向こうのテーブルを振り向くと、すっかり泥酔し、記憶力に難のある客たちが顔を見合わせた。

 ——そうだっけ?

 ——そうだったかな?

「大事な金がかかっているんじゃあないのか!」

「わしの方が多く飲んどるから、幾分酔ってても仕方あるまい」

「いけしゃあしゃあと」

 新しい酒壺を引き寄せつつ、ガーダルはじとりとカレドアを睨んだ。ううむ、と唸る。奇妙なのだ。

 何故この男は未だ酔った風がないのだろう。ガーダルの方はといえば、肴もなく立て続けに酒ばかり入れているので、幾ら自信があるとはいえ酔いが回ってきている。カレドアだって状況は同じはずだ。これだけの量を飲んでいて、こんなに平然としていられるのはどうにも納得がいかない。

 ガーダルは睡魔と戦いながら、とっくりと対戦相手を観察した。黒曜石の指輪の嵌った長い指がグラスの縁をぐるりとなぞり、そう、今だってまるで水でも飲むかのように——。

 そこでガーダルは唐突に違和感を覚えた。カレドアが今まさに口をつけようとしていたグラスを奪い取る。

「あっ、待て」

 制止を振り切り、中身を口に含む。眠気が覚めた。

 やはり!

「おまえ! 何じゃこれは!」

「違う」

「違くないわ!」

 カレドアが苦し紛れにとぼけてみせた。

「酔いで味が分からなくなってるんじゃないのか?」

「魔術で自分の分だけこっそり酒精を飛ばしとるな! おかしいと思ったんじゃ! 店主!」

 ガーダルがカレドアを力強く指差し、店主がグラスを受け取った。中身の味を確かめ、顔を顰めて頷くと、酔っ払いどもから激しいブーイングが上がった。カレドアが腕を組んで背凭れに寄りかかり、苦々しげにそっぽを向く。反対にガーダルは意気揚々として、新しいリエール酒の栓を開けた。その上に皺だらけの右手を翳す。店主や野次馬の見守る中、ガーダルの指先から輝く呪文の帯が現れ、瓶の口から内部へと入り込んだ。すぐに、瓶から真っ白な蒸気がもうもうと上がりはじめる。横目で見ていたカレドアがぎょっとして身を起こし、ガーダルの手首を掴んだ。

「きみ、何を」

 慌てて持ち上げた瓶の中身は、既に半分以下になっている。何が起きたのかを理解し、カレドアが呻いた。ガーダルはカレドアと逆のことをやってみせたのである。つまり、もともと度数の高いリエール酒から選択的に水だけを気化させ、煮詰めるように濃縮した。これは、実をいえば蒸発しやすい酒精だけを飛ばすよりもずっと複雑で高度な術式が必要なのだが、よもやこんな下らないことに使われるとは先人たちも思わなかったであろう。何はともあれ、結果として出来上がったのは酒の形をした劇物である。

 店主がカレドアの手から瓶を取り上げ、それを杯になみなみと注いだ。酒精だけでなくその他の薬草成分も濃縮されているので、まず色がおかしい。匂いもおかしい。おそらく味もおかしい。

「ば……きみ……こんなもの飲めるか」

「何か文句があるか」

「これは人間の飲み物じゃあない! 燃料だ! 煙草を吸っているやつはいないだろうな引火するぞ!」

「今までズルしてたんだから当然じゃろ」

 飲ーめ、飲ーめ、と外野から無責任な掛け声が掛かる。

「うるさいぞ!」

 カレドアが両手でテーブルを叩いた。空いた瓶やら質の悪い硝子の酒器やらがぶつかり合い、ガシャンと酷い音がした。

「冗談じゃあない……こんな……せめて量を減らせ!」

「諦めて早く飲め、蒸発してしまうぞ」

 ちくしょうと吐き捨て、捨て鉢のようにグラスを掴み取り少し口を付けたカレドアが、顔色を変えた。ぴたりと動きが止まり、ぐっと息を詰めるのがガーダルにも分かる。カレドアは一瞬間の躊躇いののち、一息に杯を空にした。とてもちびちび飲んではいられないと判断したのだろう。つまりやけくそである。最早なんだかよく分からなくなっている酔っ払いどもの歓声が上がった。いいぞ!

