第1章 呪われた子

第1話

 ドルメア公国の南西に位置するネルギの村は、周囲を深い森に囲まれた小さくも美しい村だ。夏にはブナやオークの葉が青々と茂り、秋にはかわいらしいカタバミの花や、紅く色付いたカラスウリの実がひとびとの目を楽しませる。冬は雪こそ深いが、反射した太陽の陽射しがきらきらと家の窓から差し込み、春には山からの清浄な雪解け水が川となって肥沃な土壌を潤した。

 毎日の暮らしの中では、ロクドは他の子供たちと何一つ変わらず過ごしてきた。野兎と共に野を駆け、木に登って果物を齧り、川に入っては魚を獲ってみせた。ロクドは人一倍身体が丈夫にできているようだった。生まれたばかりの頃に二、三日熱を出したことの他には風邪などひいたこともなかったし、ブナの高い枝から足を滑らせて落ちたときでさえも、両膝を擦りむいてべそをかく程度で済んだ。

 また、ロクドは学ぶことに貪欲だった。毎日のように老ザハンのもとへ通っては、春の柔らかい土が雨を吸い込むようにぐんぐんと知識を吸収した。長老は、役立つことも役立たないことも、さまざまなことをロクドに教えた。この村の歴史から、血止めや咳止めに効く薬草の種類、触れただけで死に至る危険な毒茸、染料になる植物の根、解けない紐の縛り方、病を追い払う簡単なまじない、山羊のお産を滞りなく進める方法など。全てがロクドの興味を惹くことがらであり、知れば知るほどロクドは新しい知識への渇望を覚えた。こと植物を正しく見分けることに関しては、この頃には大人と比べても劣らないほどの知識を持っていた。老ザハンが忙しいときには、子どもたちのみならず大人までもがロクドに意見を求めた。ロクドが村のどの子どもよりも抜きん出て賢い子どもであることは明らかだったが、ロクドはけしてその点について傲ることはなかった。大人たちはみな、ロクドがいずれ村を離れなくてはならない身であることを惜しんだ。

 あるとき、草木の汁を効率よく集める方法を学びながら、ロクドは老ザハンに尋ねた。

「呪いは、どこから来たんですか」

 長老はすりこぎを持っていた手を止めて、伸び放題の眉毛と垂れ下がった瞼の下から、ロクドをじっくりと見返した。

「おまえのその呪いについて、聞いておるのかね」

「はい、長老さま」

 老ザハンは植物の汁が付いた指を布で拭い、顎を覆う長い髭を摘んで引っ張ってから、ロクドと向かいあうようにした。長老はどう話したものか少しの間考えているようだったが、やがて口を開いた。

「光の神のことは、知っておろう」

「はい、かあさんから聞いたことがあります。光は全ての命の源。風が吹き、草木が芽吹き、果実が実るのも、山羊や人の子が健やかに育つのも、光の神、父であるルースの御恵みなんでしょう」

 そうだ、と老まじない師は頷いてみせた。

「じゃがな、ロクド、光あるところには必ず闇がある。この世界は、光によって守られているのと同じく闇によっても支配されておるのじゃ。これは揺るがぬ理なのだ……おまえの呪いは、言うなれば闇の力じゃ。光と拮抗し、大地を蝕む。かつて何ものかによって埋められた、強力な悪意と憎しみ。本来であれば、その呪いはこの村の地下深くで眠っているはずじゃった。わしらが気付かぬうちに、ひっそりと芽を出し、茎を伸ばし、根を張り、この地を瘴気で満たしたじゃろう。〈瘴気の大平原〉について、聞いたことはあるかの」

 ロクドが首を傾げたのを見て、老ザハンは「ちょっと待っておれ」と言って部屋を出ていき、一冊の古びた大きな本を手にして戻ってきた。老ザハンは元の場所に座り直して本を開くと、ロクドにもっと側に寄るように指示した。すっかり黄ばみ、うっすらと黴の浮いたその一頁をロクドは横から覗き込む。そこには、ドルメア公国の大まかな地図が記されていた。節くれだった枯れ枝のような指が、ネルギの村を指してから、その北に位置する森を通過してまっすぐ進み、その上の空白の部分で動きを止める。

