第3章 燈虫の舞う町

第15話

 ナトーレンは、活気のある美しい港町である。

高台から見下ろせば澄み渡る空と輝く海の青、橙の三角屋根の対比が鮮やかに目を焼く。伝統的な白壁の家々はなだらかな丘の傾斜に沿うように段々に建てられ、トラヴィアのように整然とは並んでいない。小さな町ではあるが、ひょっこりと現れる細い小径や急な坂が多く、ともすれば迷ってしまいそうだった。町の中央には、毎正時に趣深い鐘の音を響かせる時計台とささやかな広場があり、町のひとびとの憩いの場となっている。少し広い通りにはやはり出店がひしめき、色とりどりの新鮮な野菜や魚を売っていた。ヨグナが物珍しそうにきょろきょろと辺りを見回すのを見て、ロクドは沈みがちだった気分が僅かながら上向くのを感じた。吹き抜けて頬を撫ぜる風には潮の匂いが混ざっている。三人の子供たちがロクドたちとすれ違い、笑い声を上げながら坂道を駆け下りていった。

 果物を売っていた女が二人に目を止め、愛想よく声を掛けた。

「お二人さん、見かけない顔だね。旅行者かい?」

「いや……」

 首を振るロクドの横で、ヨグナが尋ねる。

「この町に、ファルマという魔術師がいると聞いたのですが」

「ファルマ!」

 その名前を繰り返して、女がにっこりとした。

「彼処の夫婦はね、本当にいい人たちだよ。あたしも腰を治してもらってね。この町には魔術師は一人しかいないからね、いつもお世話になってるんだ」

「彼の家はどこにあるんです?」

「ここを真っ直ぐ行って、最初の角を右に曲がった三軒目だよ。ファルマさんの家に行くなら、これを持ってっとくれよ。奥さんのモンノの好物でね。日頃の礼さ」

 指で簡単に指し示すと、女は梨を何個か袋に詰めて持たせてくれた。

「ファルマさんってこの町の人に好かれているみたいね」

 ほっとしたようなヨグナの言葉にロクドは頷いた。



 この町唯一の魔術師であるというファルマは、明るい蜂蜜色の髪に鳶色の瞳、口の上に髭を生やした柔和な顔立ちの男で、笑うと目尻に薄い皺が寄った。モンノの方はふっくらとした身体つきに、髪と同じ綺麗な薄茶の瞳をした優しげな夫人である。

 ファルマはロクドたちの前で紹介状に目を通すと、すぐに二人を受け入れることを了承した。ロクドはガーダルの手紙に何と書かれているのか気になったが、ファルマの方は特別ロクドを詰問するようなことはしなかった。そわそわとしているロクドの様子に気付くと、彼は微笑した。

「君は、ガーダルさんの弟子ではないんだね」

「ええ、その……おれの師は」

 口籠りながら説明しようとするロクドを遮り、ファルマは言った。

「だけど、ガーダルさんが紹介する以上君は信用に足る人物だということだ。そして勿論そっちの子もね。僕はガーダルさんや、おそらく君の前の師匠のように優れてはいないけど、出来る限り君たちの力になることを約束しよう。この町はいいところだ、好きなだけいてかまわないよ。その代わり、明日から仕事を手伝ってくれるね?」

 ロクドとヨグナらは感謝を込めて頷いた。

 果物売りの女が言った通り、夫婦が「いい人たち」だということは疑いようもなかった。裏表のない実直な人柄からか、町で唯一の魔術師であるということを差し引いても、ファルマの元には毎日多くの人が訪ねてきた。カレドアのもとにいたとき同様、ただ世間話をしたいだけであったり愚痴を聞いてもらいたいだけの人間も多かったが、ファルマはその全てに嫌な顔一つせず親身に対応した。モンノはというと、にこにこしながら気分を落ち着かせる香水薄荷やカミツレの香茶を淹れたり、ふんわりと焼いた蜂蜜入りの菓子を出したりした。モンノの笑顔には人の心を和ませる力があるようで、魔術を処方するよりもモンノが掛ける言葉の方がよっぽど効力を発揮する、というようなこともあった。ロクドはカレドアに学んだことを生かしてファルマの代わりに安産のための護符や、魔除けのお守りを作ったりすることに尽力し、ヨグナはヨグナでモンノを手伝って家事に励んでいるようだった。