「やるな、お前」

 グラスを放り出したカレドアは口もきけないらしく、目を充血させて此方を射殺さんばかりに睨みつけている。みるみるうちに首まで血が巡る。

「わはは、手が震えとるぞ」

 ガーダルは新しい蜂蜜酒を自分のグラスに注ぎながら大笑いした。ようやく口元から手を離したカレドアが一言毒づき、顔を顰めて喉を抑えた。濃すぎる酒が喉を荒らしたのだろう、カレドアの声はひび割れてすっかり掠れている。こいつきっと明日は声が出ないんじゃろな、とガーダルは思った。いい気味だ。にやけながら蜂蜜酒を口に運んだ瞬間、ガーダルは悲鳴を上げてグラスを投げ出すこととなった。蜂蜜酒が突沸したのだ。

「カレドア!」

「年寄りは身体を冷やさないほうがいい」

「火傷したぞ!」

 カレドアは涼しげな顔で自分のグラスに葡萄酒を注いだ。

「では冷たい葡萄酒でも」

 ガーダルは悪態を吐いて左手の指を二本突き出し、くっと折り曲げた。近くの空き瓶がカレドアめがけて飛んでいく。瓶はカレドアにぶつかる前に木っ端微塵になり、きらきらしい反射光を散らした。全ての破片はこの若い魔術師を避け、床へと飛び散る。

「何をするんだ」

 葡萄酒に口をつけながら、カレドアが平然と片眉を上げた。

「手が滑ってな」

「気をつけてくれ。片付けが大変になる」

「ああ、済まん」と言いながらも、ガーダルは再び二本の指を曲げた。今度はもう少し離れたところから酒壺が投げつけられた。カレドアはろくに視線を遣りもせず、これも粉々にした。今回カレドアの予想と違ったのは、頭から蜂蜜酒を浴びる羽目になったということだった。