「〈瘴気の大平原〉はおどろの森の外、このネルギから北北東の方角に広がる、荒れ果てた広大な地じゃ」

老ザハンは乾いた音を立てて頁をめくった。ロクドは息を飲んだ。今度は見開き一杯に黒一色の風景画が描かれていた。その絵は目が痛くなるほどの緻密な筆致で細部まで書き込まれており、引き込まれるような奥行きを持っていたが、ロクドの目に真っ先に焼き付いたのはその不吉さだった。広々とした大地と空、そして沼。しかし、そこには生命力といったものがまったく感じられなかった。木々や家屋の残骸が、そこかしこに崩れて散らばっている。重たげな厚い雲が渦巻いて、空を覆っている。沼は何か禍々しいものを孕んでいるかのように、暗く淀んでいる。神経質なほどに細やかな線の一本一本が伝えようとしているのは、そこに描かれた世界の美しさではなく、底なしの恐ろしさであった。

「そこには、鼠一匹、虫一匹棲まず、草木の一本も生えることはない。常に恐ろしい呪いの風が吹きわたり、足を踏み入れたすべてのいきものは命を失う。沼の底に沈んでいるのは、かつてそこに暮らしていたひとびとと獣たちの数えきれぬ屍だ。平原の周りは深い瘴気の霧に満たされ、湖は毒水に満ちておるという。そこは五百年も前に呪いの力によって滅んだ街の跡であると、わしは聞いておる」

 ロクドは胸のあたりが苦しくなって、浅い息をした。左腕の痣がじくりと痛んだような気がした。

「おまえの腕に今は息を潜めているその呪いは、本質的にはそれと同じもの。呪いとはそういうものなのじゃ、ロクド。おまえを苗床にしておまえと共に育っていくであろうそれは、それほどに恐ろしい。だからこそ、おまえはここに留まることができぬのじゃ」

 瞬きもせず、絵をじっと見つめながら何も言えないでいるロクドに、老人は口調を和らげた。

「しかしな、この地を離れればそう恐るることはない。その呪いは土地と結びついておる。呪いに気付かれぬよう、揺り起こさぬよう、ひっそりと村を出てしまえばその種が芽吹くことはないじゃろう」

 話はそれで終わりだった。そのあとは、ロクドは薬草を刻む作業になかなか集中できなかった。〈瘴気の大平原〉の話と、いつになく厳しい老ザハンの語り口調はロクドの心に消えることのない恐怖を刻んだ。

 また、ちょうどその頃ロクドは、腕を染める呪いの痣がじわじわと拡大しつつあることに気付いた。それは注意しなくては気付かないほどに緩慢ではあったが、ロクドの成長と共に確実に進行していた。その事実そのものが、老ザハンの話を裏付けているようだった。それからというもの、ロクドは長老の家を訪れる度にこの話と本に記された不吉な絵とを思い出したが、それでもロクドはそこに通うことをやめなかった。

 そんなロクドを一番近いところで見守っていたのは母だった。母はいずれ訪れる別れの分を補うかのように、惜しみなく愛情を傾けた。燦々と降り注ぐ春の日差しのように豊かな愛と慈しみを全身に浴びて、ロクドは健やかに成長していった。頭を撫ぜる母の手は細かい切り傷と手荒れのせいでけして美しくはなかったが、いつでも暖かく、陽だまりの匂いがした。母はロクドの燻んだ濃茶の髪も、呪いの証である真っ黒な手首さえ愛したが、それ以上にその瞳を愛した。よく澄んだ湖の底を覗き込んだような、深い蒼の瞳。それは父も母も持ち得ないものだった。よく晴れた春空の軒下で、照りつける夏の日差しの中で、またあるときは薄暗い暖炉の部屋で、母はロクドの瞳を見つめてはこう言った。

「ロクド、あなたの瞳は特別だわ。見る度に違った色の光を反射してきらきら光る、綺麗で不思議な瞳」

 ロクドは自分の瞳などまじまじと観察したことはなかったが、純粋に母が褒めてくれるのが嬉しかった。

 ロクドは一人村を出るさだめであるが、それは殆ど死を意味することだと、十を過ぎた頃にはもう気付いていた。十三の子どもがたった一人、大人の足でも六日は掛かる棘の森を抜けて別の村や町に辿り着くことは不可能に近かった。村でも、夜の森には経験を積んだ狩人だけが、十分な武器を携え二人組になって漸く足を踏み入れることが許されていた。夜の森は全てを覆い尽くす恐ろしい闇と、それと同じくらいに恐ろしい獣たちの世界だった。また、森にはときどき〈大平原〉から瘴気の風が吹き込むこともロクドは知った。ロクドは父と母とネルギの村とを離れがたく愛していたが、不思議と自分の運命を嘆いたことはなかった。それは幼い時分から父が繰り返した話のせいであったかもしれず、また老ザハンが語った闇の呪いの話のせいであったかもしれないが、ともかくロクドは自らのさだめを受け入れていた。自分一人が背負うことによって、ネルギの村は滅びの運命を免れる。それはロクドにとって救いであった。

