トラヴィア日常譚
倒れる男
前篇
薄紫の美しい魚が、かがやく鱗に覆われた横腹を見せつけながら悠々と泳いでいる。薄く光沢を放つ絹の繻子織のように優雅な尾鰭が押し退けて進むのは、しかし水ではなく空気である。魚は煙で出来ている。煙は鮮やかな仕草で鰭を翻し、カップの横を通り過ぎて、棚の合間を潜り抜けて廊下の方へ消えていった。老魔術師ガーダルは、自分が吐き出した煙の出来栄えに満足して、視線を机の上に戻した。
どうやら、ここトラヴィアにまたひとり新しい魔術師が増えたらしい。名はカレドア、歳の頃は三十程度で、珍しい黒曜石の心臓石を身につけた男。なんでも十日程前に単身ふらりとやってきて、ベントル通りの一角の、こぢんまりした家に住み始めたとか。ガーダルがその噂を小耳に挟んだのは昨晩の会合でのことであった。半年に一度トラヴィア中の魔術師が一堂に会するアンヴェルトン会は、ガーダルたち魔術を生業とするものにとって重要な情報交換の場である。参加は強制ではないが、ほぼ全ての魔術師がすすんで顔を出し、欠かさぬ出席は殆ど暗黙の了解となっているのが実情だ。トラヴィアの魔術師たちは皆お互いに関心を払わないようでいて、その実それぞれのことをよく把握している。
「魔術師というのはおしなべて縄張り意識が強い生き物じゃからな」
ガーダルはパイプに詰めた水晶煙草をまた一息吸い込むと、火皿から煙の魚をもう一匹吐き出し、弟子マルスへと差し向けた。
「師匠も?」
顔を大きく顰めてみせる。
「わしの領分で仕事をする以上、挨拶くらいしてもらわんとな。礼儀として」
「でも、仕事するつもりかまだ分かりませんよ」
「たわけ、わざわざ魔術を使わん仕事を選ぶ魔術師がおるか」
「ああ、そうですよね」
栗色の癖っ毛がぴょこぴょこ跳ねている不肖の弟子の頭をぱこんと叩き、ガーダルはまだ火のついているパイプから水晶煙草の燃え滓を掻き出し始めた。
「あれ、最後まで吸い切らないのは素人だとか仰ってませんでしたっけ」
「今から出掛けるんじゃ、黙っとれ」
まだ熱いパイプに冷却の魔術を軽くかけて冷ます。普段はやらないが、悠長に冷えるのを待っている気分でもなかった。ガーダルは程良く熱が取れたパイプを分解し、綺麗に掃除をすると、棚の引き出しの一つに仕舞った。
「何処にお出掛けですか」
外套を羽織り、いつもの樫の杖を掴んだガーダルは「ふん」と鼻息を吐き出す。
「偵察じゃ」
ここで、ガーダルという老魔術師がごちゃごちゃと回りくどいことをするのが嫌いな質であるということを言っておかなくてはなるまい。ガーダルは他人の評価を気にしない。気の食わない輩のところには直接乗り込んで一言言ってやろうというのが基本的な彼のやり方である。偵察などという繊細で迂遠な作戦が向くはずもないのだ。この率直さがガーダルの最大の美点であり、どうしようもない欠点でもあると言える。
そんなわけで、ガーダルはベントル通り、カレドアの住居の前に背筋を伸ばして立っていた。真鍮のドア・ノッカーを掴み、コンコン、と軽く打ち付ける。
暫く待ってみても返事はない。
「おらんのか」
皺だらけの顔を更にくしゃくしゃにして、ガーダルは唸った。しかし、どうにも納得がいかないのである。ガーダルは右手に掴んでいた杖を左手に持ち替えると、不躾にも扉にぴったりと耳を当て、中の様子を探った。するとどうだろう、確かに家の中になにやら人の気配を感じる。居るのに出てこないとはどういうことか。憤りがこみ上げてくるのを自覚したガーダルは、続けて少々乱暴に扉を叩いた。声も掛ける。
「おうい」
