第14話

 胸騒ぎと共にロクドは目覚めた。

 まだ夜中である。

 ロクドはベッドの上に横たわったまま、今日の出来事を順に想起していった。今朝はいつもの時間に目覚め、二人分の朝食を用意し、依頼を一つ片付けた。その後で昼食休憩を挟み、買い出しを終えたあと二つ依頼をこなし、夕食をとって身体を清め、床に就いた。そうしてその日一日が完璧にいつも通りであって、この激しい胸騒ぎに全く心当たりがないことを確認した。つまり、ということだ。

 ロクドは音もなく身を起こし、ベッドを抜け出した。

 ロクドは完全に覚醒していた。

 そろりと自室の扉を開けて、足音を忍ばせて階段を降りる。廊下の奥に、カレドアの寝室へと続く扉が見えた。流石にこの時間ではカレドアも寝室で眠っていることだろう。ロクドは一瞬、カレドアが本当に眠っているのか確かめるべきだという考えに襲われたが、それを振り切って廊下に背を向けた。着替えはしなかった。胸をざわつかせる何かに後押しされるように、ロクドは靴だけを履いて家の外へとまろび出た。

 夜。

 真っ暗な通りに自分一人が立ち尽くしているという状況は、ヨグナとの邂逅を連想させたが、あのどこか異質で幻想的な空間とは明らかに違う。街は確かに暗闇と沈黙に満たされていたが、静けさの中にも無数のひとびとの息遣いと、生活の匂いがあった。よく目を凝らすと、本当に僅かではあるが、このような時間であるというのにちらほらと控えめに蝋燭を灯している家がある。勉強熱心な魔術師か、明日の仕込みをする職人だろうか。夜の大気を吸い込んで、ロクドは歩き出した。

 通りを途中で右に折れて、一つ細い道へ。すぐに横道に入り、別の大通りへ抜ける。街灯に沿って歩き、脇へ二回折れ、見慣れた小路へと出た。ヨグナの住む路地。

 ロクドはこの胸騒ぎの正体を、ヨグナ絡みのことだと確信していた。この三日間、ロクドの頭の中はヨグナのことで一杯だった。別れ際のヨグナの笑顔が目蓋の裏に焼きついていた。だから、ここへ来てロクドを襲った奇妙な違和感をヨグナへと結びつけたことは、当然の帰結であった。

そして、それは正解だったらしい。

 ロクドはヨグナの家の前で立ち竦んだ。ヨグナの家には、蝋燭の灯りはない。しかし、ぴったりと閉じられた扉の隙間から、隠しようもなく声が漏れ聞こえていた。低く抑えた男の怒声と、怯えきった少女の声。何かが割れる、尖った音がした。少女が必死に抑え込んだような悲鳴を上げる。ロクドは心臓がばくばくと音を立て始めたのを自覚した。ロクドは吸い寄せられるように、古びた扉の、その錆びた真鍮のつめたい取っ手に手を掛けた。ロクドの指と手のひらとがそれを握った瞬間、魔術が鍵穴からするりと忍び込み、カチリと錠前が開いた。ロクドは乾燥してひび割れそうな唇を舌で舐めた。手が汗ばんで、酷く冷えていた。心臓は壊れそうなほどに激しく打っている。足が震えそうになる。荒くなる息を、ロクドは意識的に抑えた。ロクドは音を立てないように細心の注意を払い、手に力を込めると、ゆっくりと、扉を押し開けた。

 黴臭い臭いがした。

 中は外同様、暗闇に満たされている。細い廊下が伸び、声はその奥から聞こえていた。

 ロクドは焦燥感と、後悔したくないという、ただそれだけの思いに支配されていた。自分が平素の冷静さを欠き理性を失ったとき、時として恐ろしく大胆な行動に出る男だということを、ロクドは知っていた。しかし、それはけして制御できない彼自身の特質でもあった。

 また鋭い音がして、男の怒りに満ちたがなりと、少女の悲鳴が続いた。ロクドは震える足を叱咤すると、一歩一歩慎重に奥へと進んでいった。左手で空中に描いた魔法陣から、魔術が音もなく放たれ、ロクドをするりと包んで足音を消した。今はもう、二人の声は明瞭に聞こえていた。

