第3話

 昨晩うっすらと降った雪は、既に昼の陽射しにさらされ水溜りとなっている。冬の太陽は低く弱々しいが、それでも石畳の上に淡い影を落とす。

 ロクドたちは水溜りを避けて歩いた。路地を抜け、細い橋を渡る。欄干の上に微かに残るみぞれから、つめたく透明なひと雫が滴り落ち、水路の上にささやかな波紋を作る。波紋はすぐに、水の揺らぎに紛れて消える。

「なんかけっこう落ち着いてますね」

 きょろきょろと辺りを頻りに見回すライネルを横目に、ロクドは呟いた。

「落ち着いてるものか」

「そうは見えませんよ。普通は、そう平静ではいられないと思いますけど」

 賑やかな大通りに行き当たり、ロクドたちは道を折れた。真正面に馴染み深い八枚羽根の風車がくっきりと浮かび上がっていた。行き交う雑多な人々の波に揉まれながら、二人は暫く歩いた。香辛料や肉の焼ける匂いが鼻をつき、露店の客引きが耳を劈く。通り過ぎざまに細い横道を除けば、奥の方までなにやら怪しげな屋台が軒を連ねている。客引きと思しき男と目が合ったため、ライネルは目を逸らし、大きく息を吐いた。人酔いしそうだった。

「きみ、俺が落ち着いて見えると言ったな。もしそう見えるとしたら……やっぱり、一番最初に知っている男に会えたからだろうな。『知っている男に似たやつ』かもしれないが」

 喧騒に紛れそうなその返答は、しかし少年の耳に届いたようだった。ロクドは歩みを止めないままライネルのほうに視線を向けると、躊躇いがちに尋ねた。

「その人と……友達だったんですか?」

「今だって友達だ」

 ロクドは一瞬口を噤み、「すみません」と言った。勝手に過去形にしたことを謝罪したようだった。気にしていない、と手のひらを振ってみせる。

「ところで、どこに向かってる?」

「神殿ですよ。仕上がっているはずの写本を受け取りに行くんです」

「写本?」

「ライネルさんは神殿つきだから知らないのかな。メルパトス神殿内の図書館にはほとんどの本が揃っているじゃないですか。それこそ十の子どもが読むような入門書から、キリカやアルスールの資料、閲覧制限がかかっているような希少な魔術書まで。おれたちみたいな普通に神殿の外でやってる魔術師は勿論それを借りたりはできないので、その中から欲しい本があれば代金と引き換えに神殿に写本を依頼するんです。かかる時間はものによりけりですけど、今回のはふた月前に依頼したやつで、昨日連絡が来たんですよ」

 ほお、と頷いたところで、背後から涼やかな声が掛かった。

「ロクドじゃないか」

 振り向けば、若い女である。耳に大振りな柘榴石の飾りが揺れているところを見ると、魔術師であろう。彼女は快活な印象を与える大きめの口を笑みの形にして、ふとライネルのほうを見た。

「その人は?」

 彼女の視線がライネルのガウンを経由し、ロクドへと移った。

「神殿つきの方がどうしてロクドと……?」

 ロクドは説明しようと口を開き、口籠った。

「彼は、その……」

「ライネルです」

 ライネルはぱっと笑顔を浮かべ、握手を求めた。女が躊躇いがちに手を握った。

「あたし、サリマトです。ガーダル師の弟子の」

「ガーダル師」

 さっぱり聞き覚えのない名前だったが、取り敢えず復唱する。

「私は、実は今日地方から此方の神殿に派遣されてきたばかりなのです。この通り、賑やかな都には慣れぬもので、道に迷ってしまって。そこで行きあった親切な少年に案内してもらっていたという経緯です」

「なるほど」

 やや苦しい説明だったが、こういったときに必要なのは一貫した淀みなさだ。サリマトは一応は納得したようだった。

「それでは、暫くこの街にいらっしゃるんですね」

「ええ。都での生活に不安もありましたが、初日からこんなに素敵なご婦人と知り合えて幸先がいい。これもルースの采配ですね。またお会いしたら、よろしくお願いします」

 調子のいいライネルの言葉に、サリマトが思わずというように笑った。

「ロクド、じゃあ頑張ってお連れして」

「何をどう頑張るんだ?」

「それでは、また」

 心臓石に軽く触れる魔術師の挨拶をし、サリマトは反対方向へと背を向けた。人の波間に消えていく彼女を見送りつつ、納得いかなげな顔をする少年をライネルは小突いた。

「おい、美人じゃないか。きみも隅に置けないな」

「何言ってるんですか。サリマトはそういうんじゃないですよ」

「なんだ、そうなのか」

「大体、おれにとっては歳上だし……」

「歳上もいいぞ」

「うるさいなあ」

「好きな人とか、いないのか?」

 ロクドが虚をつかれたように黙りこんだ。その目元のあたりに、刹那憂鬱の翳りが過ぎったような気がして、ライネルは首を傾げた。次の瞬間、ロクドは眉を吊り上げて声を荒げていた。