 ある日ロクドが月桂樹の葉を日干ししようと籠の上に並べていると、

「君の前の師は優れた人だったんだろうね」

と髭を撫でながらファルマが言った。口髭を撫ぜるのは喋り出すときのファルマの癖だった。ロクドは作業の手を止め、少し迷ってから頷いた。

「とても」

「君を見ていれば分かる。勿論君は元々優秀なんだろうけれど、いい教えを受けてきたんだろうと思う」

「でも、やさしい人ではなかった」

 不意に口から滑り落ちた言葉に、ロクド自身が驚いた。四年もの間世話になり、導いてくれたカレドアに対してこんな恨み言めいたことを言うつもりではなかったのに。驚きが去ったあとで、ロクドは言葉を選びながらゆっくりと続けた。

「先生、いや、カレドアは……いつも一人で生きているというような顔をしていた。世界と自分を切り離しているような。おれのことを信用はしたけど、きっとけして信頼はしなかった。おれは最後まで、あの人がどういう人間なのか分からずじまいだったんです。四年も一緒にいたのに」

 そう吐露するロクドを、ファルマは穏やかに見つめていた。ファルマの鳶色の瞳は、カレドアと同じくけして明るい色味ではなかったが、闇を切り抜いたようなカレドアの瞳とは対照的に、その奥には常に優しげな光があった。

「君は寂しかったんだね」

 ロクドは意外な言葉を掛けられてぽかんとした。

「おれは……」

 それでも、言われてみればそうかもしれないと思った。記憶の中のカレドアの背中を思い出し、ロクドはしみじみと考えた。そうか、おれは寂しかったのか。

「僕は君の師匠については全く知らないけどね。君の言う通り、やさしい人ではなかったのかもしれないね。だけど、ロクド、完全に理解し合える人間なんていないんだよ。僕とモンノだってそうだ」

「ファルマさんとモンノさんも?」

 ロクドは意外に思った。二人ほどお互いを深く信頼し、理解しあっている夫婦は他にないと思っていたからだ。

「そうだよ。夫婦や家族であっても、一人一人違う人間なんだから。全部を理解することは絶対に出来ないし、そこが面白いところでもある。完全に相手のことが分かるとしたら、それはもう鏡と対話しているようなものだ。相手を理解しようと努力する必要も、相手を慮る必要もなくなってしまうだろう? それでもやっぱり、親しければ親しいほど自分を過信してしまうし、相手に期待してしまう。自分は相手を理解しているし、相手が自分を理解してくれるはずだとね。それは人である以上仕方ないことだけれど、それに囚われてしまうのは苦しいことだ。世の中にはね、それで心を病んでしまう夫婦や、親子や、親友が沢山いる。ロクド、君は君の師のことが好きだったんだろうね。だけど、師匠の方もきっとその人なりに君を大事にしていたはずだよ。少なくとも、君にそう思わせるくらいには」

 ロクドは頷いた。ずっと心の中にあった蟠りが解けていくのを感じた。その後で、ロクドはこれまでのことを洗いざらい打ち明けた。生まれや呪いのことを話すのはこれで三回目だったが、ヨグナの義父の命を奪ったくだりを告白するときには胸が苦しくなった。人一人を殺めてしまったことは、ロクドの心臓に硝子の欠片のように突き刺さり、じくじくと痛みを与え続けていた。ファルマはその全てを静かに聞いていた。ロクドが語り終えると、ファルマは、

「打ち明けてくれてありがとう」

と言った。ロクドは頭を下げた。それから、ファルマはぽつりと言った。

「今まで辛かったね」

 そんなことを言われるとは思いもよらず、ロクドは狼狽した。

「そんな……辛いとか、辛くないとか」

「考えたことはなかったか」

「はい」

 ファルマは窓の外を眺めながら、暫く思案しているようだった。それから、ロクドの方を見て言った。

「このことを、モンノにも話していいかい? 勿論、君がいいと言うならだけれど」

「勿論、構いません」

 モンノなら同じように受け入れてくれるだろうと思った。

 その後で、宣言通りファルマはモンノにロクドのことを話したようだった。どうして分かったかというと、その晩の食事にロクドとヨグナの好きな菓子が山のように添えられていたからだ。コケモモのジャムがたっぷり詰まった、モンノの自慢の焼菓子。作るのを手伝ったのだというヨグナが嬉しそうにそれを頬張るのを見て、ロクドはモンノのあからさまな優しさに頬を緩め、それを好ましく思った。しかし、それと同時にロクドの心を震わせたのは、食卓に並べられた何の変哲も無いシチューだった。カレドアがかつて作ったものよりも具が整っていて、しかし素朴な味わいのそのシチューは、昔母が作ってくれたものにひどく似ていた。


