携帯電話



 梨人が保健室の戸を開けたとき、孝子はデスクに頬杖をつき、怠惰な様子で、携帯をいじっていた。


「先生」

 呼びかけると、何故か慌てて蓋を閉じる。


「あ、ああ、蒲沢くんか。

 サボり?」


「いきなりそう訊くのもどうでしょうね。

 教頭先生が呼んでらっしゃいましたよ」


 そう? と孝子は立ち上がり、出て行った。


 だが、もちろん、そんなのは嘘だ。

 梨人はデスクの上の携帯を見下ろす。


 今の慌て具合、個人的なことなら興味はないが、どうもこのところ様子がおかしいからな。


 悪いと思いつつ、携帯を開ける。

 メールの送受信欄の名前をツラッと見た。


 中身まで開けてみるのは、やはり気が引ける。

 最初のふたつくらいを確認し、後回しにする。


 そして、電話の着信履歴。


 おや? と思う。


 最後の辺りだけ日付が飛んでいる。

 自分は携帯を持たないが、履歴というのは、せいぜい残って一ヶ月のようだ。


 それなのに、そこには、三ヶ月近く前の着信が残されていた。


 恐らく、いつ頃からか、この辺りが消えないよう、保存の容量を越えそうになると、新しく着信したものを削除していったのでは……?


 そう思いながら、その辺りに目を通す。


 本当になって欲しくない予想ほど当たるもので、やはりそれは、あの事件の頃の日付けだった。


 それら古い日付けの中央に残されている名前は、『深沢綾』。


 それは、孝子が刺された日、刺された時刻の少し前のものだった。


 あの日、綾と孝子は出会っていた。

 だから、そこに着信履歴が残っていてもおかしくない。


 出会うために綾がかけたものだろうと警察もそこは気に留めなかったに違いない。


 だが、孝子は何故か、その前後も含め、履歴を残している。


 まるで、あの日、あの時刻に自分を呼び出したのは、『深沢綾』だけだと確認するように。


「梨人」

 ふいに戸が開く音とともに呼びかけられ、梨人は慌ててそれを閉じた。


 入ってきたのは修平だった。


「此処に居たのか。

 まあ他にお前が潜んでそうなとこないもんな」


 どいつもこいつも人聞きの悪い、と思ったとき、修平が言った。


「あれ? 桜井は?」

「教頭に呼ばれた―― ということにした」


 梨人は孝子のデスクに腰で寄りかかって呟く。


「桜井は思い出しかけているのかもしれないな。

 自分が誰に刺されたのかを」


「まずいじゃないか」

「……まずいな」


 なに落ち着いてんだよ、お前~っ、と修平がわめく。


「まあ、一時的に桜井の記憶を押さえることは出来るだろうが」


 カナエにかけている術だって、ほんとにかかってるかどうかあやふやだ。


「俺だってたぶん……昔ほどの力はないんだよ」

「はあ、まあ、派手に遣りすぎたからなあ」


 桜井が戻ってこないうちに、と二人は保健室を後にする。

 並んで歩きながら梨人は言った。


「しかし、なんか違和感があるな。お前より背が低いの」


 そう言うと、修平は、は? と言う顔をした。


「お前、ずっと俺より低かったろ?」


「……あれだけは気に入ってたんだがな、冴木の身体。

 お前も宮迫も見下ろせて、いい気分だった」


 そう呟くと、ああ、ああ、と修平は笑う。


 その横顔を見ながら、くそう、小学校の途中までは俺の方が大きかったのに、と思っていた。



「お前、他が揃ってんだから、身長くらい負けてくれよ。

 っていうかさ、別にお前も低くはないよ」


 確かにそう小さい方ではない。


 だが、周りが特別大きすぎるし、それに――


 あー、と修平は気づいたように言う。


「梨湖とあんまり変わんないからか。

 ありゃしょうがないだろ、あいつがデカイんだから」


「……俺の方が二センチ高い」


 思わずそう言ってしまい、らしくない、ちっちゃなことを、と修平が吹き出した。


「でもそうか。

 そこの昇降口で、冴木康介と出会ったとき、なーんか違和感感じたのは、お前が入ってたせいだな、きっと。


 何かこう、お前の気配を感じたのに、上から見下ろされたから、違和感があったんだ」


 そうだ。

 あの日、冴木康介として、桜井孝子を訪ねた日、昇降口付近で、梨湖と修平と会った。


 梨人は遠い目をして、今は明るい日差しの差し込む、開け放たれたままのそこを見る。


 そこを桜井孝子の影が過ぎった。


 こちらを向いて、あ! と声を上げる。


「ちょっと! 教頭呼んでないって言ってるわよっ」


 そうですか、と梨人は微笑む。


「きっと、桜木先生とおっしゃったんですね。

 間違えました、すみません」


「……あんた、桜木先生は去年退職されたでしょう?」


 淡々と笑顔で嘘をつく梨人を睨んだが、追求するだけ無駄だと思ったのか、そもそも諦めのいい孝子は、


「ま、いっか―」

と呟き、戻っていった。


 その後ろ姿を、自分を刺した相手も、ま、いっか、で済ませてくれないだろうか、と思いながら、梨人は見送る。





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