「そんなこと気にしてる場合ですか!」

「いるんだな」

「本当に、緊張感のない人だな」

 憤懣やるかたなしと言った調子で猛然と歩き出したロクドに、ライネルは半歩遅れて追いすがった。本当に怒っているわけではないのは分かる。あいつと同じだ。ライネルは問いかけた。

「あいつは結婚してないのか?」

「あいつ?」と聞き返し、眉間の皺を解いたロクドはすぐにああ、と頷いた。

「先生ですか? してないですよ」

「そうか。独立してるんじゃ、早く嫁さん貰えばいいのにな。きみだって、そのうち独立するんだろ?」

 うーん、と唸り、ロクドは歩調を緩めた。

「なんというか……先生はそういう感じじゃないです」

「そういう感じじゃない?」

「いまいち想像できないというか。おれは……あの人に、女の人の入り込む隙間なんかないんじゃないかって気がします。女の人じゃなくても……」

 どことなく淋しげなその声の響きに、ライネルがなにか言おうとしたとき、唐突にロクドが立ち止まった。

「うわ、なんだ」

「そうだ、やっぱり、ライネルさんは来ないほうがいいですね。神殿」

「何故だ?」

「そのガウン着てるじゃないですか。サリマトだったから誤魔化せましたけど、まずいことになりませんか?」

「た、確かに……」

 その通りだ。

「帰り道、分かります?」

 うん、と頷き、その場でロクドとは別れた。子どもというには成長しすぎているが、大人にはまだ届かないその後ろ姿をじっと見送る。雑踏の中で迷惑に立ち止まりながら、ライネルはひとり思案気な顔をしていた。






 その日は夜まで依頼人は訪れなかったので、ライネルは作業室でじっとしていた。色々なことを考えるのに具合がよかったからだ。ロクドはなにやら用事が溜まっていたらしく出たり戻ったりしていたが、部屋にいるときはライネルを概ねそっとしておいてくれた。

 陽が落ちると、ロクドが帰ってくるのを見計らったようにカレドアが作業室へと戻ってきた。右手の指にインク染みがついていたので、なにか書き物をしていたらしいことが知れた。人差し指の指環に目が吸い寄せられる。記憶では深い青だったはずのその石の色は、一切の光を反映しない全き黒だった。カレドアはライネルに目もくれず、テーブルの上の丸まった書簡を取り上げると、軽く目を通し、四枚に破いて暖炉に放り込んだ。棚から粉の包みを取り出し、再び書斎に引っ込もうとするカレドアをロクドが呼び止めた。

「先生、ライネルさんのことなんですけど」

 カレドアが立ち止まり、振り向いた。ロクドは言葉を選ぶようにしながら慎重に言った。

「彼、今夜行くところがないんです。それで……もしよければここに」

「泊めない」

「泊まる」

 カレドアとライネルの声が重なった。カレドアが眉を顰めてライネルを見た。ライネルは素知らぬ顔で明後日のほうを向いた。

「ふざけるな」

 カレドアが呟いた。

「余分な寝床などない」

「この長椅子でいいよ」

「いいや、泊めない。どこかに宿を取ればいい」

「金がないんだ。俺を放り出すのか? この寒空の下?」

「無一文でこの私の家に泊まろうと?」

 ロクドがおそるおそるといったように口を挟んだ。

「先生、凍死してしまうかも」

「凍死しろ」

「そりゃあないだろ」

 ライネルは口を開けて助けを求めるようにロクドを見た。ロクドは困惑と呆れの綯い交ぜになったような顔でカレドアを見つめていた。

「先生……」

 部屋に沈黙が満ちた。最終的には、カレドアは「勝手にすればいい」と吐き捨てるように呟き、部屋を出て行った。ライネルはロクドの肩を軽く叩いた。

「きみ、いいやつだな」

 ロクドは溜息で答えた。

「しかし、なんだあれ。あいつ、いつもあんな癇癪持ちなのか?」

「あんな先生、見たことないですよ。本当に、あなた何者なんですか」

「だから言っただろ。あいつの一番の友人さ」

 ライネルは肩を竦めてみせようとしたが、そのときにはもうロクドは首を振り、向こうを向いてしまっていた。ライネルは今日の寝床となる長椅子を見下ろし、どうしたら風邪を引かずに済むかを考えはじめた。

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