後篇

 それから暫くの間、ガーダルの元にはぽつりぽつりと患者が運び込まれた。

 患者たちは男やマルスと同じ症状で、突然気を失ったといって連れてこられる。そしてガーダルが治療を施すと、あっという間に元気になって帰っていくのだった。

「それで、カレドアさんからは音沙汰ないんですか?」

 洋梨を砂糖で煮たものを突きながら、マルスが尋ねた。これは表に並ぶ露店の一つで売っているもので、なかなかいい値段がする。マルスの好物なのだ。そんなマルスはといえば今はすっかり回復していて、倒れたことなど夢だったかのようだ。密かに心配していた後遺症も見受けられず、まるきり健康らしかった。ガーダルは溜息をついて、背凭れに寄りかかった。ここのところ、ガーダルの方が気分が優れない。

「師匠が元気ないと調子狂うなあ」

「黙っとれ」

 なんだか、どうも力が出ないのだ。いつもは杖なんか要らないのではないかというような力強い足音も、近頃はどこか弱々しい。ガーダルは咳払いをして、リンドラの香茶を淹れるよう指示しようとした。そのとき、トントン、と扉を叩く軽い音がした。

「はあい」と返事をして、マルスが飛んでいく。

 それから暫くして彼と共に姿を表したのは、他でもないカレドアであった。

「ガーダル、分かったぞ」

 何故か左手だけにきっちりと黒の革手袋を嵌め、明らかによそ行き用のにこやかな顔をしている。ガーダルは反射的に顔を顰めた。マルスがカレドアをじろじろと見て、尋ねた。カレドアの手に指を伸ばす。

「あれ、どうして此方だけ手袋なんか」

 過剰なほどの素早さで、カレドアが身体を退けた。マルスがぎょっとして手を引っ込める。

「触らないでくれ。理由があるんだ」

 カレドアは外套も脱がずに、いそいそとガーダルの向かいに腰掛けた。ふとガーダルの顔を見て、口を開く。

「ふむ、顔色が悪いな」

「ああ……最近どうも調子が出なくてな」

「やはり」

 知ったようなカレドアの口振りが引っかかり、ガーダルはますます顔を歪めた。

「おい、やはりというのは——」

「マルス……だったかい、灯りを消してくれないか」

「灯りを?」

「窓を閉め切って、暗くしてくれ。この家は明るすぎる」

 マルスが首を傾げながら言う通りにすると、カレドアは持参した蝋燭に火を灯した。蝋の中にいくつかの香草を練りこんであるらしく、マンネンロウの香りが漂う。

「見せるために、一匹

「生かしておいた?」

「これは暗いところを好むのでね」

 そう言うと、カレドアは手袋を外した左手を、躊躇いなく炎の上に翳した。ガーダルはぎょっとしてカレドアを見た。炙られた肌がすぐに赤くなるが、この男は眉ひとつ動かさない。

 すぐに、変化が現れた。

 まず、カレドアの手のひらに、じわじわと銀色の粉が噴き出した。ドア・ノッカーに付いていた、あの粉だ。

 ガーダルがあっと声を上げ、カレドアの頬を伝った汗が彼自身の袖に滴り落ちた。

 続いて、粉が現れた部分に、ぼんやりとした黒っぽいものが浮かび上がった。それは、痣というよりもむしろうっすらとした影に近い。影は凝集して、小さな蜥蜴に似た形になった。蜥蜴は機敏な動きでカレドアの肌を這い回り、手の甲側へと移動した。

「うわ、気色が悪い!」

 ガーダルが仰け反った。

「影蜥蜴だ 」

 手を火の上から外しながら、カレドアがしずかに言った。

「文献を見つけるのに時間がかかった。なにしろ、キリカでも非常に珍しい生きものらしいのでね」

「やはり、依頼人絡みだったか」

 カレドアが頷いた。

「彼女が肌にくっつけて、キリカからこのトラヴィアに連れてきてしまった。あのあとよく調べたら、肘掛けにも、彼女が使った鵞ペンにも例の粉が付いていたよ」

「それで、なんなんだ、影蜥蜴とか言いおったか、その不気味なもんは」

「言うなれば、寄生虫だ。影蜥蜴は繁殖期になると人の肌の上に寄生して、魔力を吸い取る」

「繁殖?」

「尻尾を切り落とすんだ、人の肌が触れ合った瞬間にね」

 思わず口を挟んだマルスに向けて、カレドアがほほえんだ。

「影蜥蜴の本体の方はあっという間に新しい尻尾が生えてくるし、こいつは尻尾の方も再生する」

「どういうことだ」

「なに、尻尾以外の部分が生えてくるのさ、ニョキニョキとね。もともと魔力の使い方が訓練されていて、心臓石を通して増幅できる魔術師であればまだいいが、普通の人間の場合は直接生命力を吸われるようなものだから、ひとたまりもない。死にはしないが」

 マルスが気味が悪そうな顔をして、ガーダルの方を見た。

「まず女が私と握手をした。そのときに影蜥蜴は尻尾を切り、私に寄生した。同様に握手を通じて男にも寄生しただろう。マルスには、カップを手渡したときに。詳しくは覚えていないが、おそらく僅かに指が触れたんだろうな」

 ガーダルは自分の両手を広げ、恐ろしげに尋ねた。

「わしの肌にもおるのか」

「恐らくは。初めに男の治療をしたときだ」

 カレドアは興味なさげに言った。

「影蜥蜴は魔力が乏しくなれば宿主を乗り換える。男の力はあっという間に尽きてしまったから、これ幸いときみに移動したに違いない。マルスの影蜥蜴に関しても同様だろう。さっき右肘にいた一匹を退治したから、こっちは私に戻ってきたのかもしれないな。とにかく、私やきみのような人間には長く留まるはずだ」

