後篇
結局夕刻になってもライネルは帰ってこなかった。特に空腹ではなかったが、レドニスは習慣から自然に食堂へと足を向けた。あれから解読はさっぱり進んでいない。レドニスは一番端の——見習いがよく使う——長卓の、更に一番端を選んで腰を掛けた。実の少ない質素なスープに硬いパンを浸しながら、こうして一人で食事をとるのは随分と久しぶりのことだと気がついた。
「今日はライネルと一緒じゃないのか」
「アゼリ」
頭上から降りかかった軽薄な声に、レドニスはうんざりして言った。
「私はいつでもあいつと一緒じゃなきゃならないわけじゃない」
「でも、あいつしか友だちいないじゃないか」
いやいや振り返ると、神殿つきのガウンに身を包んだ若い男が立っていた。くすんだ麦色の長い髪をしたこの男は、レドニスと同じ魔術師見習いだが、治癒魔術を専門とするサイファ師の弟子である。彼はいつでも眠たげな二重瞼を瞬かせると、にんまりと笑んだ。
「そうだろ」
「そんなことは」
「おい、僕を数えるなよ。僕はライネルとは友だちだけどさ、お前とは友だちになったつもりないぜ」
アゼリは手を伸ばし、レドニスの胸元を——正確にはガウンを留める真新しい金のブローチを——弾いた。
「もう知れ渡ってんだからな。お前は目立ちすぎる。知り合いくらいがちょうどいい」
抜け抜けとそう言い放つアゼリに、レドニスは思わず溜息を吐いた。ついさっきまで口に押し込もうとしていた酸味の強い黒パンを投げ出し、腕組みをする。
「生憎だが、私もお前のような男は願い下げだな」
「あいつと喧嘩してんのか。ガキじゃああるまいし」
「喧嘩などしていない」
「右目の周りが青くなってきてる。レドニス様にしては魔術の詰めが甘いぜ」
レドニスは弾かれたように右目を手のひらで覆った。舌打ちをして、ぶつぶつと目くらましの呪文を呟く。これで、少なくとも見た目はいつも通りに戻ったはずだった。面白そうにその様子を眺めていたアゼリを一瞥し、不愉快に鼻を鳴らす。
「お節介な男だな」
「ライネルほどじゃあないさ」
アゼリが目を細め、レドニスは思い切り顔を顰めた。
「何故お前が気にかける」
「ライネルが機嫌を損ねると面倒なんだ。普段怒らないぶんさ。どうやってあんなに怒らせたんだ?」
レドニスは肩を竦めた。
「さあ。想像してみてくれ」
アゼリが呆れ顔になった。
「早いとこ仲直りしろよ。弟弟子だろ」
「年齢は同じだ」
「だからなんだっていうんだ? 忠告はしたからな」
下唇を突き出すと、アゼリはふわふわと雲の上を歩くような足取りで食堂を出ていった。それが彼の歩き方の癖なのである。ひとり取り残されたかっこうのレドニスは、ぼんやりと自分の手元の黒パンの残りとスープとを見下ろした。それらは冷え切っていた。レドニスはそれ以上まったく食欲が湧かないことに気づいたので、今夜はもう食事に取り組むのをやめることにして、席からのろのろと立ち上がったのだった。
そこから十日あまりが過ぎたが、二人に「仲直り」の機会は訪れなかった。高揚が醒めた今となっては、腹に蟠るのは後悔ばかりだったが、放たれた言葉は帰ってこない。
ひとつ分かったのは、ライネルと仲違いをしていても別段生活には困らないということだった。流石に相部屋なので毎日顔を合わせなくてはならなかったが、ライネルも此方を避けているようで、それほど気詰まりな時間は長くはなかった。何も部屋で作業する必要はないのだ。
この十日間、ライネルは夜は随分遅くなってから帰ってきては、何も言わずに寝床へと潜り込んだ。そういったとき、レドニスはいつも反対側の寝台に横たわったまま、扉の開閉や寝台の軋みを聞いた。
多分……。
多分、俺はライネルが一緒に喜んでくれると思っていたんだろうな、と暗闇の中でレドニスは考えた。喜んでくれると思っていた。無邪気に。でも、そうではなかった。そうではなかったのだ。
ライネルがとうとう帰ってこなかった夜があった。アゼリたちとともにひっそりと色街へと出掛けたのかもしれなかった。レドニスもかつて誘われたことがあるが、気が進まず断ったのだった。そんなことを思い出した。
寝付けないレドニスは寝床から抜け出すと、椅子の背凭れに引っ掛けておいたガウンを広げた。そして、そのガウンの胸の部分から、金のブローチを外した。その繊細な意匠の施された金のブローチを、レドニスは黙って月の明かりに透かした。美しい透かし彫りの細工は複雑に月光を弾き返し、レドニスの指先をぼんやりと照らし出した。
俺はこんなに立派になった。
俺はこんなに立派になったんだ。
イーリア、とレドニスは呟いた。息が詰まるようなつめたい孤独感が胸中に去来した。せめて、一目でも彼女の顔が見られたなら。
レドニスはかぶりを振り、ブローチをガウンへと付け直した。必ず戻るとは言ったが、待っていてもらえるとは思わない。ああいう形で置き去りにしておいて、そんなふうに願うのはあまりに傲慢だ。
だが、もしも……。レドニスは考えた。もしも、俺がサルバローザを凌ぐほどの高名な魔術師になったなら……メイズの地にもその名が届くだろうか。
