第26話

 本殿奥、といえば二つの廊下が合流するささやかな空間で、天井には月や星々の光が清らに差し込む八角形の天窓があり、南側の壁にはレドニスたち一般の魔術師たちの進入が固く禁じられた地下へと続く階段、そして〈扉〉がある。聖職者や魔術師たちの居住区域とは離れているので、深夜にこんなところを訪れるものはそういないだろうと思われた。だからこそここを指定したのだろうが、とレドニスは推測する。真夜中に呼び出す以上、どう考えても公衆の面前でやる気はないのだ。寧ろその逆で、白昼堂々と行うには都合の悪いことがあるのだろう。具体的には思いつかないが、何かしら仕掛けてくるだろうという気はした。

靴音を響かせて、レドニスは西側の廊下から本殿奥にあたる小広間へと歩み出た。ハウロはまだ来ていないようだ。右手を見遣ると、地下へと通じる階段の奥で、ぼんやりと燐光を発する〈扉〉の結界が暗闇の中に浮かび上がっていた。ふとレドニスの意識の中で、小さな疑問の泡がぽつりと湧き出した。〈扉〉は、この本殿奥の南側、即ち本殿の中心に向かって位置している。本殿の前方には大広間が位置しているが、それは到底本殿の中心部までを埋めるような規模ではなく、他に中心を向くように作られた特別に大きな部屋はない。書庫も厨房も保管庫も、外向きだ。廊下の内側には窓はない。よく考えてみれば、この本殿の中央にはぽっかりと空白が広がっているように思えた。謎めいているのは、何も地下ばかりではない。一体この神殿の中心には何があるのだろう。或いは、何もないのだろうか。

そのとき、背後から石床を踏む硬質な音が聞こえた。振り向くと、ハウロが立っていた。一人きりで、微笑みながら立っている。

「逃げなかったのか」

「証人はどうした」

 レドニスは、眉を顰めた。決闘は通常三名で行われる。その内訳は挑戦者、受諾者、証人で、証人は決闘を申し込む挑戦者の側が用意するのが普通だ。しかし、ハウロは証人らしき人間を誰一人連れていない。

「証人ね。そうだな。必要ない」

「証人のない決闘に何の意味がある。ふざけているのか?」

「そうかっかするなよ。もう少し会話を楽しもうじゃないか」

 ハウロの真意が掴めず、レドニスは困惑を深めた。

「私に決闘状を叩きつけたのはそっちだろう」

 レドニスの言葉が聞こえなかったかのように、ハウロは始めた。

「俺が、どうしていつもお前に突っかかると思う?」

「お前に比べて私の能力が優れているからだろう? 同年代で、遅く魔術を学び始めた私の方がよい成績を残しているから」

 あからさまに挑発してみせたが、意外なことにハウロはそれを一笑に付した。ハウロはいっそにこやかに言った。

「そう。それも確かにあるが、本質はそこじゃあないんだ。俺はな、本当はサルバローザに学びたかった」

「師匠に?」

「そうだ。サルバローザはここトラヴィアで最も権威のある魔術師の一人だ――俺はここに来たときからずっと、サルバローザに憧れていたんだ。かつて俺は、サルバローザの前で俺がどんなに優秀かを見せ、弟子にしてくれるように頼んだ。だが、サルバローザは了承しなかった。自分は弟子はとらないと」

「待ってくれ。それなら、どうして私なんだ。ライネルこそサルバローザの初めての弟子になった男じゃないか。嫉妬を向けるなら、ライネルの方じゃないのか? お前は確かにライネルのことも面白くは思っていないようだが、私に対する態度は異様だ」

 レドニスが率直な疑問を口に出すと、ハウロは笑みを崩し、苦々しげに顔を歪めた。とはいえそれはほんの一瞬の出来事で、返事をする頃にはハウロの表情は元通りだった。

「ライネル! あんな奴はどうでもいい。あいつは凡人だ。うんざりするほどにサルバローザに頼み込んで、漸く弟子にしてもらったんだから。別に、能力を認められて弟子になったわけじゃない。例え俺が同じことをしたなら、最終的にはサルバローザは俺のことも弟子にしただろう。それじゃあ駄目なんだ。だが、お前はどうだ。お前は二十歳になってからここにのこのことやってきて、何もしないうちから、サルバローザに選ばれた。バルンの元で足踏みしている俺を尻目に、お前は理想的な環境でぐんぐん力を伸ばしていく。俺はお前が憎かった。許せないと思った」