 ヨグナは「やめて」と言った。その後で鈍い音がして、何かが壁に叩きつけられた。ロクドは壁を伝う振動からそれを知った。ロクドはじっとりと湿った手で菫青石を握った。

「役立たずめ」

 男の罵声が響いた。

「お前なんて、今すぐにでも売り飛ばしてやったっていいんだ」

 男が吐き捨てて、ヨグナが苦しげに喘いだ。突然、男が声色を優しくした。

「なんなら、殺してやったっていい。なあ、ヨグナ、お前もその方がいいかもなあ。毎日、辛いだろ? 生きていくのは大変だろ? それに、俺にもいいことがある。知ってるか、人間の身体には高く売れる部分があるんだ」

 ぶつぶつと何かを断ち切る音と共に、突然ヨグナが絹を裂くような悲鳴を上げた。

「まずは髪。お前の母さんの髪も、それなりに高く売れたな。死ぬ直前まで髪だけは何故か綺麗なままだったからな、覚えてるか?」

「お義母さんの身体に、傷を付けたの」

 従順だったヨグナが、初めて激情に駆られて叫んだ。

「死んだお義母さんの身体に!」

「死人に髪は必要ねえだろう。そういえば、あのときお前にはあいつの死体はすぐに神殿に預けたと言ったっけ。だって、お前、きっとうるさく騒いだだろ? 勿論しっかり埋葬はしたさ。然るべきものを回収してからな。そうだ、歯もなかなかいい金になったんだ。差し歯を欲しがる老人っていうのはいつの時代もいるもんだ」

 ヨグナが怯えた叫びを上げた。逃れようと抵抗する大きな物音と、また鈍く何かを殴りつける音がした。

 ロクドは部屋の戸口に立って、開いた扉の隙間から中を見た。

 ヨグナの養父が彼女の小さな身体に馬乗りになり、鈍く光るナイフを握りしめ、今にも彼女の顔に突き立てんとしていた。長く美しかったヨグナの髪は散切りになり、顔は鮮烈な恐怖に彩られていた。

 その瞬間、ロクドは、激情を堰き止めていた最後の歯止めが砕け散ったのを知った。ロクドは意味のない怒号を上げながら消音の魔術を解き、扉を破らんばかりに蹴り開けた。男が此方を向く前に、激昂のままに渾身の魔術を放つ。心臓石が、これまで見たことがないほどに眩く光輝いた。目の前が真っ赤に染まっていた。自分が正しい呪文を詠唱したかさえ分からなかった。ヨグナを守ることしか考えられなかった。心臓石で強められ、荒々しくささくれ立った呪文の帯が幾十にも男の全身に巻きつき、加減なしに締め上げた。男の身体が呪文に引きずり上げられ、空中に浮かんだ。男の足が宙を掻く。それに構わず、ロクドは手を薙ぎ払い、呪文を次々に叩きつけた。その度に男は潰れた蛙のような醜い声を上げたが、ロクドの耳には入らなかった。

「やめて!」

 ヨグナがしがみついた。ロクドは唸り声を上げて振り払おうとした。

「やめて、もうやめて、死んでしまう!」

 泣き叫ぶようなその声が耳から脳を刺し貫いて、ロクドの全身が反射的に硬直した。呪文の詠唱が止み、一拍おいて男の身体が床にどさりと落ちた。ロクドは激しく呼吸していた。頭と胴体だけが沸騰するように熱く、手足は氷のように冷え切っていた。動悸がおさまってくるにつれて、だんだんとロクドの目に正常な視界が戻る。ロクドは機械的に視線を男に向けた。

 切り落とされ散らばったヨグナの髪の上で、男は倒れていた。男の顔は赤黒く膨れ上がっている。開いて露出した唇の粘膜には、紫色の小さな斑点が幾つも浮かび上がっていた。首に、ひときわ太い呪文の帯がきつく食い込んでいる。ロクドが男の横に崩れるようにしゃがみ込み、震える指でそれに触れると、呪文は音もなく消滅した。男は動かない。ロクドはヨグナを見た。ヨグナもロクドを見ていた。

