ニンギョウ
冴木は開けていたドアを閉め、『彼女』の許へと戻る。
その小さな顔を見下ろし問うた。
「……梨湖様。
いつから俺を疑っていた」
目を伏せ、淡々と梨湖は告げる。
「此処で淋しがっていた私に、お前、言ったろう?
そろそろ家に帰りたくなったか、と。
妙な言い回しだと思った。
元に戻せない人間に、そんな言い方をするはずないからな」
「お前には迂闊に同情もできないな」
冴木は、そう強気に鼻で嗤って見せた。
「これは……お前の復讐だったのか?」
そう梨湖は問うてくる。
「なにが?
元に戻せるとわかっていたのに、放っておいたことか?」
そうかもな――。
そう素直に冴木は認めた。
都の書棚でニンギョウを見つけたとき、あれに力が溜まったままなのに気がついた。
神護山に由来する力を持つ梨湖たちと自分とでは、力の質が違う。
残り僅かな自分の力を媒介に、このニンギョウを梨湖の腹に居るいにしえの神と融合させれば、完全に穴を塞げるのではないかと気がついた。
梨湖の中に存在している不安定な神々を都や女たちの力の詰まったニンギョウで固定化させる。
永遠に持つ保障はないが、少なくとも、今までみたいに生気を掻き集めて生きなくても済むはずだ。
試してみる価値はあると思った。
だけど、そうとわかっていて、ニンギョウを隠したのは――。
「お前のためにすべてを捨てたが、まあ、少しは後悔していたよ。
自分が何も出来なくなった悔しさより、自分がこんなにも無力だったと思い知らされた辛さの方が増さっていた。
いわゆる人生初めての挫折だな」
その年で初めての挫折か、と梨湖は眉をハの字にする。
「まあだから、ちょっとその切っ掛けを与えてくれたお前に嫌がらせをしてやろうかと」
そう思ったはずだった……。
だけど、そのうち、わからなくなった。
自分でもどうしたいのか、わからなくなった。
「お前はなんで黙ってた?」
と梨湖に問う。
「俺がお前を生き返らせる方法を知っているとわかっていたのなら」
「……お前に残る最後の力を使わせるんじゃないかと思って抵抗があったんだ。
それに、お前がもし、私に嫌がらせをしたいのなら付き合ってやろうかと」
「その考えを覆したのは、桜井のためか」
「そうだな。
人の記憶を消すことに関しては、恐らく私が一番長けている。
梨人は神護山の力を使いすぎた後遺症が続いてるから無理だしな。
桜井が綾と直接対決する前に止めたかったんだ」
あの二人の、事件に関する記憶を完全に奇麗にしておきたかったのだろう。
だが、それにはもう時間がなかった。
「ニンギョウは何処だ?」
「あの監察医務院だ。
お前の身体と一緒にしまってある」
「今―― 蘇らせてくれるつもりだったのか?」
「……そうだな」
「私の魂が何処に居るかもわからないのに?」
そう問う梨湖の顔は、少し笑っていた。
そうだな! と怒ったように言うと、梨湖は、そっと自分の手を取る。
「……ありがとう、冴木」
そして、
「ま、ちょっと懲らしめられるくらいで、ちょうどいいと思っているよ」
そう言い、梨湖は笑って見せた。
梨湖たちは、富樫たちにうまいことを言ってロッカーのある部屋に入り込み、彼らを追い払った。
ロッカーから出されたニンギョウと自分の身体。
冴木が力を移したあと。
ちゃんと立たせてある空になったニンギョウの側で、梨湖は自分を覗き込み、そっと口づけた。
ぴりり、と冷たいその唇に、肌がはりつく感じがした。
一瞬、視界が揺れる。
真っ暗な中に意識が入り込み、恐ろしくて、つい、もがこうとした。
――梨人っ!
だが、自分の手が現実に何かにぶつかり、梨湖は目を開けた。
白い天井が見える。
見下ろしている冴木の顔。
「私――」
冴木は少し困ったような顔で笑う。
「久しぶりだな……梨湖様」
梨湖は自分の胸の上に倒れ込んでいる都を見る。
少し身を起こし、彼女をそっと床に横たえた。
都の意識は本当に戻りかけている。
自分の意識が飛んでいたとき、あの書棚の前に立っていたのは、恐らく、都がニンギョウに隠していた残りの力を求めて捜していたからだろう。
気づいた冴木が既に、こっそり持ち出しているとは知りもしないで。
冴木にカマをかけるため、ニンギョウの話をしたのは、或る程度賭けだった。
都が捜し、見つけられなかったものが本当にニンギョウだったのか、梨湖は知らなかったのだから。
だが、あれが唯一、力を溜められ、運べるものだったから。
たぶん、そうではないかと思っていた。
恵美子はその姿の投影にニンギョウを使っていたのに、途中から使わなくなっていた。
あれは、ニンギョウが梨湖たちの身近な場所から消えてしまったからなのだろう。
じっと都を見下ろしていると、冴木が、いいから早くいけ、と言う。
「都は知り合いの医者に頼んで、取りあえず眠らせておく」
側にしゃがみ、冴木は都の身体を抱えようとした。
梨湖は立ち上がりざま、冴木の胸に触れ、軽く口づけた。
冴木の動きが止まる。
梨湖は口許を拭うようにして、離れ、
「……あまった力は返したからな」
そう言い置いて、部屋を出て行く。
もう後ろは振り返らなかった。
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