 穏やかな微笑みを絶やすことなく、本心であろう恨み言を淡々と吐き出していくハウロは不気味だった。レドニスは、自分が気圧されはじめているのを感じた。

「俺はお前に子供じみた嫌がらせを繰り返して、それで少しでも溜飲を下げようとしたが、それではとても気が済まなかった。お前のことが更に憎くなっただけだった。次に俺はお前を陥れようと思った。ここにいられなくなるように、だが、それも上手くはいかなかった。お前は賢い、俺よりも賢い。回りくどいやり方じゃ駄目だ。俺はお前に消えてほしいんだ。ここから。どこからも。そう考えてみれば、なんだ、単純なことじゃないか。お前は賢いが、傲慢で、公明正大で、そして存外簡単な男だ。やるなら、いっそ子供騙しみたいな稚拙な方法がいい。思った通りだ。お前はやっぱり、一人でここに来たんだな」

 突然後頭部に強い衝撃を受けた。脳が揺さぶられるような感覚に意識を飛ばしかけ、レドニスはよろめいた。続けて頭に振り下ろされた棍棒の一撃を何とか躱そうとして、肩をひどく打たれる。思わず呻き声を上げた。いつの間にか、三人の男たちに囲まれていた。気配は全く感じなかった。

「消音の魔術など、基礎の基礎だろうに。そこまで舐めきっていたんだな、俺のことを」

 ハウロ自身は手を下さず、ただそこに佇んでいた。レドニスは愕然とした。ハウロの瞳は静かに凪いで、どうしようもなく歪んでいた。顔には微かな困惑の色さえあった。かつて肩をぶつけてきた幼稚な癇癪持ちの男の面影はそこにはなかった。どこかで何かを積み間違えて、全く望まない不気味なものが出来上がってしまったような気持ち悪さがあった。この男はいつからこんな顔をしていたのだろう。レドニスの知らないうちに、ハウロが募らせる憎悪は、闇は、一人歩きをしてここまで育ってしまったのだ。今度は背中を殴りつけられて、床に倒れこんだ。強く側胸を打ち、息が止まる。ひんやりとした石の感触を頰に感じた。

「頼むよ、レドニス、死んでくれ。死んでほしいんだ。できる限り苦しんで死んでくれ」

 ぞくりとしたレドニスは、大声を上げて助けを呼ぼうとしたが、殆ど同時にそれが無意味であることに気付いた。既にここ一帯に消音の結界が張ってある。それに、ついさっき自分で考えたばかりではないか。こんな時間、こんなところに人は来ない。レドニスはろくに抵抗も出来ず、床に転がり殴打されるばかりだった。最初に殴られた頭がぐらぐらとして、まともに思考することができない。魔術を使ってしまおうか。駄目だ、魔術で人に危害を加えることは許されない。まして、俺は心臓石を持っているんだ、今助かっても後で命を落とすことになりかねない。しかし、ここで殺されてしまっては元も子もないではないか。あとのことはあとで何とかするしかない――レドニスは歯を食いしばって覚悟を決め、呪文の一節を喉から搾り出そうとした。

 そのとき、棒を振りかぶった男の一人が横から突き飛ばされるように倒れた。レドニスは動揺して動きが止まった別の一人の足を反射的に払い、転ばせる。顔を上げると、ライネルが最後の一人の胸倉を掴みあげているところだった。そのまま、起き上がろうとした男の頭を左足で蹴りつけ、昏倒させる。

「やっぱり一方的に殴られてるじゃないかよ」

「油断したんだ」

 レドニスは喘ぎながら答えた。掴み上げた男を手際よく失神させながら、ライネルが鼻を鳴らした。

「で、誰が馬鹿だって?」

「悪かった」

 息も絶え絶えに謝罪し、レドニスはふらふらと立ち上がる。辺りを見回してみて、ライネルに喧嘩の心得があったことに心底感謝した。三人の男は既に全員が意識を手放していた。ライネルは、少し離れた位置で立ち尽くしたままのハウロを鋭く睨めつけていた。