回廊を抜けて、中庭を横切ろうとしたところでハウロと鉢合わせた。馬の紋章、魔術師バルンの一番弟子である。ハウロは目敏くレドニスの胸元に視線を留め、唇を歪めた。
「随分と重たそうじゃあないか。身の丈に合っていないんじゃないのか」
周囲に緊張が走り、通り過ぎる魔術師たちの流れに淀みが生じる。レドニスは不快に眉を寄せた。平常なら受け流すところだったが、生憎とレドニスは平常ではなかった。
「いいや、これは羽根のように軽いんだ。ああ、身につけたことがなければ知るはずもないか……」
レドニスのあからさまな侮蔑に、ハウロの顔色が変わる。激昂に目の縁が真っ赤に染まっていくのが見て取れた。
こうだから、お前は魔術師として至らないのだ。
レドニスは自分を棚に上げ、冷笑した。俺を殴ってみろ。堂々と殴り返してやる——。
「そんなにこれが欲しいか?」
ハウロの手がレドニスの襟元を引っ掴んだ。
次の瞬間、派手な水音がした。
二人は頭から爪先まで水浸しになっていた。周囲からどよめきが上がるのが聞こえた。驚愕に目を瞠るレドニスとハウロに、ぶっきらぼうな声が投げかけられた。
「悪いな。手が滑った」
振り向いて、レドニスは絶句した。ライネルが大きな空の水瓶を抱えて立っていた。彼は前髪から顎から水を滴らせる二人の姿を見て鼻を鳴らすと、水瓶をその場にうちやり、西塔に向かって歩いていった。レドニスは瞬きをし、睫毛から水の雫を払い落とした。そして呪縛から解き放たれると、呆気に取られて硬直したままのハウロを置き去りにして、ライネルのあとを追い掛けた。
「おい」
ライネルは返事をしない。足早に人の波をくぐってゆくライネルと、その後を慌てたように追う濡れ鼠のレドニスとを、魔術師どもは物珍しげに見た。
「止まれ」
ガウンの裾をからげ、蹴躓きながら階段を上る。二人の部屋の前に辿り着いたところで、レドニスは漸くライネルの肩を掴んだ。
「なんのつもりだ」
ライネルは顔を歪めて怒りを露わにすると、扉を開けてレドニスの腕を掴み、部屋の中へと力任せに引き摺りこんだ。
「お前こそなんのつもりだ」
痛みに呻き声を上げたレドニスに、ライネルは低く唸った。
「あんなところでバルンの門下と殴りあいの喧嘩なんかして、師匠の顔に泥を塗るつもりか? 恥を晒すな」
「『恥を晒すな』だと?」
レドニスはライネルの腕を振りほどいた。暫くの間睨み合い、相手の瞳の中の怒りに満ちた自分自身と見つめあってから、二人はふと身を離した。レドニスは深い溜息を吐いた。
「もうやめよう」
重たげに首を振り、額に手を遣る。ライネルも疲れたように同意した。
「また殴り合いになったらお前に勝ち目はないしな」
「おい、延長するか?」
「でも、お前はそれでいいよ」
レドニスはライネルを見た。久しぶりにライネルと目を合わせたような気がした。明るい茶の瞳が、疲労と、そして許容の色を伴ってやわらかく細められていた。あれほどひややかに横たわっていたぎこちない蟠りは、今はあっさりと溶け去っていた。
「お前は俺より喧嘩は弱いかもしれないが、ここの使い方が優れてる」
ここ、と言いながらライネルは自分のこめかみを人差し指で叩いた。
「俺よりも……誰よりも。俺はときどき、お前に嫉妬するよ。それは確かだ。でもそれと同時に、俺はお前と兄弟弟子であることを……友人であることを誇らしく思いもするんだ」
「おい、褒めるなよ」
レドニスは思わず遮った。
「何故だ?」
「さっきまで喧嘩していた相手に褒められて、俺はなんて返せばいいんだ」
ライネルが意外そうに答えた。
「『ありがとう』でいいだろ」
どうしてそんな簡単なことを聞くんだ、とでもいうように。ライネルが笑う。レドニスは言葉が喉に痞えて、何も言うことができなかった。
「ありがとうと言えよ」
ライネルはふざけた調子で言った。レドニスは苦しく息を吐き出した。吐き出した拍子に、言葉が転がり落ちた。
「済まない」
「馬鹿だな、お前」
ライネルがまた笑い、話は終わったとばかりに自分の机のほうへ歩いていった。解読の続きをするつもりなのだ。この部屋で。レドニスもライネルも、そろそろ終わるはずだった。レドニスは全身が未だじっとりと水気を含んでいることに気づくと、乾燥とあたための呪文を唱えて自分の髪とガウンとを乾かした。そうして、反対側の壁の自分の椅子へと腰を下ろす。
「ライネル」
レドニスはライネルに倣って写本の終わりのほうの頁を開きながら、こちらに背を向けているはずの兄弟子に呼びかけた。軽快な声が返ってくる。
「なんだ、弟弟子よ」
「お前はいいやつだ。俺よりずっと」
「今更気づいたのか」
ライネルが椅子の背凭れに腕を掛け、此方を振り向いた。音につられ、レドニスも振り向く。ライネルがふと瞬きをし、レドニスの胸のあたりに目を留めた。そして、思い出したように呟いた。
「ブローチ、似合ってるな」
レドニスは机に向き直った。笑いがこみ上げてくるのを、必死に抑える。今日は、久々に作業に集中できそうな気がした。澄ました声でレドニスは返事をした。
「当然だ」
おわり
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