魔術師仲良く喧嘩しな
前篇
若い男が二人、姿勢良く並んでいる。彼らが身を包むのは神殿の所属であることを示す紋章入りのガウンであるが、彼らの手や胸元に貴石の煌めきはない。つまり、彼らはまだ魔術師見習いの身分である。
二人ともなに食わぬ顔で直立してはいるものの、短い赤毛の男のほうは頬をひどく腫らし、黒髪の男のほうは片手で鼻を押さえていた。その指の間からは時折赤黒い血が滴り落ちている。
部屋に二人を呼び出したのは老師サルバローザであり、この老人が二人の師であった。サルバローザは皺だらけの顔を顰め、赤毛と黒髪とを順に睨めつけると、「喧嘩か?」と端的に尋ねた。
「いいえ」
黒髪の男——レドニスが不明瞭な声で答えた。
「ならばその鼻血はどうした」
「部屋の扉にぶつけまして」
レドニスが口を開く前に、赤毛——こちらはライネルという——が口を挟んだ。
「扉?」
「この男は普段からすっとろいところがあるものですから、そういうことがよくあるのです」
レドニスはしゃあしゃあと説明する兄弟子の横顔へと鋭い視線を飛ばした。
「レドニス、そうなのか?」
「はい」
怒りを抑え、苦虫を噛み潰したような表情で答える。つんと顔を逸らしたライネルに、サルバローザは次いで質問した。
「おまえのその頬も扉にぶつけたのか?」
赤紫に腫れ上がった頬を指し示す。
「いいえ、彼は転んだのです」
なにか答えようとライネルが口を開いたが、彼が声を発する前に今度はレドニスが返答した。
「転んだ?」
「信じがたいことに、そこの廊下で滑って床に顔を打ちつけたとのことです。いったい何をしているのやら、大間抜けというほかありません」
隣のライネルが恐ろしい形相になるのが分かった。血液が鼻腔から喉のほうへと流れ吐き気を催したが、レドニスは鼻を押さえたままで涼しい微笑を保った。 サルバローザは暫くの間二人の顔を見比べていたが、やがて「よく気をつけることだ」と唸った。
「不注意、短気は魔術師の心得からもっとも外れたもの。これをけっして忘れるでないぞ」
ライネルは胸に手を当て、レドニスは頷いて了解を示した。サルバローザは続いて節くれだった指を二人の顔へと突きつけた。
「それと、これは言うまでもなかろうが……喧嘩に魔術はご法度ぞ。万一使ったりしたなら破門どころではない。分かっておるな」
「はい、
二人の魔術師見習いは声を揃えて返事をした。
「話は明日にする。さっさと治しておけ。レドニス」
「はい」
「ブローチはどうした」
「その……」
レドニスは口籠った。
「部屋に」
「常に身につけておけ。それはおまえへの正当な評価の証だ」
レドニスは頷いた。ライネルは低い声で退室の挨拶をすると、一人でさっさと部屋を出て行った。残されたレドニスは蹲って床の血を——拭うそばから新しい血が滴りおちるので苦労した——手持ちの手巾で拭き取り、礼をしてから退室した。
部屋に戻るとライネルが寝台に寝そべっていた。明瞭な舌打ちが聞こえたが、レドニスは聞こえないふりをした。机に戻り、写本の解読の続きにとりかかろうとしたところでライネルが唸った。
「師匠に手間を掛けさせた」
「私のせいか」
レドニスは振り向かずに言った。
「お前はいつも人のせいにするな」
「なんだと?」
「やめておけ。お互いもうこれ以上顔に傷を増やす意味はない」
寝台を軋ませて立ち上がりかけたライネルが、それを聞いて腰を下ろした。そのあとで、またすぐに起立する音がした。
「出ていけよ」
「何故だ?」
「ここはもともと俺が一人で使っていた部屋だ」
「それがどうした。今はそうじゃない。普通は文句のあるほうが出ていくんじゃないのか」
目はさっきから同じ文字列の上を滑っていたが、レドニスは頑なに写本から目を離さなかった。視界の外で、ライネルが息を吸い込んで吐き出す音がした。やがて彼は足音荒く歩き出し、相部屋を出て行った。扉は乱暴に閉められた。
部屋が静かになると、レドニスは本から目を上げ、頬杖を突いた。苛立ちによって集中力を欠いていた。思うように文字の海へと耽溺できないときにいつもそうするように、頁の隅を指で三回叩いてみたが、ほとんど効果はなかった。深い溜息を吐き、天井を仰ぐ。不穏な靄の蟠る胸中とは裏腹に、薄く削り出した
ユウスト会での研究成果発表を終え、しこたま飲み、帰室したのが今朝のことである。ファルヴィアや、西方のキリカからの魔術師も集うもっとも大きな意見交換の場のひとつであるユウスト会では、一般に見習いの出る幕はない。今回レドニスに発言の機会が与えられたのは、偏にサルバローザの働きかけがあったがゆえである。レドニスの容積絶対湿度と焼灼魔術による物質の燃焼に関する発表は高く評価され、「特例として」、会員の証である金の透し彫りのブローチを授与されることと相成ったのだった。