「どうやら、今回のは空じゃなかったようじゃな」

 酒精が目に沁みるらしい。前髪からぽたぽたと雫を垂らしながら両目を抑えるカレドアに、ガーダルは笑いを堪えながら言った。

「平気か」

 次の瞬間、ガーダルの座っていた椅子の脚が砕け、老魔術師は床に尻をいやというほど打ち付けた。思わず呻き声が上がる。

「驚いた、きみこそ大丈夫か。脚が脆くなっていたのかな」

 上の方からカレドアの声が聞こえた。

「店主! 年寄りが椅子を壊してしまった。新しい椅子を。それから何か……拭くものを」

 ガーダルはおそろしい形相で立ち上がり、カレドアに指を突きつけた。尻がひどく痛む。袖で目元を拭ったカレドアは、冷ややかにガーダルを見返した。

「なんだ」

「いいか、今晩おまえを潰すまでわしは絶対に帰らんからな」

「一生帰れないということになるな」

「店主!」

 ガーダルは吼えた。

「この店にある酒を全部持ってこい!」








「何やってるんですか!」

 耳に飛び込んできた少年の声に、うつらうつらしていたガーダルははっと目を覚ました。

「見れば分かるだろう」

「なんですかその声! それに、うわ、なんだ、蜂蜜酒の匂いがすごい……」

 がさがさと耳障りの悪い咳払いをしたカレドアは、恐ろしく不機嫌だ。乾いてごわごわになった髪をロクドに触られながら、じろりとガーダルに視線を向ける。

「今、寝ていただろ」

「寝とらん」

 きっぱりと否定してみせる。言い返す気力もないのか、カレドアが溜息を吐いた。向かいに座るカレドアが三人見える。ゆらゆら揺れて、なんだか全員具合が悪そうだ。

「なんか、おまえ一杯おるな」

「馬鹿じゃないのか」

 カレドアが吐き捨てたが、その声には覇気がない。いつの間にか傍に立っていたらしいサリマトが、顔を顰めて尋ねた。

「師匠、いったい何杯飲んだんです?」

「おい、カレドア……お前何杯目じゃ」

「何杯目……何杯目?」

 テーブルに両肘をついたまま、カレドアが繰り返した。呼吸がかなり早い。ロクドがガーダルとカレドアとを見比べて唖然としている。

「無理せんでも、いいんだぞ」

「こっちの台詞だ」

 そう唸ったカレドアが、不意に口を押さえた。よろめきながら立ち上がろうとする。

「どこへ行く」

「吐いてくる」

 ガーダルの手が素早く伸び、カレドアの袖を捉えた。カレドアが大きくふらついた。

「なんだこの手は」

「なんだじゃないわ! 駄目に決まっとろうが、限界なら潔く負けを認めろ!」

「酔いではなく胃袋が限界なんだ! 人間の胃の大きさを考えろ馬鹿!」

 勢いよく怒鳴ってから、カレドアは酔いのせいで赤くなっていた顔をみるみる青くし、テーブルに手をついた。こみ上げる嘔気を堪えているらしい。カレドアは罵りながら再び席に戻り、ガーダルを睨みつける。それからのろのろとグラスを取り、嫌々口をつけた。一口を飲み下すのにとてつもない時間を掛けている。それでも一滴も零さないのは敵ながら天晴れだ。

「なんで潰れないんじゃこの化物」

「師匠、もう帰りましょうよ」

「いやだ! わしは帰らん!」

「ガキか!」

「先生も、いい加減にしてください」

 カレドアが真っ赤に濁った目でロクドの方を見た。思わずといったように、ロクドがたじろぐ。

「明日絶対後悔しますよ、続きはまた今度にすればいいじゃないですか」

「それじゃあ意味がない」

「いいから帰りましょうって。先生、ちょっとおかしいですよ」

 ロクドがカレドアを無理矢理引き起こそうとした。サリマトがあっと声を上げる。霞む視界の中で、カレドアがテーブルの上の瓶を薙ぎ倒しながら倒れこむのが見えた。ロクドの慌てた声が響く。自分を取り巻くざわめきが次第に遠ざかってゆくのを認め、ガーダルもテーブルに突っ伏し、意識を手放した。






「師匠、ちゃんと歩いてくださいよ」

「うるさい、おまえがちゃんと支えろ」

「我儘だなあ」

「何か言いおったか」

「いいえ」

 あのあと大変だったのだとサリマトは言う。前後不覚に陥った二人をロクドとなんとかして起き上がらせ、水を飲ませ、とにかく店から連れ出したらしい。賭けは無効になったはずだが、なんやかんやで賭け金はみな白猫亭の主人の懐に収まったようだ。ガーダルは店主の満面の笑みを思い浮かべる。ふらふらと壁に突進しそうになるガーダルを止めようと苦心しながら、サリマトが呆れたように言った。

「どうしてあんな勝負吹っかけたんですか」

「気に食わんからだ」

 唸り声を上げると、サリマトが溜息を吐き出す。

「師匠はなんでカレドアさんにそんなに拘るかなあ……普通に、いい人じゃあないですか。誰にでも人当たりいいし」

「あれは嘘物じゃ」

 ガーダルは嘔気を覚え、道の隅に嘔吐した。サリマトが悲鳴を上げて、吐瀉物が服にかからないようにした。ガーダルは袖で乱暴に口元を拭う。

「勘弁してくださいよ」

「どこもかしこも偽物で、気持ちが悪い。おまけに、あやつはわしがそれに気づいとらんと思っとる。我慢がならん」

「はいはい」

「本当に、いやなやつだ」

「はいはい」

「聞いとるのか」

「はいはい」

 ガーダルはサリマトの肩をべしりと叩き、サリマトが呻き声を上げた。

「もう、なんなんだこの人……」

「まあでも、今日のカレドアはほんのちみっとだけ、いつもよりましじゃったな」

 そう小声で漏らしたガーダルに、「何か言いました?」とサリマトが聞き返した。ガーダルはぴたりと歩くのを止めた。やれやれ今度はなんだとばかりに、サリマトがうんざりした顔をした。