「お前も終わりだな。俺はお前がレドニスを殺そうとしたことを報告するぞ。そうしたらお前はここにいられなくなる」

 ライネルの言葉が聞こえなかったかのように黙りこくっているハウロに向けて、レドニスは呟いた。

「自尊心が傷付いたとしても、お前は弟子にしてくれと頼み込むべきだったんだ。そんなにサルバローザを慕うなら」

「俺はもうサルバローザには拘ってない。今はただ、お前が憎いだけだ」

 レドニスの呟きを受けて、ハウロは笑った。どうでもいい、と言った。そして、初めてライネルの方に視線を遣った。

「ライネル、お前のような劣った人間が師事することを許すくらいだ。サルバローザという魔術師も愚かだよ」

 それを耳にした瞬間、ライネルが微かに全身を強張らせた。隣に立って、身体を支えられているレドニスには友人のその変化が分かった。レドニスは嫌な感じのする、紫色の風が腹の底を吹き抜けたのを感じた。ライネルが口を開いた。

「今、なんて言った?」

「おい、ライネル」

「俺の師匠に関して、お前はなんて言った?」

 片腕では変わらずレドニスを支えながら、ライネルの双眸は激情に煮えていた。ハウロが口を笑みの形に大きく歪めた。

「愚かな、取るに足らない男だと言ったんだ。過大評価されて勘違いしているだけの、馬鹿な男だ」

 その瞬間、ライネルの日長石があかあかと輝いたのを見た。レドニスはおそろしさに腑が裏返りそうになった。

「ライネル、やめろ!」

 レドニスが悲鳴に似た叫びを上げ終わらないうちに、心臓石によって増幅された鋭利な魔術の閃光が放たれ、ハウロの右手を千切り取っていた。ハウロが絶叫し、床に転がってのたうち回った。レドニスは呆然としているライネルを痛みも忘れて突き飛ばし、ハウロの手首に血止めの魔術を重ねて掛けた。迸る血液が瞬く間に堰き止められる。レドニスは真っ青になっているであろう唇を噛み締めた。血は止められても、切り離されたものは元には戻らない。

顔面蒼白のハウロは笑っていた。脂汗を流し、千切り落とされた手首を握りしめながら、小さな声で笑っていた。

「魔術を使ったな」

 レドニスは浅く速い息をしながら、笑うハウロを見、硬直しているライネルを見た。血の気のないライネルの顔がのろのろとレドニスの方を向く。その瞳は深い混乱と恐怖に彩られていた。

「レドニス――いや、ライネル。ライネルだ。お前の心臓石を寄越すんだ」

 ハウロが言った。

「お前は従わなくてはならない。分かるだろ」

 レドニスは何か言おうと思ったが、何も言葉にならなかった。ライネルを救うための手立てが思いつかない。殴られた頭がずきずきと痛んだ。固まっていたライネルが、軋むようなぎこちない手つきで首飾りを外した。

「ラ――ライネル――」

 渡してはいけない、と感じた。しかし、止めてしまえばハウロはライネルを追放し、果てには死に追いやるために全力を尽くすだろう。止めても最悪、止めなくても最悪だ。レドニスは何もできないまま、日長石がライネルの手から血に汚れたハウロの左手へと渡るのを見つめていた。ハウロは溜息を吐き、にっこりした。血を止めただけの右手首には未だ激痛があるはずだが、それを感じさせない微笑だった。レドニスは全身に鳥肌を立てた。ハウロが手の中で転がすたび、ライネルの心臓石が赤黒い血液に塗れていく。

「常識だよな」

 ハウロが不意に笑みを消し、ぽつりと呟いた。

「貴石が魔術による方向付けを受けないっていうのは」

 二人がその意味を理解する前に、ハウロはくるりと体の向きを変えると、首飾りを持った左手を大きく振りかぶり煌々と輝く〈扉〉に向かって投げつけた。首飾りは階段を跳ね落ちて〈扉〉をするりと透過し、その向こうに消えた。コーン、コーン、と下へ下へ落ちていく反響音。レドニスは全ての血液が心臓に向かって逆流するような感覚を覚え、反射的にハウロに飛びかかった。血に汚れるのも構わず胸倉を掴み上げる。座り込んだままのハウロの身体が持ち上がった。

