第4話

 扉の閉まる音ではっと目を覚ました。長椅子から転がりおち、悲鳴を上げる。向こうのほうから呆れたようなロクドの声がした。

「先生、もう行きましたよ。起きるのが遅いなあ」

「どこに行った?」

「多分、タタン通りのほうですね。この時間だと……」

「追いかける」

 ライネルは腰をさすりながら立ち上がった。二日も続けて長椅子で眠ると身体の節々が痛む。少し工夫が必要そうだった。風邪を引かないようガウンは着たままだだったので、そのまま出て行こうとすると、ロクドに鋭く呼び止められた。

「ガウン、目立ちますよ」

「じゃあシャツ一枚で行けっていうのか? 厳しいことを言うな」

 振り向いた瞬間、黒っぽい外套が投げ渡された。

「これは?」

「先生のですけど。まあ、大丈夫でしょう」

「きみ、本当にできるやつだな。礼の言葉はあとでたっぷり聞いてくれ」

「道分かるんですか?」

「人に聞く!」

 外套を羽織り、ライネルは部屋の中を振り返りもせずに飛び出した。今頃少年は呆れ顔で、自分ひとりの分の朝食を用意しに台所へ戻るところだろう。

 何人か捕まえて道を尋ね、神殿の周りを散々駆けずり回った挙句、目抜き通りから三本離れた細い通りに差し掛かったところで漸く見慣れた後ろ姿を発見した。息を切らしながら駆け寄る。

「ようやく捕まえたぞ」

 カレドアは振り向きもしない。

「どうして俺を避ける? あまりに冷たいんじゃないか、レドニス」

 カレドアは立ち止まって振り返り、ライネルを鋭く睨みつけようとして、目を丸くした。

「おい、その外套は私のじゃないか」

「俺のが似合ってる」

「そんなわけがあるか」

 咄嗟に言い返し、すぐにカレドアはばつが悪そうに黙り込んだ。ライネルはカレドアの顔を覗き込んだ。

「なあ、レドニス。どうして俺の名前を呼ばない」

「私はそんな名前じゃない。お前もライネルじゃない」

 カレドアは頑なな声音でそれだけ言い、再び歩き出そうとした。苛立ちを覚え、ライネルはカレドアの手首を掴んだ。その瞬間、ライネルの手はぎょっとするほどの素早さで振り払われた。

「触らないでくれ」

 カレドアはもう片方の手で自分の手首を掴みながら、押し殺した声で言った。視線には敵意の色さえあった。ライネルは自分の指先にひどい冷えを感じた。

「なあ」

 ライネルは乾いた声で言った。

「お前はやっぱりレドニスだ。何故だ。なにがこの世界のお前をそんなふうにした」

 カレドアは答えなかった。大通りのほうから、微かに遠い喧噪が響いていた。この場を埋める冷え切った沈黙とまったく対照的なその賑やかさは、今においては非現実的にも思えた。ライネルはゆっくりと喋り始めた。

「ここはトラヴィアじゃあない。俺に分からないはずがないだろう。随分と様子が違ってはいるが、ここは俺の故郷だ。ファルヴィアだ。どうしてここに風車がある。なあ、ここはいったいどういう世界なんだ。どうしてお前だけが俺を知っている。お前は何を知っている」

 カレドアが顔を背けようとした。ライネルは熱い怒りがかっと脳天へと駆け上がるのを感じ、カレドアの胸倉を掴んだ。今度はカレドアは振り払わず、ただ瞼を閉ざした。暫く沈黙を守ったあと、魔術師は口を開いた。

「お前は勘違いをしているな。『並行』じゃない。『』なんだ」

「どういうことだ」

 ライネルは困惑した。カレドアの瞼が薄く開き、現れた瞳がはっきりとライネルを捉えた。なんの像も映しだそうとしない黒曜石の瞳が。凍てつく木枯らしの寒さばかりでなく、ライネルは背にどこかうすら寒いようなものを覚えた。

「これ以上、何も質問しないと誓え」

「なに?」

「何も質問をするな。誓えないなら私はお前ともう口をきくことはない。家からも出て行ってもらう」

 二人は身動きもせず、長い間睨み合った。身も心も凍りついてしまったかのように思われたころ、頭上で烏が鳴いた。それで、ライネルは目を瞑り、カレドアの胸倉から手を離すと白い溜息を吐き出した。

「分かった」

 カレドアは乱れた襟元を直し、家屋のひとつに視線を遣った。暫くの間、彼はその壁の下のほうを睨みつけていた。そして、やがてこう言った。

「お前は、ここに来てから一度も年号を聞かなかったな。今はドルメア歴八二五年だ」

 ライネルは絶句した。今耳に届いた言葉が俄かには信じられなかった。カレドアはライネルのほうを見ずに続けた。

「お前が神殿に所属していた頃から、既に五百年が経過している。ここはロクドの言っていた並行世界エンカデアや、別の世界なんかじゃない。紛れもないお前の世界だ。たったひとつの。地理が違う? 当然だ。お前は、過去から来たんだ」

 激しい混乱に目が眩み、様々な疑問が脳裏を駆け巡った。並行世界と同じくらい荒唐無稽な話だ。それじゃあ、この世界で俺はどうなったんだ。お前はどうして生きている。なんのために。

 疑問の全てを端から問いかけようとして、ライネルはすんでのところで口を閉ざした。ライネルはもう約束をした。答えが返ってくるわけがない。

 それでも、ライネルは諦めたように、「やっぱり、ひとつだけ質問させてくれ」と呟いた。

「五百年前、俺とお前は友人だったのか」

 答えはなかった。

 答えがないのが答えだった。ライネルは目元を片手で覆った。

「過去は上に位置し、未来は下へと続いていく。水の流れと同じに、時間の流れは一方通行だ。ルースの理にそれを逆転させる術はない。お前がどのような理由でここまで『落ちて』きたのかは分からないが、ドルメア魔術を使おうとする限り、お前が元の座標に戻ることはないだろう」

 カレドアは低い声で呟き、口を閉ざした。重たい沈黙が再び二人を包んだ。ライネルは目を覆ったまま立ち尽くしていた。

 長い時間が経ってもカレドアはまだ壁を見つめていたが、やがて気の抜けた笑い声が耳に飛び込んでくるのをみとめ、ライネルのほうを向いた。ライネルは笑っていた。

「よかった」

 ライネルが呟いた。カレドアは意味が分からないという顔をした。

「気でも触れたか」

「やっぱり、お前は俺の知ってるお前だったのか。俺の友達のレドニスか。よかった」

 本当によかった、ともう一度呟くライネルを見つめ、カレドアは言葉もなく立ち尽くしていたが、やがて一歩後ずさった。そしてライネルに背を向け、何も言わずに歩きだした。ライネルはその後を追いかけ、声を掛けた。

「どうして帰るんだ?」

 カレドアは掠れた声で、しかしはっきりと返答した。

「お前と歩きたくない」

「何言ってんだ、ガキじゃあないんだからさ。お前、言ってること本当か知らないけどさ、五百年経っても全然変わらないな」

「うるさい」

 そのあとも、家に帰り着くまでライネルは何度もカレドアに話しかけたが、もう返事は返ってこなかった。

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