中篇

 意識を取り戻した男はすぐに家に帰りたがったが、万全を期して診療所でもあるガーダルの家まで連れていくことにした。勿論カレドアも一緒である。

「急に頭がフワッとして」と若者は不機嫌そうに言った。「目の前が真っ暗になったんだよ」

 横のカレドアは、マルスの淹れたリンドラの香茶を興味深そうに矯めつ眇めつしていた。淹れたてでは爽やかな青色が特徴的なこの香茶は、ガーダルが特別に買い求めているもので、この辺りでは手に入らない。今は色味が随分と落ち着いて、おだやかな菫色へと近づいている。自分も香茶を一口啜り、ガーダルは口を開いた。

「もう少し詳しく話せんのか。何かきっかけとか、思い当たることは」

 顔を顰めてみせると、男はガーダルの迫力に僅かにひるんだ様子を見せた。

「師匠、顔が怖いですよ。だから患者に逃げられるんだ。この間も……」

 マルスがぺらぺらと喋り出そうとするのをバシンと叩いて黙らせる。若者は少し考える風にしたが、すぐに諦めたようだった。

「そんなこと言われたって、ないよ、そんなもん」

「そもそも何故私のところに」

 ガーダルの横に座ってやはり脚を組み、ここまで黙っていたカレドアが口を挟んだ。

「何か依頼が?」

「いや」

 男があからさまに狼狽し、ガーダルの方を一瞬ちらりと見た。カレドアもそのことに気付いたのを、ガーダルは知った。

「大した依頼じゃあないんだ」男は口早に言った。「こんなところで話すことでもないし、後日出直すよ」

「何故今話せんのだ」

 ガーダルが顔をくしゃくしゃにした。カレドアが取りなすように言う。

「あなたが突然気を失ったことと関係があるかもしれない。教えてくれないか。またさっきみたいなことが起きたら困るでしょう」

 男は暫くガーダルの凶悪な形相とカレドアの微笑とを見比べていたが、やがて無言の圧力に屈した。

「探し物の依頼だ」

「ほう」

「妻の髪飾りを失くして……」

「髪飾り?」

 ガーダルが鸚鵡返しにし、カレドアが首を傾げた。

「婚姻の際に贈る髪飾りのことか」

「そうだ」

「それを何故失くす。大体、失くしたなら本人が来るのが筋じゃろうに」

 男は口篭り、顔を歪めた。

「失くしたというか……隠されて……」

「話が掴めんな。喧嘩か?」

「ははあ」カレドアが突然閃いたかのような声を上げた。「何となく分かってきたぞ。別の女に隠されたんだろう」

 気まずげな顔をして、若者はこっくりと頷いた。

「どういうことだ?」

「こんなところだろう。妻が留守中に別の女を家に上げた。恐らく関係は長い。今の妻とは離婚すると言い続けていたが、女は不信を募らせていった——」

「あの女、腹いせに女房の髪飾りを隠しやがった。本当に離婚するなら隠し場所を教えてあげるわよ、だと! 冗談じゃあない、早くしないと女房が気付いてしまう……」

 苛立ったようすの男に向けて、ガーダルが眦を烈しく吊り上げた。

「姦通は罪じゃぞ」

「だからわざわざ名前が知られていないこっちの人の方に出向いたんだ、噂が流れないように」

「おまえのような男には二度とうちの敷居を跨がせたくないわい」

「私のところには是非お越しいただきたいものですな」カレドアが馬鹿丁寧に言った。「何度でも歓迎だ」

「ちくしょう、話を聞いたならなんとかしてくれ」

 男が手のひらで机を叩いた。

「時間がない」

「言葉を返すようだが、おそらく髪飾りはもう見つからないだろう」

「なんだって?」

「とっくに何処かの水路の底に沈んでいるか、暖炉の中で灰になっている。あなたは愛想を尽かされたんだ。奥さんに全て素直に打ち明けることですな」











「有益な情報は得られませんでしたね」