「それで、わしがこうして体調を崩すまでには時間がかかったということか」

 カレドアが頷いた。

「マルス、きみはまだ見習いのようだからな。心臓石も持っていないし」

「しかし、おかしいぞ」

 ふとガーダルは浮かび上がった疑念を口にした。

「依頼人の女とやらは魔術師だったのか?」

「いいや」カレドアが面白そうに言った。

「彼女は普通の人間だったよ。商人の妻だ」

「それでは、女が平然と帰っていったことの説明がつかん」

「これはあくまで想像なんだが」とカレドアは肩を竦めた。

「キリカ出身の女にはなんらかの耐性のようなものがあったんだろうな。もしかしたら、向こうの人々とわれわれとでは魔力の質が違うのかもしれない。面白いことじゃないか。是非詳しく調べてみて、アンヴェルトン会ででも発表しろ」

 面白いと言いつつ、自分で発表する気はないらしい。

 軽口を叩いている間にもカレドアの手の上を無遠慮に這っている影蜥蜴を指差し、ガーダルは渋い顔をした。

「そんなことより、それはどうしたらいい?対応策はないのか」

「簡単だ」

 カレドアは左手を動かさずに右手を衣嚢に突っ込み、無造作に香草の束を取り出した。途端に、影蜥蜴の動きが鈍くなり、やがてほとんど動かなくなった。カレドアが更に束を近づけてやると、蜥蜴は輪郭の方から枯れ草色へと変わっていき、終いにはぱらぱらと粉になって肌から剥がれ落ちてしまった。

「ラワンデルの香りで死ぬ」

 パンパンと景気のよい音を立てて、カレドアはかつて蜥蜴だった粉を払った。黄土色にも金色にも見えるその粉が絨毯に落ちるのを見て、マルスが仰け反った。

「そんな不気味なものが、西にはおるのか……」

「ところが、不思議なことにキリカでは幸福の象徴だそうだよ」

 ラワンデルの束でテーブルを軽く払いながら、カレドアが笑った。

「影蜥蜴を肌に飼うと、病気をすることなく、生涯健康でいられるそうだ。本物ではないが、それを模した銀の粉末を、儀礼的に生まれたての赤子の額に塗りつけたりもするらしい」

「ほう……」

「とはいえ、トラヴィアでは迷惑千万だからな。彼女はすぐにラワンデルを入れた湯に浸からせた。ガーダル、今日は患者は来たかい?」

「ああ、今朝また一人」

「もう少し大規模な対処が必要だな」

 カレドアが面倒臭そうに呟き、ガーダルが頷いた。











 トラヴィア中にラワンデルの甘く清々しい芳香が溢れるまで、そう時間は掛からなかった。軒先にはずらりと淡い紫の茂みが並び、トラヴィア特有の赤茶の屋根、象牙色の石壁と相まって目にうつくしい。通りで楽しげにはしゃぐ子供たちは、みな乾燥させたラワンデルの花を詰めた袋を首からさげている。袋には、母親によって思い思いの縫い取りが施されているようで、微笑ましい。

 一月掛からずにここまで至ったのは、偏にガーダルの奮闘によるものである。

「流石の人望だな」

 外を眺めていたカレドアがそう言って、徐に窓から離れた。セージの香茶を啜るガーダルの向かいに腰を下ろす。ここはカレドアの家である。

「影蜥蜴対策とはいえ、なかなか評判がよくてな」

 ガーダルは機嫌よく笑った。

「トラヴィアの春の、新しい風物詩になるかもしれんぞ」

「それはいい」と本心ではなさそうな口調でカレドアが言った。続けて、あまり楽しくなさそうな声で呟いた。「楽しそうだ」

「しかし、おまえはラワンデルを飾らんのか」

 今度はガーダルがカップを置いて立ち上がり、窓から顔を突き出した。カレドアの家には相変わらず花の類は一切飾られておらず、味気ない。今は周りにラワンデルが溢れているから、余計沈み込んだように陰気臭く見える。カレドアが首を振った。


「これだけ街中に溢れていればいいだろう。それに、実を言うとあまり得意な匂いじゃあない」

「そう言わず、これを持っとけ」

 ガーダルは懐に手を突っ込み、探りだした小袋をカレドアに向けて放った。両手で受け止めたカレドアが、それを一目見て顔を顰める。さっき子供たちが首からぶらさげていたのと同じもので、中には乾燥したラワンデルがぎっしりと詰まっていた。

「わしのところでがきどもに配っているやつ」

 ガーダルはにんまりと笑った。

「おまえはどうもよくないものを寄せやすいように見えるからな」

 カレドアの眉が更に寄り、呆れた視線がガーダルの方へ向けられた。

「男から贈り物を受け取る趣味はないんだが」

「黙っとれ! わしが面倒ごとにかかわりたくないだけだからな」

「捨てるか、そうでなくともすぐどこかへやってしまうぞ」

 越してきて二月も経たないというのに、既に雑然としている部屋を見回しながら、カレドアが呟く。

「勝手にしろ、わしは渡したからな」

 ガーダルは鼻を鳴らし、再び窓の外に顔を向けた。

 街にはラワンデルのいい香りと、子供たちの笑顔が溢れている。心地よく吹き抜ける爽やかな風が、ガーダルの髭を微かに揺らす。

 目を細めた老魔術師は、部屋の中の男に気付かれないようにほんの少しほほえんで、大きく息を吸い込んだ。



倒れる男〈完〉

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