 男は既に絶命していた。

 ロクドは再び血液が逆流しはじめる音を聞いた。全身ががくがくと激しく震え、息が荒くなるのを止められない。自分のしてしまったことの大きさに、頭が真っ白になりそうだった。恐慌状態に陥ろうとするロクドを、そのときヨグナが力強く抱き締めた。ロクドは血走った目を溢れんばかりに見開いて、ヨグナを見た。ヨグナの顔は血の気が引いて、唇まで真っ青だった。ロクドは、自分の中に残った理性の最後の一片が、残りの意識を引き戻そうとするのを感じた。ロクドは何回か大きく喘いでから、震える膝で何とか立ち上がった。

「おれ、先生に、このこと」

 自分の声は動転しきって、まるで強弱が制御できていなかった。ロクドの服を握り締めたまま、ヨグナは頷いた。ロクドは男の死体を見た。ヨグナをここに残しておくわけにはいかない。ロクドはヨグナに呼びかけた。

「おれと一緒に」

 ヨグナはもう一度頷いた。去り際、ヨグナは一度養父を振り返ったが、そのあとはもう振り向かなかった。



 どう歩いて家に着いたか分からない。ロクドはヨグナを伴ったまま、カレドアの家の扉を開けた。

「その娘をこの家に入れるな」

 その瞬間、鋭い声が叩きつけられ、ロクドは全身を強張らせた。

 真っ暗な部屋の中で、カレドアが肘掛椅子に座っていた。寝間着に薄い外套を羽織り、静かに座っている。

「その娘を、この家に入れるな」

 カレドアはもう一度そう言った。ロクドは、一度だけヨグナを見たあとで自分だけ中に入り、ふらつきながらカレドアに近付いた。

「忠告したはずだ」

 カレドアが凍りつきそうに冷たい声で言った。カレドアは恐ろしいほどに冷静だった。

「害意は危険だと。そして何より、その娘にかかわるなと、私はきみに言った」

 ロクドは喉がつかえて何の言葉も発することができなかった。淡々と紡がれるカレドアの言葉だけが、静かな部屋に積もっていった。

「私はきみが心臓石を持つに値すると思った。やはり間違いだった」

 その後に続けた言葉だけに、カレドアの冷たい仮面の奥から絞り出された、ほんの僅かな感情の雫が滲んでいた。

「きみを弟子にすべきではなかった」

 何よりもその言葉がロクドを打ちのめした。ロクドは項垂れ、以降カレドアの顔を見ることができなかった。

 その後で、カレドアはロクドに破門を言い渡した。当然のことだった。カレドアは今すぐとは言わなかったが、ロクドは二階に上がっていき、すぐに荷造りをした。四年暮らした家だが、包むべき荷物は殆どなかった。ロクドが使っていたものは、衣服と僅かな日用品の他は、全てカレドアのものだった。それ程に、カレドアはロクドに自分の生活へ踏み込むことを許していたとも言えた。ロクドが荷物を纏める間に、カレドアは何も言わずに家を出ていった。扉の開閉の音で、ロクドはそれを知った。扉の外で今も一人佇んでいるだろうヨグナとカレドアが、そのときにどんな会話を交わしたか、或いは交わさなかったのかをロクドは知らない。カレドアが次に帰ってきたときには、全身に濃厚な死の香りを纏っていた。死体を神殿へと運んだのだろう。カレドアがあの大柄な男の死体を一人でどうやって運んだのかは分からないが、何か魔術を使ったのかもしれなかった。


 夜明け前にはカレドアの家を出た。カレドアは最後まで何も声を掛けず、ロクドも何も言わなかった。何時間か経過していたが、ヨグナは変わらずそこに立っていた。荷物を持っているロクドを見て、ヨグナは震えそうな溜息を吐いた。ロクドはヨグナに向かって、落ち着いた声音で言った。