そのとき突然扉が開き、ガーダルは危うく横っ面を引っ叩かれそうになった。家から出てきたのはベールで頭を覆った女だった。慌てて飛び退り文句を言おうとしたが、どうやら相手はガーダルに気付かなかったらしい。顔を俯け、急ぎ足で曲がり角の向こうへ消えてゆく。
「何か私の家に用事でも?」
両手で杖に縋り付くように立ち尽くすガーダルに、ふと背後から声が掛かった。振り向くと、家の中から男が顔を覗かせていた。不思議そうに首を傾げているその男の、その髪も瞳も夜の雫を垂らしこんだかのような闇色。扉を支える右手の人差し指には黒曜石の指環が嵌っている。三十というには少し若く見えるが、この男こそがカレドアに違いなかった。
「わしは……」
ガーダルが戸惑いながら口を開くと、カレドアは突然気が付いたかのようににっこりした。
「立て続けに客とは! これは幸先がいい。さあ、どうぞ入って」
目を白黒させているガーダルの腕を取り、カレドアは部屋へと招き入れた。
「おい、ちょっと、わしはな」
「ああ、お足元に気をつけて」
此方を向いてもいないのに、ちょうど床に無造作に置かれた鉱石の一塊に躓きそうになったガーダルにすぐさま忠告が飛んでくる。ガーダルはののしりながら床を雑然と埋める様々な道具を杖で小突いた。カレドアは気にした風もなく長椅子の上のがらくたを適当に脇へ寄せ、此方に向けて指し示すと、向かいの肘掛け椅子に腰を下ろす。ガーダルが座るのを待たず、カレドアは口を開いた。
「それで、ご依頼は?」
ガーダルは唖然としながら立ち尽くした。カレドアは微笑みながらガーダルが何か喋るのを待っている。驚きが時間を掛けてガーダルの中から去り、正常な思考が戻ってくると、再び怒りがふつふつと込み上げてきた。ガーダルは杖の音も荒く長椅子に歩み寄ると、勢いよく腰掛けた。
「わしは依頼人じゃない!」
カレドアは目を丸くした。脚を組み、失望したように頰を引っ掻く。
「なんだ、客じゃないのか……いや申し訳ない。早とちりだ」
首を振ると、カレドアはガーダルの顔をしげしげと見つめた。底無しの真っ暗な瞳にまともに覗き込まれ、ガーダルは僅かにたじろいだ。カレドアは面白そうに言った。
「それじゃあ魔術師が一体私に何の用かな——ガーダル」
「ほう、わしの名を知っておったのか」
「普通、近所の魔術師の名前くらいは調べるさ」
驚きの声を上げたガーダルから目を逸らして、カレドアは事もなげに呟いた。
「それにあなたは有名だ。トラヴィアのガーダルと言えば、治癒魔術の第一人者じゃないか」
「調べたなら挨拶くらい来んか、非常識なやつめ」
「特別他の魔術師と関わる気がないんだ。それに、あなたは治癒魔術の使い手だろう。私は治療は殆どやらないし、棲み分け出来る。第一魔術師ガーダルの名は十分すぎるほどに知れているし、私なんぞがあなたの仕事に影響を及ぼすことはないよ」
飄々と言ってのけるカレドアに、ガーダルはすっかり毒気を抜かれてしまった。パチパチと二、三度瞬きしてみせる。
「おまえ、変わった男じゃの。友人おらんじゃろ」
「余計なお世話だよ。それに、きみも相当普通じゃないと思うが」
「なんじゃ、そのきみってのは」
「きみだって、今私をおまえ呼ばわりしたじゃないか。これでも少しは遠慮している」
カレドアが肩を竦め、あまりにざっくばらんとした口振りでそう言い放つので、ガーダルはついに噴き出した。杖を脇へ置き、膝を叩いて大笑いする。なかなか笑いの発作が収まらないので、カレドアが心配げに声を掛けた。
「あまり笑うと入れ歯が外れるのでは?」