「何てことを!」

 レドニスは笑っているハウロを突き飛ばし、頭を掻き毟りながら忙しなく歩き回った。こみ上げてくる焦燥感にじっとしていられない。

「どうしたらいいんだ、どうしたら」

 ライネルがレドニスの上着を掴み、掠れ声で言った。

「いい、レドニス」

「いい訳がないだろう! 地下で――地下でお前の首飾りが見つかったら――」

「そのまま、ハウロが投げ入れたと説明する。ハウロの手首を落としたと知れれば俺は罰を受けてここにはいられなくなるが、必ず命まで落とすというわけじゃない」

 それを聞いてハウロが愉快気に口を開いた。滴り落ちた脂汗が、床に小さな水溜りを作っていた。

「ああ、レドニスがそう庇い立てすれば、お偉いさんもそうかもしれないと思うだろう。でもそうではないかもしれない、とも思うだろうな」

 手首を落としただけなら、まだなんとかしようもあった。だが、これは駄目だ。最悪の中の最悪だ。やはり、止めなくてはならなかったのだ。レドニスは恐怖と怒りと悔恨に歯を軋ませた。

「どちらか分からない場合、どうすると思う?」

 そう言うと、ハウロがゆらめくように立ち上がった。未だ転がっている男たちに何度も蹴躓きながら、よろよろと歩き出す。奇妙な笑い声を漏らしながら、ハウロは廊下の暗闇の中に消えていった。本殿奥には異様な静けさが残された。二人は暫くの間黙りこくっていた。レドニスは生唾を飲み込むと、ふらつきながら階段を下りた。ライネルが目だけで自分を追っているのが分かる。レドニスは乾いた血のこびりつく掌を当て、〈扉〉の結界を調べ始めた。

「陣の基盤はドルメアのものだが――刻まれた呪文列は古アルスル語か」

 呟きが耳に入ったらしいライネルが、呪縛を解かれたように口を開いた。声には緊張感が蘇っていた。

「レドニス、止めろ。駄目だ」

「集中させろ、やるしかない」

 夜明けまでだ。それまでにこの結界を抜け、ライネルの心臓石を回収する。

「馬鹿、お前には関係ないだろ」

「馬鹿野郎はお前だ! お前、死ぬぞ!」

 神殿に入って一番最初に刻み込まれる規則だった。許可なきものの地下への侵入、それこそがここでの最も重い罪だった。魔術で人を傷付けること以上に。

「俺の、俺のせいじゃないか! 俺がお前の言う通り、今夜ここになんてこなければ!」

「激昂して魔術を使ったのは俺だ。魔術師として許されないことだった。心臓石を奴に渡したのも、俺だ」

 レドニスはライネルの頰を力一杯殴った。仰け反ったライネルの口角が切れて、血が滲んだ。荒い息をしながら、レドニスは指を突きつけた。

「いいか、お前が罪に問われることが俺に関係ないなら、俺が今からすることもお前には関係ない。黙って見てろ。それができないなら今俺が無理矢理黙らせてやる。魔術を使ってな」

 ライネルは押し黙った。レドニスは結界を読み解く作業に戻る。恐ろしげに、ライネルが囁いた。

「俺の心臓石を回収したら――」

「少なくとも地下の件について追及されることはなくなる。無事回収さえできればな」

 犯してもいない罪に問われないために、実際にその罪を犯すのだ。レドニスは腹を決めた。

「だが、もし今地下に人がいたらどうする」

「そうしたらそのときは終わりだ」

 〈扉〉の結界はその名の通り長方形をしている。階段の先を塞ぐようにして輝きを放ちながら垂れ下がるそれは、職人の熟練した手によって織り上げられた精緻なタペストリーのようにも見えた。カロメ虫のモチーフと絡み合う植物、擬人化されたルースの図案に、幾つもの円と多角形から成る幾何学的な模様が重ねられ、全体に隙間なく呪文が織り込まれている。このような装飾的な魔法陣を、レドニスはいくつかの写本で見たことがあった。大抵の場合、肝要なのはこの図案に隠された単純な一部分だ。残りの部分は単に魔術を補強するものであったり、警告文であったり、またそれを解こうとする者を欺くための飾り、偽装にすぎない。レドニスは結界の骨格を抽出する作業に没頭した。普段ドルメア魔術で使われることの少ない古アルスル語だが、勿論文献と照らし合わせながら解読するなどということはできない。レドニスは頭の中に仕舞い込んだまま埃をかぶっていた語学書を取り出し、開くことをイメージした。乾燥し黴の浮いたページの手触り、古びたインクと紙の匂い。