「師匠……」

「次行くぞ」

「は?」

 サリマトは耳を疑ったような表情を浮かべる。

「お前は飲んでおらんじゃろ」

「師匠、だって、はあ?」

「わしは若い頃はな! こんなもんじゃなくもっと」

「あんた死ぬぞ!!」

「わしはまだ飲める!!」





「もう飲めない……」

「飲まなくていいです」

 ロクドはぴしゃりと言った。カレドアは長椅子の上でぐったりと伸びている。はだしの足が長椅子から力無くはみ出し、靴はその真下に脱ぎ捨てられたままだ。ときどき苦しげに身動ぎしては、ゆっくりとした瞬きを繰り返している。ロクドはたっぷりと水を張った桶を持ってきて、机の上に置いた。

「どうしてそんなむきになっちゃったんですか。先生らしくもない」

 返事は返ってこない。ロクドは首を振り、水面を突ついて桶の中に小さな氷の塊を幾つか生み出した。

「はははは」

 突然カレドアががらがらの声で笑い出し、ロクドはぎょっと身を引いた。気でも触れたのかと心配になり肩を叩いたが、どうにも笑うのをやめようとしない。発作のように肩を震わせながら、カレドアはごろりと横向きになった。

「また吐きますよ」

「あのいかさまに気付かれたのは初めてだ」

 カレドアが笑うのをやめた。ようやく視線がロクドの方を向いたが、口元はまだ弛んでいる。

「少し、昔のことを思い出してね」

「昔?」

「若い頃、よくこういう馬鹿なことをした」

 独白のようにカレドアは呟いた。ロクドはカレドアの言う「若かった頃」というのを想像しようと試みたが、あまりうまくいかなかった。そもそも三十にもならないであろうカレドアは今のままでも十分に若いのではないか、という気もしたし、そうは言っても若者らしく酒の席ではしゃいでいるカレドアというのもおそろしく似合わない気がした。

 左腕をぶらりと長椅子から落とし、カレドアが埃っぽい絨毯に目を落とした。掃除されていない床には、三日前に要り用だった書き付けが散らばっている。

「少し似ているんだ、昔の友人に」

 誰とは言わなかったが、カレドアはガーダルのことを言っているのだと、ロクドには分かった。カレドアはぽつりと言った。

「いいやつだった」

 ロクドは布を氷水に浸した。カレドアはまた寝返りを打ち、仰向けに戻った。小さな呻き声が上がる。

 カレドアが過去のことを語ったのは初めてのことだった。その友人はどうなったのか、どうして過去形なのか、気になった。しかし、それ以上尋ねることはできなかった。温度のない不可視の壁が確かにカレドアを囲い、侵入を阻んでいた。重く透明な沈黙が二人の部屋におりて、ゆっくりと砂のように降り積もった。ロクドは水に浸した布を持ち上げ、顔を俯けた。

 カレドアが息を吸い込む音がした。

「今度、一緒に飲みに出かけようか」

 ロクドは動きを止めた。

「飲めるようになったんだろう」

 顔を上げると、カレドアがロクドをおだやかに見ていた。目元こそ赤いが、結膜の充血は治まってきていた。

「ガーダルから聞いた」

「暫くは無理でしょう」

 適当に布を絞り、カレドアの額に乗せてやる。

「ロクド、ちょっと絞りが甘過ぎないか」

「明日一日きっと動けませんからね」

「ああ、水が垂れてくる」

 ロクドは無視して桶を持ち上げ、背を向けた。カレドアが唸った。

「おい、ロクド」

 そうして、魔術師の弟子はちょっとだけ笑ったのだった。


   おわり

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