 さだめを受け入れられなかったのは、寧ろ母の方であった。ロクドが十二歳になった年の冬が終わり、解けて水になった雪が屋根から滴る音が聞こえ始めるにつけ、母は塞ぎ込むようになった。母はまともに食事を摂ることをやめた。父とロクドのためには、いつもあたたかいスープやシチューが用意されていたが、母が同じ食卓を囲むことはもうなかった。ある晩、喉の渇きを覚えて寝床を抜け出したロクドは、母の震える涙声と、諭すような父の声を聞いた。

「私のせいだわ。私が何か、ルースの怒りを買うようなことをしたのよ」

「それは違う。ミド、長老が何度も言ったはずだ」

「でも、じゃあどうしてこんな、こんな残酷なことが。もう、二度と、会えなくなるのよ」

 母がしゃくり上げた。父が宥めたが、その声はやはり苦渋に満ちていた。

「初めから分かっていたことだろう。あの子が生まれたときから、決まっていたことだ」

「あんな小さな子どもが森を抜けられるはずないわ」

「あの子は強い子だ。きっと生きて抜けられる。そうすれば、あるいは呪いを解く方法も見つかるかもしれん」

「ああ」

 母が一際苦しげに息を詰まらせるのをロクドは聞いた。

「どうして私の子でなくてはならなかったの。ロクド、私の優しい子」

 ロクドは息を潜め、足音を忍ばせて寝床に戻った。喉の渇きなど、どうでもよくなっていた。身を横たえると、熱い雫が目尻を伝い落ちて、枕を濡らした。自分のさだめについて、涙を流したのは人生で初めてのことだった。しかし、それは自分のための涙ではなかった。ロクドは恨みという感情を知った。父と母を傷付け、痛めつけ、苦しめる自分の運命をロクドは深く恨んだ。途切れることのない母の啜り泣きとともに幾つもの夜が過ぎ、木々の柔らかな新緑はやがて艶のある深い緑へと変わった。この頃には、ロクドの痣は前腕の半ばあたりにまで広がっていた。

 十三歳を迎える前日、よく笑っていたあの頃とは別人のように痩せこけて、目を泣き腫らした母は、ロクドを暖炉の側に呼んだ。

「あなたにこれを」

 そう言って、小さな革袋から首飾りを一つ取り出し、ロクドの首へそっと掛ける。美しい蒼い石のついた首飾り。細い革紐の結び付けられたその石は、傾けると複雑に光を反射しては深い海の青、澄んだ泉の透明、枯草色へと神秘的に色を変えた。石が触れた胸元から、不思議に温もりを感じたような気がして、ロクドははっとした。

「かあさん、これは」

「あなたの瞳の色にそっくりでしょう」

 母が両手でロクドの頬をそっと包む。肉が落ち骨張ってはいたが、その手は変わらず昔の温かさを伝えた。

「昔、おばあさまから戴いたものなの。おばあさまはひいおばあさまから……光の神の祝福を受けた、かあさんの家に代々伝わる宝物よ。ずっとあなたに似合うと思っていた。この石が、きっと、あなたを守ってくれるわ」

「そんな大切なもの、かあさんが持っていなくちゃ」

 ロクドのその言葉を聞いた瞬間、母は酷い痛みを堪えるように顔を歪めた。「いいのよ」と絞り出す。

「かあさんのことは、ロクドが守ってくれるのだから」

 そうして、母は石を握っているロクドの手を、その上から固く握りしめた。華奢な母の指にこんな力があったのかと、ロクドは意外に思った。触れているところから、母の深い悲しみと愛がロクドの腕を伝わって、心臓をきつく締め付ける。不意に、母が今すぐにでも簡単に壊れてしまいそうに繊細で、昼には消えてしまう二輪草の葉の朝露のように儚い存在に思えた。思わずロクドは母に呼び掛けた。