「汝理をうつすもの――」

 レドニスが読み上げると、円に沿う文字列の一つが踊り、煌めく翠玉の粉を撒き散らした。

「かの指一度交わりて星を――いや、星じゃない、月だ。月を分かつ」

 手応えを感じ、更にルースの掌を囲むように綴られた一文を読み進める。

「闇にたゆたうもの一条に集いて――これは違う、誤魔化しの一節だ。白き炎――五芒を描き――ああ畜生、読みづらい。こっちだ。三たび此に命ずるべし。黒き水即ち極光となりて此を開かん――これだけか? 単純すぎる……黒き水……」

 レドニスは躊躇うことなく人差し指に尖った歯を突き立てた。ぶつりと指の腹の皮膚が裂け、血が滲み出す。レドニスは手を掲げると、新鮮な血に濡れた指で、一番大きな円をなぞり、加えて十字を描いた。古アルスル語で解放を意味する呪文を三度唱え、息を飲んで待つ。次の瞬間、レドニスは勢いよく襟の後ろを引かれた。首がぐっと締めつけられ、呼吸が止まる。そのレドニスの鼻先で、〈扉〉全体がぱっと業火に包まれた。激しい熱風が前髪を吹き上げ、眼球の膜を嬲り、額を灼き焦がそうとする。猛々しい魔術の火柱は、現れたのと同じ唐突さで消え去った。心臓が早鐘のように打っていた。振り向いた背後では、ライネルがまだレドニスの襟を掴んだまま、顔を青くしていた。ライネルはからからに乾いた声を上げ、やっとのことで言った。

「気をつけてくれ」

 返せる言葉がなく、レドニスは無言で頷いた。恐る恐る、再び〈扉〉へと近付く。指先で触れた結界は、あれ程の炎に包まれていたのが嘘のようにひんやりとしていた。

「何が間違いだったんだろう。確かに、解錠の手順を示す呪文にしては短い……何か読み落としている文がある?」

 レドニスは一歩後退り、再び全体を精査した。一度読んだ呪文は明らかに他と異質な色を放ち、緻密な魔法陣の中で水晶のさざれ石のように煌めいている。どんなに探しても、それ以上に意味のありそうな記述はなかった。爪を噛んで〈扉〉を睨みつけるレドニスに、ライネルが問いかけた。

「レドニス、お前が抜き出したところを教えてくれないか」

「汝理をうつすもの/かの指一度交わりて月を分かつ/三たび此に命ずるべし/黒き水即ち極光となりて此を開かん」

「かの指一度、というところから後はいい。最初の、『理をうつすもの』とはなんだ?」

「理といえば、ルースの理だろう。ルースの意思を身にうつし宿すもの、即ち単に魔術師を指し示す言葉じゃないか。神殿のそこかしこに刻まれているありふれたフレーズだろ。重要じゃない」

「そうかもしれないが――もっと単純に考えてみたらどうだろう。他の部分はそれ以上考察の余地が無さそうだし……うつす、というと色んな意味があるよな、例えば――」

 不意に、魔法陣の中心に目が引き寄せられた。ルースの左胸に当たるその一点には、図案の背後にある幾何学的模様の、殆ど全ての線が収束している。この結界の重心はここなのだ。結界を紡ぐときには、必ず結び目が出来る。結び目は最大の作用点となり、肝心要の重心だ。この〈扉〉が作られたときの中心がここだということは、これを解くものもこの点に何かしらのはたらきかけをしなくてはならないということだ。

「理をうつす――」

 レドニスははっとした。

「おい、ライネル、鏡を持っているか」

「ああ」

 ライネルは懐に手を突っ込むと、魔術道具の一つである、銅を磨いた手鏡を取り出した。もどかしい手つきで受け取り、傾ける。

「理とはルースだ。光だ。光を映すんだ。!」

 この階段にはちょうど天窓からの月の光が射し込む。不思議だと思っていた。普段使われることのないこの場所に、このような立派な天窓が設けられているのが。このためだったのだ。

 レドニスは鏡に月光を反射させ、線の交点、ルースの心臓、〈扉〉の中心を照らした。そして、先程と同じように血の滴る指で円をなぞり、十字を刻み、三回の呪文を唱えた。〈扉〉はほんの一瞬眩く光を放ち、そして溶けるように消え去った。

 消えた〈扉〉の向こうには、深い暗闇が続いている。レドニスとライネルは顔を見合わせ、真っ白な顔で頷きあうと、静かに階段を降りていった。

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