「おれはきみの小父さんを殺した」

 少し間を置いて、ヨグナは白い顔で頷いた。

「おれのことが恐ろしい?」

 ヨグナはかぶりを振った。

「きみはおれを恨むか?」

 ヨグナはもう一度、首を横に振った。ヨグナは口を開き、小さな声で、しかしはっきりと告げた。

「わたしはあなたを恨まない」

 ロクドは暫く瞑目し、それから瞼を上げてヨグナを見つめた。ロクドは手を差し出した。声は震えなかった。

「おれと、来てほしい」

 ヨグナはおずおずとその手を握った。ロクドは今こそヨグナの手を力強く握り返した。ヨグナの手は傷だらけで少しざらついていたが、それでもその温かさだけは、記憶のままだった。



 街の出口には、何故かサリマトが立っていた。明け方の空は青白く染め上げられ、美しい濃淡を描き出している。地平線の端から顔を出そうとする朝日を背に、立ち尽くすサリマトの輪郭は道標のようだった。

「どうして」

 ロクドはサリマトに問い掛けた。サリマトと話すのは久し振りのことだった。

「ごめん、大まかなことは聞いた」

 サリマトが答えた。

「一時間ほど前に、カレドアさんがうちに来て。うちは仕事柄患者が死ぬことも多いし、神殿への受け渡しもしやすいから」

 カレドアは神殿ではなく、ガーダルのところへ行ったのだ。ロクドは納得した。それから、サリマトのことが気に掛かった。

「サリマトは、もう大丈夫なのか」

 サリマトが力無く笑った。

「ロクドらしいね。こんなときまで、他人を気遣うんだ」

「だけど……」

「私、村に帰ることになったよ。明日にもここを発つんだ」

「帰るって、でも、村は」

「分かってる」

 サリマトがロクドの言葉を止めるように手のひらを向けた。

「だけど、私の家族が、友達がどんな最期を遂げたか見てあげられるのは私しかいないんだ。それに、一人、生き残りがいるんだって」

「生き残り?」

「子どもだよ。近くの町で保護されてる。あたし、母親にしちゃあまだ大分若いけど、その子を引き取って暮らそうと思う。だってあたしが行かなきゃ、その子、本当にひとりぼっちなんだよ」

 サリマトが微笑んでみせた。ロクドは、一人きり遺されたその子どものことを考え、心を痛めた。ロクドは自らの心臓石に触れ、胸に手を当てた。

「サリマトとその子に、ルースの加護がありますように」

 サリマトは自分の心臓石に指を触れて、同じようにした。

「ロクドにも、加護がありますように。それから……その子にも」

 そこで初めてサリマトはヨグナの方を見た。ロクドは思わずサリマトに尋ねた。

「先生は……いや、カレドアは、彼女について何か……」

「いいや、何も」

 サリマトはかぶりを振って、そして笑った。

「だけど、ロクドがここまでする子が、悪い子なわけないって思う。あたしはね。そのくらいに、あたしはあんたが好きだよ」

「ありがとう……」

「おっと、感謝の言葉はまだ待ってよ。あたしはこの為に来たんだから」

 そう言うと、サリマトは手紙を取り出した。ガーダルの印、カミツレの封蝋がしてある巻紙だ。

「封は開けないで。うちの師匠からの紹介状だよ、魔術師のファルマという人へのね。これを渡せば、事情を察して受け入れてくれるはずだって、師匠が。君ら、どうせまだ行くあても決まっていないでしょ? これを持って、ナトーレンの町に行くんだ。そこにファルマはいる」

 ロクドはガーダルとサリマトの心遣いに胸が一杯になり、息を詰まらせた。溢れんばかりの、全ての感謝を込めて、ロクドはサリマトの手を握った。

「ありがとう、サリマト」

 サリマトは最後にもう一度微笑んだ。見送るサリマトを何度も振り返りながら、ロクドはカレドアの後ろ姿を思い出していた。カレドアがガーダルに連絡したのはおれの為だったのかもしれない、とちらりと思った。そうして、でもそれは自分がそう思いたいだけなのかもしれない、ともロクドは考えた。

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