「全部自前じゃわい!」
ガーダルは笑みを消し、歯を剥き出すと、今度はカレドアをじっくりと観察しはじめた。
この男——カレドアは、今はガーダルに興味を失ったように右手の爪などを眺めている。その人差し指に嵌った指輪の黒曜石は、月のない夜をぎっしりと閉じ込めたようで、一片の光もちらつかない。切れ長の目もとから覗く同色の瞳はゆるやかに細められ、そこに魔術師同士が相対するとき特有の緊張感はまるきり見受けられなかった。白皙の顔はあまり日に当たるようではないが、特別不健康という風でもない。不調法に組まれたままの脚は長く、爪先が窮屈そうにテーブルのへりにぶつかっている。
ガーダルは鼻を鳴らした。
「引っ越し早々女を連れ込みおって」
「おい、人聞きの悪いことを言うのはやめてくれ。彼女は依頼人だよ。私がここに来て初めてのね」
そういえば先ほど言っていたような気もする、「立て続けに客とは幸先がいい」と。ガーダルは二人目の客にはなりえなかったわけだが。
再び開きかけたガーダルの口は、扉を叩く音によって阻まれた。カレドアが眉を上げ、億劫そうに立ち上がる。
「今度こそは客だろうな」
「客以外の心当たりがあるのか?」
「ないが、きみは客じゃあなかった」
軽口を叩きながらカレドアが扉を開けた。若い男が戸口に立っているのが、カレドアの肩越しにガーダルにも見えた。男が口をきいた。
「あんたがカレドアさんでいいのかい」
「どうも」
カレドアが手を差し出し、男がそれを握った。愛想笑いをし、挨拶をする。
「私がカレドアです。今日はご依頼の——」
ところが、その後が続けられることはなかった。突然倒れかかってきた男の身体を受け止めなくてはならなくなったからだ。
「な」
「なんじゃ、どうした」
カレドアはずっしりとのし掛かってくる重みに耐えかね、たたらを踏んだ。苦労して男を床に横たえる。
「誰だ」
「知らん。いったいなんなんだ」
息を乱しながら、カレドアが男の顔を検めた。ガーダルも横から覗き込む。
見知らぬ若者だ。体格は大柄で筋肉質、歳の頃は二十ほど。特別裕福そうでも貧しそうでもなく、ありふれたトラヴィア風のシャツとブレーに身を包んでいる。床の上に横たえられたまま、ぴくりとも動かない。
「死んでいるんじゃないだろうな」と顔を顰めるカレドアを押し退けて、ガーダルは男の呼吸と脈拍とを確認した。
「死んではおらん。今のところは」
ガーダルは呟き、懐から砂の入った包みを取り出した。ごく淡い紅をしたその砂は、珊瑚——東方より取り寄せた稀少な品——を細かく砕いたものである。それをひとつまみずつ取って、男の両手によく擦り込む。土気色だった男の手が白っぽくなる。続いて、ガーダルは衣嚢に手を突っ込み、それよりも大きな別の包みを探り出した。これにはいくつかの丸薬が入っている。花薄荷やマジョラム、丁香、マンネンロウなどの薬草を粉末状にしたものを、ブナを乾留して得られた液体で練り上げたものだ。ガーダルは丸薬を男の口の隙間から押し込みながら、黙って見ているカレドアを睨みつけた。
「おまえも手伝え」
「私に治癒魔術の心得はないぞ。あれは他の魔術とは完全に別体系じゃないか」
「何も全部をやれと言っとるわけじゃない。水の魔術の応用ならおまえにだって出来るじゃろ」
それともそんなことさえ出来んのか、と暗に挑発する。
呆れに近い表情を浮かべていたカレドアが、その一瞬むっとしたような顔をしたのをガーダルは見逃さなかった。見た目よりも存外負けず嫌いな質であるらしい。