 肩を落としながらとぼとぼと帰っていく男の後ろ姿を見送りながら、マルスが言った。男は結局最後まで茶に手をつけなかった。

「いいさ」

 マルスが注ぎ足した二杯目の香茶に檸檬を絞り入れながら、カレドアが応じた。香茶の澄んだ青色がぱっと変化し、うつくしいうす紅色の反射光を散らす。

「依頼内容と関係がなかったということがわかっただけで一つの収穫だよ」

 ところでこの香茶はどこで買えるんだ? とカレドアは首を傾げた。

「そうは言っても、まったく話は進んどらんじゃないか」

 ガーダルが腕組みをした。

「そもそも解決する必要があるのか?」

「なに?」

「特別気にする必要はないんじゃあないか、ということだ。別に人死にが出たわけでもないし、さっきの男がたまたまそういう気質だったというだけかもしれない」

「『そういう気質』?」

「病でなく他に何も悪いところがないのに、突然意識を失ったり痙攣を起こしたりする人間が、世の中には稀ながら存在するだろう。彼がたまたまそういう人種の一人だったとも考えられる」

 そう言って、カレドアは香茶を口に運ぶ。自分の分のカップを仇でも見るかのように睨みつけ、ムムム、とガーダルが唸った。

「つまり、単に考えるのが面倒になったんじゃな」

「否定はできない」

 カレドアが欠伸を噛み殺した。

「たった一件だ。こういう事態が連続するならなにか原因を追究しなくてはならないが、今の段階でわれわれが手を打つ必要はないだろう」

 それもそうだな、とガーダルは頷いた。カレドアが香茶を一息に飲み干して立ち上がる。

「お代わりはもういいんですか?」

「どうも、もう帰るよ」

 手を差し出したマルスに空のカップを渡し、カレドアは外套を広げた。

「師匠は?」

「わしももういい。おまえは自分の仕事に戻れ」

「はあい」

 ガーダルが手をひらひらと動かすと、マルスはカレドアの分のカップだけ持って踵を返した。その小柄な後ろ姿を眺め、ガーダルはもう一度ぼそりと口を開いた。

「おまえ、茶を淹れるのがなかなか上手くなったぞ」

 マルスがぱっと振り向く。年の割にあどけない顔が綻び、礼を言おうと息を吸い込んだ。

 そして、次の瞬間彼は横ざまに倒れた。

「マルス!」

 ガーダルが叫び、外套に袖を通しかけていたカレドアが振り向いた。ガーダルは立て掛けていた杖を蹴倒しながら立ち上がり、マルスの前へとまろび出た。ケイデン織りの厚い絨毯が衝撃を吸収したのか、カップは割れず、力ないマルスの手の横に転がっていた。

「おい、マルス!」

「落ち着け」

 ガーダルの横に膝をついて脈を取りながら、カレドアがいっそ冷淡に言った。

「さっきと同じだ」

「落ち着いとるわい」顔を歪め、ガーダルが唸る。

「ラト! おうい、ラト!」

 ドタドタと音がして、長衣の裾をからげた少女が階上から駆け下りてきた。まだ十二かそこらといった年齢であろう彼女は、倒れているマルスを見て立ち竦んだ。

「サリマトか。ラトを呼んでこい」

「ラ、ラトは、その、ラトもケイスもヤツリナも市場に行っちゃって、今はあたししかいません」

 サリマトと呼ばれた少女はつっかえながら言った。

「じゃあおまえだ。いいか、今から急いでクマツヅラと香水薄荷と、スズランの根とを煮るんだ。一番大きな鍋じゃなくていい、とびきり濃くだぞ。ぐつぐつ音がするまでロッズの書の五十六頁を唱え続けるのを忘れるな。そうしたら……」

「でも、師匠、あたしまだそんなのやったことないよ」

「たわけ」ガーダルが歯を剥き出した。「おまえしかおらんのじゃろ、やるんだ! 煮出す間に珊瑚の粉を持ってこい。作業室の左奥の棚の、五列目右から七番目の棚に入っておる」