相部屋へと帰室すると、既にライネルは目を覚まし、朝の光の中で机に向かっていた。
「帰ったのか」
扉の音を認め、ライネルが振り向いた。手元には、目下二人が解読中の写本が広げられている。一昨日同時に始めたはずだが、今はライネルのほうが幾分進んでいるように見えた。
「大変だったな」
「大変なものか」
レドニスは未だ覚めやらぬ興奮に目を輝かせながら、外套を肩から払い落とした。まだ酒が抜けていなかった。
「ファルヴィアからの著名な先生がいらしていて……此方には焼灼魔術の専門家がいないからな、ご紹介に預かった。キリカの文献も取り寄せてくださるそうだ。そうしたら、お前にも読ませてやるからな。キリカ語をちゃんと勉強しなおしておけよ」
背中を拳で小突くと、ライネルはいつものように小さく笑い声を上げた。
「よかったじゃないか」
「それに、これからはあの閲覧禁止の書架にも出入りできるんだ。最高だと思わないか」
「閲覧禁止の書架?」
ライネルが首を傾げた。レドニスは彼に歩みよると、手に握りしめた金のブローチを見せた。兄弟子ははっと目を瞠り、それをまじまじと見つめた。ライネルは少しの間絶句していたが、やがて口を開いた。
「本当に?」
囁くような声で問いかけたライネルに、レドニスは笑みとともに頷いてみせた。ライネルは暫く口を薄く開いたままブローチを眺めていたが、やがて小さな溜息を吐いて机へと向き直った。
「レドニス、そういうことなら……暫くの間は大人しくしておいたほうがいいぞ」
予想外にあっさりしたライネルの反応に拍子抜けし、レドニスは問い返した。
「何故だ」
「お前はただでさえ敵が多い。行動には慎みを持てよということさ。これまでより気をつけないと」
その嗜めるような口振りに引っかかるところがあった。昨晩からの高揚に水を差されたような湿っぽい不快感が、肚の底で頭を擡げた。
「どういう意味だ」
レドニスは低く抑えた声で再び問い直した。
「俺がこれをひけらかすだろうと言いたいのか?」
「お前は普段からそういう傾向にある、と言っただけだ」
呆れたような兄弟子の声音に、今度は紛れもなく怒りがこみ上げた。
「私は」とレドニスは唸った。
「私は自分の力でこれを獲得したんだ。そのことにとやかく言う権利が誰かにあるか」
「ないな」
落ち着き払った声音でライネルが言った。どちらかと言えば、普段は熱くなりやすいライネルを冷静にあしらう傾向にあるレドニスだったが、今朝はまるきり逆だった。
「それじゃあなんだ。凡人に配慮して息を潜めて生きろと? 私が? いいか、そんなのはごめんだ。私は魔術師だ」
「ああ、お前は頭の出来が人と違う。おまけに努力もしてる。当然、師匠にも期待されてる。そういう台詞を吐く権利が十分にあるだろう。俺が悪かった。どうぞ自由にしてくれ」
頭に血が上り、レドニスはライネルの肩を掴んで此方に向けさせた。ライネルが今度ははっきりと不愉快そうに此方に視線を向けた。
「お前、まさかとは思うが私に嫉妬しているんじゃあないだろうな」
「なに?」
言ってはいけないことを口にしようとしている自覚はあった。自覚はあったが止められなかった。
「私よりも二年も早く師事していたのに、お前はまだユウスト会にも……研究会にさえ呼ばれない。それはお前が……」
次の瞬間、右のこめかみのあたりに激しい衝撃を受け、レドニスはたたらを踏んだ。視界が揺れて吐き気がこみ上げる。ふらつくレドニスの胸倉をライネルが荒っぽく掴んだ。
「なんだ、怒ったのか」
レドニスは口を歪めてみせ、彼の頬を思い切り殴り返した。ライネルの唇が派手に切れ、鮮血が顎を汚した。血の赤がひどく精神を興奮させた。そこからは理性もなにもない、ただの野蛮な殴り合いとなった。
サルバローザの呼び出しを受けたライネルが一足先に部屋を出て行ったあと、自身の顔の傷に即席の治癒魔術を施しながら、レドニスは短い時間に色々なことを考えた。酔いはとうに醒め、殴られた傷の疼きと、寝不足の倦怠感とが体に重く纏わりついていた。ライネルの拳も勿論痛かったが、最中に小さく呟かれた、「お前のようなやつは嫌いだ」という声が妙に耳に残っていた。
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