 ファルマとモンノとヨグナ、そしてロクドの四人の日々は何ヶ月か穏やかに過ぎていったが、以前としてロクドの呪いについては何一つ手掛かりを見つけられないままだった。ヨグナは、呪いを受けている当人であるロクドよりもそのことを気に病んでいるようだった。ある時、食事を終えた後でヨグナは言った。

「呪いは闇から生まれるんでしょう。それならば、そもそも闇そのものを根絶してしまうことはできないの」

「そうだね。それが出来たなら、ロクドの呪いも解くことが出来るだろう。だけど、残念ながらそれはできないことなんだ」

 ファルマがそう言ってから、ロクドに続きを話すように促した。ヨグナもロクドを見るので、ロクドは喋り出した。

「神話でも語られているように、もともと、世界には光だけがあったんだ。ルースの理は光の中に硫黄と水銀を作り、そこで物質が生まれた。物質と言っても何も土や石や木のようなものばかりを指すわけじゃない、広い意味で言えばおれたちも物質の一つだ。物質の誕生は世界に影を落とした。闇は光と拮抗するけれど、闇はもともとルースによって生まれたものなんだ。というよりも、おれたちによって生まれた……捉えようによっては、闇はおれたちそのものとも言えるかもしれないな。陽だまりの中に置いた石が影を作らないことがないように、物質の存在する世界においては闇は必ず存在するんだよ。つまり、おれたちの世界において光なしに闇は有り得ず、闇なしに光は有り得ない……」

 ロクドの後を引き継いで、ファルマはこう纏めた。

「闇を滅ぼすということは、僕たち自身を否定することなんだよ。闇は避けられないものだ。だからこそ、バランスが重要なんだよ」

 ヨグナは納得したように頷いたが、表情は暗かった。

「じゃあ、どうしたらいいのかしら……」

「ヨグナ、今は呪いも落ち着いているし、大丈夫だよ。時間は沢山あるし」

 モンノが安心させるようにヨグナに微笑みかけた。

「気持ちは分かるけれど、焦りすぎは良くないわ。そうだ、燈火祭の準備をそろそろ始めなくちゃ。二人のランタンも買わなくちゃね」

「燈火祭?」

 ロクドが首を傾げた。ファルマが横から教えてくれた。ファルマはまた人差し指で口髭を撫でていた。

「毎年この町でやってるお祭りだよ。そうだな、少し早いがモンノ、ランタンはどこにあったかな。出してこよう」

「食器を片付けてからよ」

「モンノさん、洗い物は私が」

「あら、じゃあ一緒にやれば早く終わるわね」

 食器を洗い終えたあとで、モンノは物置から埃を被ったランタンを出してきた。ランタンといっても、モンノがテーブルに置いたランタンはロクドの知るそれよりもずっと装飾的だった。鉄で出来た幾何学模様の透かし細工に、鮮やかな赤や橙、黄緑色の硝子が嵌め込まれた風防は、ランタンとしては実用的とはいえない。しかし一度灯りを灯したなら、さぞ美しい光を映し出すだろうと思わせる品であった。

「綺麗」

 溜息を吐いたヨグナが色々な方向からランタンを眺め、モンノを見た。

「だけど変だわ、横に開けられそうな面がない。蝋燭はどこから入れるの?」

「上が開くのよ」

 モンノが留め金を外し、ランタンを開けてみせた。中は完全に空洞で、蝋燭を固定できそうには見えない。それに、上しか開かないのでは蝋燭に火を点けたり消したりするのに不便ではないだろうか。

「これは蝋燭を入れるものじゃあないの。燈虫をね、入れるのよ」

「燈虫?」

 今度はロクドが首を傾げた。そんな虫の名前は村でも、トラヴィアでも聞いたことがない。

「カロメ虫のことだよ。その中でも夜になると光を放つものを、この辺りでは燈虫と呼ぶ」

 ファルマが口を挟んだ。カロメ虫なら知っている。このドルメアでは珍しくもない小さな甲虫で、カロメという植物の実によく似た色と形をしているのでそう名付けられた虫だ。

「光るものがいるなんて、知りませんでした」

「海が近くて空気が綺麗な、限られた地域にしか棲息していないからね。カロメ虫がルーメス教において古くから神の遣いとされているのは知ってるだろう? それはこの虫が闇の中で美しく光るところから来ているのさ」