 殆どべそをかいているサリマトを見やり、カレドアが提案した。

「クマツヅラの方は私の家にさっきの残りがある。足りるかは分からんが、今から取ってこようか」

「あたし、やります」

 サリマトが大声で言い、作業室のほうへ駆け出していった。カレドアは肩を竦める。

「大丈夫なのか」

「サリマトはやればできる」

 さっきの丸薬を取り出しながら、ガーダルは呟いた。

「だが、少し慎重すぎる。臆病なところは克服させんとな」










 結果として、サリマトは見事にやってのけた。ガーダルとカレドアはさっきと同じ作業を繰り返し、マルスは間も無く意識を取り戻したのだった。大きく瞬きをしたマルスは、きょとんとした顔で自分を囲む三人を見比べた。

「あれ、みなさんどうしたんですか?」

「どうしたもこうしたもないわ!」

 ガーダルの雷が理不尽にマルスを直撃した。

「きみは突然気を失って倒れたんだ。さっきの男とおんなじに」カレドアが冷静に説明した。「さて、そのときのことを聞かせてもらおう」

「ああ、急に気が遠くなったんです」

 手のひらで後頭部を撫でながら、マルスが言った。

「師匠の方を振り向いて、返事をしようとして——あれ、なんの返事をしようとしたんだったかな。師匠、さっきなんて仰いましたっけ?」

「そんなことはどうでもいい! それ以外のことを思い出せ、もっとましなことを!」

「あ、そういえば」

 突然マルスの瞳に閃きの光が瞬いた。

「なんだか変な感じがしたなあ。カップを受け取ったときに」

「カップを受け取ったとき……私からか?」

 カレドアが聞き返した。

「そうです。一瞬、妙な感覚があったんです。力がすっと抜けるような。ほんの短い間で、気づかないくらいの感覚だったんですけど」

 ガーダルとカレドアは顔を見合わせた。カレドアの黒曜石の目が、考え深げに細まっていた。










 マルスを暫く見守るようサリマトに言いつけたガーダルは、今再びカレドアの家の前に立っていた。横のカレドアは黙り込んで、自分の家の扉を睨みつけている。不意に、カレドアがドア・ノッカーを親指と人差し指で摘み上げるようにした。左手で外套の衣嚢を探ったが、すぐに目的のものは見つからないと悟ったらしい。

「おい、きみ、要らない布はあるかい」

「あるか、そんなもん」

 返事を聞くと、カレドアは一瞬躊躇ってから、直接左の人差し指の腹でドア・ノッカーの裏を強くなぞった。そうして、その人差し指を熱心に観察しはじめた。

「どうした」

 カレドアは答えず、扉を開けて中に入った。置いてけぼりを食らいそうになり、ガーダルは慌てて後に続く。

「なんじゃ、説明しろ」

 無言を貫いたまま、カレドアは作業台へ向かい、空の小皿に人差し指に付着したなにものかを払い落とした。それは、銀色の粉のようなものだった。ガーダルは皿を覗き込み、改めて尋ねた。

「なんだこれは」

「分からん。乾燥した植物の粉末のようでもあるし、鉱物の粉のようでもあるな」

 そう言いながら、カレドアはガーダルの方に皿を押しやった。ガーダルは、皿の外に鼻がくっつきそうなほどに顔を近づけて、更に観察した。小麦を念入りに挽いたかのような、非常に微細な粒だった。窓からの日差しを受けて、微かに光を反射している。

