第2話
暖炉に火が入り、凍えるような寒さだった作業室——どうやらここはこの家の居間でもあるらしい——は少なくとも震えずにじっとしていられる程度の気温となった。目の前で薪木を突ついている魔術師は、シャツ一枚に薄い長衣を羽織ったかっこうで平然としている。
そういえばこういうやつだった。
ライネルはあたたかい香水薄荷の茶を啜り、一応は人心地ついた。茶を運んできた少年の左手には不気味などす黒い痣があったが、それ以外は特別変わったところのない普通の子どもに見えた。この少年は随分とこの家の勝手を知っているらしい。
「ここは」
友人であるはずの男が此方を見ようとしないので、ライネルは少年に話しかけることにした。
「トラヴィアです。トラヴィアのベントル通りですよ」
胡乱げな顔をしながら少年は答えた。
「ベントル通り? 聞いたことがないな」
「どこか遠くの町から来たんですか?」
「ロクド、喋らなくていい」
低い声が差し挟まれた。少年の名がロクドであるらしいということが分かった。ロクド少年は戸惑ったように声のほうを向いた。
「先生、そんなこと言っても……」
「先生?」
思わず、ライネルは聞き返した。
「レドニスお前、弟子がいるのか? お前に? 弟子?」
男はぴくりと眉を動かした。
「レドニスって誰です」
「おいおい、最近の弟子は師匠の名前も教えてもらえないもんなのか?」
「どういうことです。何を言ってるんだ。先生、この人誰なんですか……」
「おいレドニス、俺にも説明してくれ。レドニス、お前レドニスだよな? 返事をしろよ。不安になるじゃないか。なあ、レドニス……」
「その名で私を呼ぶな」
男がつめたく言った。椅子に掛けてからはじめて男がライネルに視線を向けた。馴染みのない漆黒の双眸。ライネルは短く息を吸い込み、止めた。
「私はそんな名前じゃない」
「じゃあなんて呼んだらいいんだよ」
ライネルは怒鳴ってしまいそうになるのを必死に抑えこみながら尋ねた。胸倉を掴んで揺さぶってやりたい衝動が湧き上がっていた。
「お前にだって何が起こったのか分からないかもしれないが、俺のほうが分からないんだ。どうしてそんな態度なんだ? 俺、お前になにかしたか?」
「おれの先生の名前はカレドアです」
ロクドが静かに言った。
「そして、ここは先生の家です。先生はもう何年もここで仕事をしている。おれはカレドア師の弟子で、今年で四年目です。あなたはそこに突然現れた。あなたはいったい誰なんですか」
冷静な少年の声を聞き、ライネルは多少落ち着きを取り戻した。それで、カップから煎茶を一口啜り、ゆっくりと話しはじめた。
自分が日長石を持つトラヴィアの神殿つき魔術師であること。魔術師サルバローザの弟子で、同時にそこにいるカレドアによく似た男の兄弟子であること。今朝、気づいたらここに居たということ。
カレドアはその間じゅうずっとそっぽを向き、火かき棒で灰を掻き混ぜていたが、部屋を出て行きはしなかった。
「こんな荒唐無稽なことを言いたくはないんですけど」
全てを聞き終わったあとで、ロクドが溜息を吐いた。
「この状況が既に荒唐無稽だから仕方ないか。つまり、別の世界から来たってことですか?」
「別の世界?」
ライネルは首を傾げた。確かに荒唐無稽な話だ。
「それはないだろう。だって俺はこいつを知っているし、トラヴィアという都の存在だって知っている」
ロクドは考えながら言った。
「
「並行世界」
ライネルは再び繰り返した。
「この世界と並行して存在している、ここによく似た世界、ということです。ふた月ほど前に何かの文献で読んだんですけど——」
顔を顰めてロクドはそのあたりの写本の山をがさがさと漁ったが、なかなか目当ての本は出てこないようだった。
「きみ、魔術書以外も読むのか」
「先生が取り寄せるので」
ロクドが軽く答えた。結局探していたものは見つからなかったようで、彼は諦めたように此方へ向き直った。
「どう説明したらいいんだろう。そうだな……この世界は、分岐し続けているんです。今この瞬間にも。例えば、ライネルさん、あなたは今香水薄荷の煎茶を飲んでいますけど、そうじゃなかった可能性もあるんだ」
ライネルは無言で続きを促した。
「それは、実は最後の一杯分なんです。昨晩おれがお茶を入れるのをやめたので、それが残っていた。ここは香水薄荷の茶葉が残っていた世界です。おれたちは此方の世界にいる。でも、同時に『茶葉を切らしていた世界』もあったはずなんです。その世界では、あなたはまだ暖炉に張りついて震えていたはず」
「なんだかちょっと引っかかる言い回しをするな」
ロクドは構わず続けた。なんとなくいつもの友人を思い出させる態度だった。
「おれたちが行動する限り、常に『選択しなかったほうの世界』が生まれているんです。毎日、毎時間、毎分、毎秒と。そういった無数の世界のことを、『エンカデア』とその本では名付けていた。古代キリカ語で『そうであったかもしれないひとつの可能性』という意味の言葉です」
「その、並行世界から俺がやってきたと?」
「踏み間違うような形で」
ロクドは指で空中に図解した。
「並行世界という概念は、ちょうど植物の根のような構造で描かれます。無数に分岐してゆく、巨大な植物の根。ライネルさんは、本来おれたちから何本か前に分岐した一本の『可能性』に存在していた。ところがなにかしらの要因で、それが混線してしまった」
「なるほど」
ライネルは唸った。
「だから、レドニスの姿が俺の知っているあいつとは違うということか。名前も」
「結局は、眉唾の域を出ないんですけど」
「じゃあ、その説が正しいとして、俺はどうしたら元の根っこまで戻れるんだ?」
「それは、分かりません。ただ、もしこの仮説が正しければ、あまりのんびりはしていられないでしょう。なにせ、今この瞬間にも根は広がっているんです。世界が分岐し続ける限り。もともと存在していた根と根の間が離れれば離れるほど、いかにも戻るのが難しくなるような気がしませんか?」
ライネルは肩を竦めた。気詰まりな沈黙が流れた。ライネルはカレドアの横顔に目を遣り、唐突な違和感に襲われた。
でも、こいつは確かに俺を知っていた——。
ふと、カレドアが立ち上がった。彼は暖炉の脇に貼り付けられていた書きつけを一枚剥がしとると、作業室を出て行った。紙片の殴り書きは、ひどく見覚えのある筆跡だった。カレドアの後ろ姿をぼんやり見送っていると、「ああ」と突然ロクドが声を上げた。
「おれも、買い出しに行かなきゃ。ええと……ライネルさんは、どうしますか」
ライネルは暫し思案し、答えた。
「そうだな……。きみについていくよ。街の様子とか、確認したいからさ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます