第13話

「もう会ってくれないかと思った」

 隣のヨグナは黙っていた。二人は夜の街をゆっくりと歩いている。やはり街灯の獣脂蝋燭には火が点々と灯されていた。誰が灯したのだろう、と考えたが、今考えればヨグナに違いなかった。ここがヨグナの世界なのだとしたら。ロクドは、このときになって初めてヨグナに影がないことに気付いた。ヨグナは発光しているのだから、当たり前といえば当たり前だった。確かにカレドアの言う通り、ヨグナは人ならざる魔性の存在なのかもしれなかったが、ロクドはカレドアに厳しく忠告されたにもかかわらず、どうしてもヨグナを忌むべき存在だとは思えなかった。魅入られているとしても、構わなかった。ロクドはヨグナを愛したヨグナの義母を正しいと信じ、ヨグナの清らかさを信じた。自ら光を放つ彼女に灯りは必要ない。だとすれば、この灯りは他の誰でもないロクドのためのものなのだ。ヨグナはひたり、と音を立てて不意に立ち止まり、ロクドは彼女を見た。

「あなたこそ」

 ヨグナは悲しげだった。その白くまろい頰にはやはり傷一つなく、滑らかなまま燐光を発していた。

「わたしは、あなたの思っていたようなわたしではなかったでしょう?」

 その言葉は奇しくもカレドアの台詞と重なったが、ロクドは首を振った。

「驚きはした。だけど、それは結局外見のことだよ。外見はどうあれきみはきみであって、おれがきみを綺麗だと思うことは変わらない。誤解しないでくれ」

 ロクドはそう静かに告げた。正直な言葉のつもりだった。ヨグナは返事をせず、ただ溜息を吐いた。

「ただ、あの傷は――」

 その続きを口に出すのは躊躇われたが、確認しなくてはならないと思った。

「あの傷は……きみの小父さんが?」

 ヨグナは小さく頷いた。

 ロクドは言い知れぬ悔しさに襲われた。すぐに気付けた話だったのだ。あのとき、ヨグナは「商売が失敗してから、彼はひとが変わったようになってしまった」と言ったではないか。おそらく、あの後もヨグナはひどく殴られたのだろう。白猫亭の主人に金を借りることに失敗したのだから。

 険しい顔をしたロクドを安心させるように、ヨグナは明るい笑顔を作ってみせた。

「今に始まったことじゃないもの。命の危険までは感じたことはないし」

「そんなもの、時間の問題かもしれない」

 ロクドは、以前にあの路地で顔を合わせたヨグナの養父の姿を思い出した。あの荒々しい腕。赤ら顔なのは、酒に溺れているからだ。白目が濁り、鈍く精彩を欠く目、その奥には隠しきれない残虐性がちらついてはいなかったか。

ロクドは衝動のままにヨグナの手を握ろうと思ったが、それはできなかった。現実のヨグナの手は酷く傷付いていた。今ヨグナが痛みを感じることはないと知っていたが、それでも触れたら壊れてしまいそうな気がした。しかし、かつてヨグナがロクドの痛みを和らげてくれたように、ロクドもヨグナの痛みを癒したいと思った。ロクドはヨグナを見つめて言った。

「おれは、きみを助けたい」

 ヨグナは顔を泣きそうに歪めた。

「嬉しいけど、それはできないと思う」

「どうして」

 思わず詰め寄るような語調になって失敗したと思ったが、ヨグナはかぶりを振った。

「お金を、借りられなかったから。わたしが失敗してしまったから……わたしたち、すぐにでもこの街を出ていかなくちゃいけないの。もうここに住み続けるお金もないし――リズの町に住む友人に、お金を無心しに行くみたい。それも、期待はできないけれど」

 それを聞いて、ロクドは絶望感に打ちのめされそうになった。リズの町はあまりに遠すぎる。

「それはきみも行かなくてはならないの? ついていくことないじゃないか。小父さんだって、どうしてもきみを必要とするとは思えない。きみがやっていけるように、おれが手助けをする。おれはもう一人前の魔術師だし、例えば師匠から独立して、なんとかきみと一緒に食べていくことができるかもしれない。その……もし、きみがそう望んでくれるなら」

 ロクドは自分の心臓石を掲げて見せながら、ある種の期待をこめてそう言ったが、ヨグナは悲しげに微笑んだ。

「小父さんは許さないと思う」

「なぜ」

「いざとなったら、わたしの身体もお金になるから」

 ヨグナの言う言葉の意味を脳が理解するや否や、熱湯のような憤りがかっと身体を駆け上り、視界を赤くした。

「駄目だ、そんなのは。きみはまだ――」

「仕方ないの。だって、わたしは、わたしのものじゃない」

 ヨグナの言葉はロクドの心にざっくりと突き刺さった。ロクドは痛みを堪えながら、ヨグナと再び向き合う。何としても説得する必要があった。時間がない。このまま朝になれば、ヨグナはこれきり、ロクドの知らないうちに、手の届かない場所に行ってしまうかもしれないのだ。

「それに忘れてるかもしれないけど、わたしたち、こうして会って話すのはまだ三回目なのよ。あと、わたしは別にあなたに救ってほしいわけじゃない」

「分かってる、ヨグナ、それは分かってるけど……」

 ロクドは小さな子供がするように、繰り返し首を振った。もどかしさに叫び出したかった。

「それでも、駄目だ。絶対にそんなことにはさせない。何か方法があるはずだ。おれ、先生に相談して」

 そこでロクドはカレドアの拒絶の言葉を思い出して、思わず言葉を詰まらせた。

「いいの」

 ヨグナはロクドの逡巡を見抜いたようにそう言って、ロクドの手に自分の手を添えた。ヨグナの手はやはり仄かに温かかった。

「わたしのことを分かってくれて、心配して、覚えていてくれる人がいるというだけで。それだけで、幸せだから」

 ヨグナは「ありがとう」と言った。

 ロクドは腹の底からじわじわと焦燥感が込み上げてくるのを感じた。駄目だ、と思った。酷く後悔する予感があった。

「待ってくれ、話は終わってない」

「終わったわ」

 ヨグナはもう一度微笑んだ。今度の笑顔は悲しげではなかった。

「嬉しかった、綺麗だって言ってくれて。そんなこと、生まれてきて一度も言われたことなかったから」

「ヨグナ!」

 既に空間が歪み始めていた。ロクドはヨグナの名を叫んで手を伸ばしたが、ヨグナには届かなかった。抗いようもない速さで真っ白な霧が押し寄せ、街路灯が捻れ、石畳が波打ちうねった。家々が音もなくばらばらになり、上も下も分からなくなる。夢の世界が崩壊していく。

 ヨグナは最後に一度だけ振り向くと、溶けるように消えていった。

 しみ一つない、白の世界に。

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