「ぼく、絶対に帰ってくるから」

「そうね、あなたは強い子だから」

 母が顔をくしゃくしゃにして笑ってみせた。

「帰ってきて、ロクド」

「絶対に」

「絶対に」

 母の涙が二人の手を濡らした。

 そのあとで、ロクドは父と二人で旅支度をした。村を出るロクドには誰一人ついていってはならぬと老ザハンが言ったから、支度をするのはロクド一人分だったが、父が無言で大量の荷物を詰めようとするので随分と時間がかかった。もっと前から準備しておくべきだったのだが、父も母も頑なに今日まで鞄を出さなかったのだ。これはロクドの想像だが、おそらく二人とも、旅支度を済ませることで、ロクドが旅に出るという事実と向き合わなくてはならないことを恐れていたのだと思う。まだ小さなロクドには大きすぎるように思えた革の肩掛けも背負い袋も、保存食や清潔な布、小さなナイフ、腫れ物によい炙ったオオバコの葉、揉んだカタバミの葉を瓶に詰めたものなどで最終的にはいっぱいになった。すっかり用意し終えると、父は目を瞑り、何か思い詰めるような顔をした。ロクドは黙って、父が何か言うのを待っていた。ややあって、目を開けた父は、自分の前に座るようロクドに言った。ロクドはその通りにした。

「恐ろしいか」

と父は問いかけた。

「いいえ」

とロクドは答えた。

 また暫く父は黙ってロクドを見つめてから、絞り出すように言った。

「今夜のうちに、とうさんとかあさんと三人で、この村を出て行くこともできるのだ、ロクド。そして、森を抜けて、別の村で暮らすのだ。三人ならば、安心だろう」

 それは出来ないことだと分かりながら、父がそう言ったのが分かった。父が弱い一人の人間であるということを、ロクドは初めて知った。この驚きは、守るように、また成長を阻むようにロクドを覆っていた見えない殻に一本の大きな罅をいれた。ロクドは座った父の膝を見つめて答えた。

「旅立つことは、恐ろしくありません。ただ、このままかあさんの心が弱っていって、死んでしまうことは恐ろしい」

 父が苦しげな溜息を漏らした。父は腰を上げ、不器用に、しかし力強くロクドを抱き締めた。生まれてから、父からの抱擁を受けたことは一度もなかった。ゆるしてくれ、と小さな声で父が呟いた。父の胸の逞しさ、その奥で脈打つ血液のあたたかさが、この夜ロクドが初めて知った二つ目のことだった。

 旅立ちの朝、小さな身体に不釣り合いなほど大きな荷物を背負ったロクドは、村の出口に立っていた。まだ早い時間なので、空気はひんやりとしている。低い太陽が、ロクドの足元に灰色の影を伸ばしていた。母はそっとロクドを抱擁し、額に唇を押し当てた。

「月と太陽、偉大なる光の神、ルースの加護が、いつもあなたの上にありますよう」

 そう呟いて、名残惜しげに身体を離した母の肩を、父が抱いた。

「ロクド」

 父は言った。

「生きて森を抜けてくれ。そして、探すのだ、呪いを解く方法を」

 父からはもう、昨夜の弱さを感じることはできなかった。ロクドは黙って頷いた。

「十分に、別れは済ませたかの」

 老ザハンが歩みよってきた。長老に命じられて、村のひとびとは一人残らず家に篭り戸をぴったりと閉じていたので、今ここに立っているのはこの老ザハンと、父と母、そしてロクドだけだった。老人は父と母とに向かい、厳かに言った。

「追ってはならぬ。会いに行ってもならぬ。この子は、死んだと思うことじゃ」

 母が微かに身体を震わせ、肩を抱く父の手に力が篭った。老ザハンは、今度はロクドに向き直った。

「よいか、戻ってはならぬ。振り向いてもならぬ」

 老ザハンは全く温度の抜け落ちた表情をしていた。長老としてロクドたちを見守ってきた老ザハンは、いつも優しげで温和な顔をしていると思っていた。しかし、今は年月を経たつめたい石壁のように硬くひんやりとして、皮膚に刻まれた皺の一本一本が、拒絶するような鋭さを内包していた。ロクドの何倍もの歳を重ねてきた老人の、隠された一面であった。ロクドは首飾りの石を握り締め、頷いた。最後に、ロクドは目に焼き付けるつもりで父と母の姿を見つめた。迷子の子どものように立ち尽くす二人の姿は、在りし日の姿よりも小さく、頼りなげに見えた。

 こうしてロクドは旅立った。

 よく晴れた夏の終わり、十三回目の誕生日のことだった。

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