「奇妙な粉だ。そうは思わないか」

「まじないに関わる何かか?」

「これが原因だとするなら——」

 カレドアは呟いた。

「私は今朝外出したときこのドア・ノッカーに触ったが、なんともない。私が触ったあとから、男が触るまでの間にこれに触れる機会があったのは……依頼人の女ときみだけか」

「おいおい、わしじゃあないぞ」ガーダルは憤慨した。

「第一、今のところ一番怪しいのはおまえじゃろ」

 カレドアは目を逸らした。

「きみのことは疑っていない。きみが信じるかどうかはきみ次第だが、勿論私も犯人じゃあない。動機がないからな。とすると、依頼人か」

「心当たりは? 何か恨みでも買ったか」

「私はここに越してきてまだ十日だぞ。そう簡単に恨まれては堪ったものじゃあないな」

 溜息を吐き、カレドアが肘掛け椅子へと移動した。どっかりと腰を下ろし、片肘をつく。

「しかし、こんな分かりやすいことをするかな」

「というと?」

「こんな風に仕掛けていけば、誰がやったかなんてすぐ絞り込めるじゃないか。気付いた私がこれを持って神殿にでも訴え出ればそれで終わりだ。そんな頭の悪いことをする人間がいるとは思えないんだが」

 それもそうだ。それに、動機が見つからない、というのも引っかかる。トントンと床を叩き始めたカレドアの爪先を眺めながら、ガーダルは尋ねた。

「その女、どんな依頼だったんじゃ」

「守秘義務だよ」

「おまえな」

 悪びれずに答えるカレドアに、ガーダルが眉間に深い皺を刻んだ。

「怪我人が増えたら大変なのはわしなんじゃぞ。いいか、おまえが何か事件に巻き込まれるかどうかして、満身創痍で泣きながらやってきてもわしは無視するからな。無視じゃ無視」

「面倒臭い人だな」

 カレドアが溜息を吐いた。

「特別妙なところはなかった。西から船で渡って来たばかりの女だ」

「西というと」

「キリカ」

「道理で、ベールを被っておったわ」

 ガーダルは記憶の中の女の顔を呼び出そうとしたが、その顔はベールの影になってよく見てとることができなかった。なにしろ、ガーダルが女を見たのは扉でひっ叩かれそうになった一瞬だけだ。しかし、言われてみれば露出していた手の甲なんかが褐色をしていたような気もする。そこで、ガーダルは素朴な疑問をぶつけた。

「おまえ、キリカ語なんぞ喋れるのか」

 必要に迫られてキリカ語の文献に幾つか当たったことがあるので、ガーダルも一応扱うことができるが、この国でキリカ語を喋るものはそういないだろう。

「用事があって、昔一度訪れたことがある」

 カレドアが肩を竦めた。

「流石に自由自在にというわけにはいかないが、まあ、筆談を交えれば意思の疎通くらいは」

「ふうん」

 カレドアは皿の中に特殊な揮発油を入れ、魔術の火をつけた。青に変色した炎がぱっと立ち上り、皿の中身を綺麗に焼き尽くす。

 それから暫くの間、カレドアは難しい顔をしていたが、突然予告なしに立ち上がった。そのまま扉へと歩いていく。カレドアの外套の裾にひどい皺が寄っているのを見ながら、ガーダルは慌てて声を掛けた。

「おい、どこへ行く」

「依頼人に会いに行く」

「わしも行くぞ」

「勘弁してくれ」

 振り向いたカレドアが顔を顰めた。

「依頼を受けたのは私だぞ。別の魔術師なんぞ同席させて、初っ端から私への信用を損なわせる気か。この手の仕事は信頼が大事だ」

「わしの弟子だって被害に遭っとるんじゃぞ。このまま有耶無耶になっては困る」

「何か分かったら報告する。私だって早く解決して、仕事を軌道に乗せたいんだ……それに」

 カレドアがぼそりと呟いた。

「さっきの粉には、個人的にどうも既視感がある」

 ガーダルは黙り込んだが、不意にはっとし、出て行こうとするカレドアをもう一度呼び止めた。

「おい」

「なんだい」

 カレドアが再び振り向いた。今度の声には微かな苛立ちの色が混ざっていた。

「わしをおまえの家に残しておいてどうする」

 ガーダルの言葉を受けて、カレドアはゆっくりと瞬きをした。

「それもそうだな」

 カレドアはそれからまた少し考えたあと、ガーダルの瞳を見た。ガーダルもカレドアの瞳を見た。カレドアの謎めいた黒の瞳には、やはり一片の輝きも、温かみも感じられなかった。沈黙のあと、カレドアは頷き、平然と言った。

「出て行ってくれ」

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