カレドアはガーダルと同様に呼吸を確かめ、頸動脈のようすを見て、胸部と腹部とを手のひらで触った。それから、何やら納得したように立ち上がり、植物の汁の入った瓶と筆とを取ってくる。ガーダルは男の足の裏を確認しつつ、呟いた。
「おまえ、治癒魔術を学んでこなかったのか」
「必要がなかったからな」
「じゃあ、何を専門にやってきた」
カレドアが手を止め、古典的な分野をいくつか挙げた。
「なんじゃ、おまえ歳に似合わず古臭い魔術ばっかりやっとるんじゃな。焼灼魔術はまだしも、錬鉛術なんぞ今どき流行らんぞ。実用性にも乏しいし」
「放っておいてくれ」
溜息を吐いたカレドアの手は既に作業に戻っており、すらすらと男の胸に文様を描いている。心得がないと言う割には淀みない仕草で、ガーダルはこっそりカレドアの評価を上方修正した。この男、魔術師としての腕はよさそうだ。この種の応用が効くというのは、なかなかどうして非凡でない証拠である。
片眉を上げたガーダルが月桂樹の葉を折り畳む作業を始めたところで、カレドアが再び口を開いた。
「私に手の内を明かしていいのか? 言っておくが、一度得た知識は返却できないぞ」
ガーダルは鼻を鳴らした。
「ふん、そんなことにこだわるのは三流の証じゃな。魔術師は得てしてそういうものだがな、そうやってそれぞれが知識を独占しようとするから魔術の発展は亀の歩みなんじゃ。それに、病人や怪我人は少しでも減った方がいいじゃろ」
「ご立派だ。慈善事業でもやってるつもりなのか?」
「舐めた口をききおって! わしが研究の全てを明かしたところで、それをわし以上に使いこなせる魔術師がおるはずがないわ」
カレドアが今度こそ呆れたように首を振った。
「いやはや、噂通りの狷介不羈。開けっぴろげなようでいて他の魔術師どもより余程偏屈じゃないか」
「おい、そんなことよりそっちはもういいぞ」
ガーダルがカレドアの手元を指し示した。
「まだ完成していない」
「治癒魔術の肝心なところは『やりすぎない』ということだ。最低限の手助けをしてやって、あとは患者の持つ自然な力に任せる」
「そういうものなのか」
「そういうもんなんじゃ」
この頃には男の顔には随分と血色が戻り、穏やかな呼吸をしていた。ただ眠っているだけのようで、今すぐにでも目を覚ましそうだ。ガーダルは男を眺めながら腕組みをした。
「病らしくない」
「何故意識を消失した?」
そう呟き返したカレドアは勝手に男の懐やら衣嚢やらを漁っている。汚れた紙屑を引っ張りだし、眉間に皺を寄せる。
「扉を叩いたときには意識があった。何かが引き金になったはずなんだ」
「何故そう思う。それよりも前の段階で既に具合を悪くしていて、さっき丁度気を失ったかもしれんとは考えないのか」
「それはおかしいだろう」
カレドアがガーダルを振り返る。
「それほどに具合が悪いときにわざわざ外出する理由とはなんだ?きみだったらどこへ出かける」
少し考えて、ガーダルは口を開く。
「治療師のところか」
「そうだ、普通はそれを治してもらいに行く。この辺りで病と言えばガーダルだ。私はまだ越してきて日が浅い、行くならどう考えてもきみのところだろう。つまり、この男は治療目的でここに来たわけではない。第一、一瞬ではあったが挨拶の時点では体調が悪そうには見えなかったぞ」
ガーダルが唸った。
「じゃあこの若者は何故ここに」
「それは彼に直接聞こう」
カレドアが男を指差した。男は既に目を開き、ガーダルとカレドアとを見上げていた。
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