 ロクドは納得した。ヨグナも頷いた。

「それで、その、燈虫を入れるんですね。このランタンに」

「そうだ。町中の人々がランタンを持って外を歩くから、それはそれは綺麗なものだよ。ただし、祭りは一晩だけだから、ランタンが光っているところを見られるのは一年に一回なんだけどね」

「一晩だけだなんて、なんだか勿体無いですね」

「勿体無いと思えるくらいが、有り難みがあっていいよ。まだ何週間か先だが楽しみに待っているといい。出店も沢山並んで、賑やかだよ」

 ヨグナが嬉しそうな顔をした。こういった祭りに参加するのは初めてなのだろう。ロクドの生まれたネルギでもこのような風習はなかったので、やはりそれなりに浮き立つ気持ちはあった。

「それじゃあ二人とも、そろそろ寝る支度をしたら? 明日も早いし、私はもう寝ようかしら」

「はい」

「おれは、依頼された護符がまだ一つ残っているので」

「おやおや、仕事熱心ね。あまり根を詰めすぎちゃ駄目よ」

 ロクドは一つ頷くと、作業室でもある自室に戻ることにした。

 机の上には、作りかけの護符が載ったままだった。ドルメアの魔術師がよく作る護符は銅板にペンタクルを刻んだものが基本で、そのままでも効力を発揮するし、ある作用を持つお守りに縫いこんで効果を強めたり、別の性質を付加したりもする。例えば、人と人とを結びつける縁結びの魔術は大変難しく、また自然界にもそのような作用を持った物質は存在しない。そこで、縁切りの力を持つイラクサやオニユリの葉を重ね、強い逆転のペンタクルを刻んだ護符と共に封じ込める。そうすると、無事狙った効果が現れるというわけだ。素人がお守りを開いたりばらばらにしてはいけないというのはそういう意味である。しかし、これは匙加減が難しいところであり、それ故に基本となる護符を作ることには非常に熟練された技術が必要となる。おまけに、魔術を使って緻密な図案を刻むことは左手で文字を書くよりも困難なことだった。ところが、ロクドはといえばこの集中力が必要とされる護符作りの作業がいっとう好きだった。繊細な作業は好きだ。昔、母に植物の冠を作ってみせる度、「ロクドは本当に手先が器用ね」と褒めてもらったのを思い出す。ペンタクルを刻んでいる間は、余計なことを考えず無心になれるのもよかった。

 ロクドは銅板の表面を鹿の革で丁寧に拭ってから、意識を集中させた。これは旅立つ商人の息子の安全を守る護符だ。けして難しい魔術でも複雑な図案でもないが、失敗することはできない。二本の指を銅板にひたりと当てると、ロクドは呪文を唱え始めた。呪文は心臓石を光らせ、肩から腕へと伝わっていく。やがて指先から銅板へと到達した魔術が、ちりちりと音を立てながらその鋭い切っ先で銅板に細い線を刻み始めた。まずは肝心要の円形。線が紅く発光しながら、じわじわと円を象っていく。同心円を三つ。時間を掛けて美しい正円を刻み終えると、続けて三角形を組み合わせた図形に取り掛かる。出来る限り細く、鋭く、くっきりと。一つの辺を刻む間は、呪文を途切れさせてはならない。線の太さが途中で変わってしまえば護符としての質が下がるから、ここが術者の腕が問われるところだ。三角を囲む最後の一辺を書き終えようとしたところで、ロクドは突然自らの身体に異変が生じたのを悟った。銅板を固定していた左腕。思わず声を止め、左の手袋を剥ぎ取った。あの夜、初めてヨグナと話したときと同じだった。ひび割れた皮膚に不気味な筋が浮かび上がり、どくりと脈打った。視認したとたん痣から激烈な痛みの信号が駆け上り、ロクドは呻き声を上げながら椅子から転げ落ちた。

 どうして今。

 大量の疑問符が脳内を埋め尽くすが、それは一瞬のうちに真っ赤な苦痛の色へと塗り潰された。ロクドは罵りながら腕を抑え、身体を丸めた。椅子が倒れた音を聞きつけたのか、慌てたような足音が近づいてくる。

「どうかしたの、ロクド」

 ヨグナの声だ。

 床に這いつくばりながら、ロクドは作りかけの護符が床に転がっているのを見た。線が途切れている。これは作り直しだな、と変に場違いなことを思った。返事がないことに焦れたのか、ヨグナが扉を開けた。ヨグナの驚愕の表情を最後にロクドの視界はふっつりと暗転し、意識は逆巻く闇の渦中に飲み込まれていった。

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