梨人

 

 梨人はソファに座り、アルバムを捲っていた。


 幼い自分を、顔だけならまだ女子高生にも見えるカナエが抱えている写真がまずあった。


 少し遅れて、白いおくるみに包まれた梨湖の写真。

 頭にはわずかに、やわらかそうな毛があるだけだ。


 今も変わらぬ邪気のない顔がきょとんとしていて可愛らしい。


 そうか―― 俺は五月、梨湖は七月生まれ。


 俺は二ヶ月もお前が居ないまま、過ごしていたんだな。


 ふと冴木康介の言葉を思い出す。


 自分の頬に触れ、お前たちは年々似てくるといったあの男の言葉。


 この時点で、似てんのは、頭のハゲ具合だけだがなあ、と思ったとき、後ろでカナエがお茶を淹れながら言った。


「梨湖はいつ、合宿から帰ってくるんだったかしら?」


「――十九日だよ、カナエさん」


 こうして、日々、カナエの中の時間軸をずらしていっている。


 こんなことをして、なんになるのかと問う自分も居た。


 梨湖が帰ってこれる保障もないのに。


 俺は――

 悲しみを先延ばしにさせてるだけなんじゃないのか?


 カウンターの向こうで紅茶を淹れているカナエを見ながら、梨人はアルバムを閉じた。


 閉まってあった押入れの匂いが空気とともに、鼻に当たる。


「今日はアールグレイね。羽村先生にもらったから」


 強い香水のような香りの紅茶が目の前に置かれる。

 梨人は笑って言った。


「あの先生、カナエさんに気があるんじゃないの?」


 冗談まじりに言うと、カナエは、

「まあ、もてるからね、私」

とさらっと流して笑う。


 カナエが再婚しないのは、梨湖のことを思ってだろうか、それともまだ……。


 自分だったらどうだろう。


 赤い紅茶に口をつけながら、梨人は思う。


 きっと本当に梨湖が消えてしまっても。俺は他の誰とも居たいとは思わない。


「ありがとうね、梨人くん」


 ふいにそんな言葉が聞こえて、ぎくりとする。


 カナエは素知らぬ顔で紅茶に口をつけていた。


 


 ちょっと梨湖に借りたものがあるから、そう言って、二階に上がった。


「適当に帰るから。鍵かけとくよ」


 階段の途中から叫ぶと、はいはい、という声が聞こえる。


 娘に似て風呂の長いカナエがお湯を入れる音を聞きながら、梨人は暗い二階へと足を向けた。


 しんとした二階の窓はところどころ開けられている。


 少し涼しくなった風が、相変わらず開け放たれているそれぞれの部屋のドアの間を行きかっていた。


 さっきのカナエの言葉が気になっていた。


 もしかしたら、カナエはすべて気づいているのかもしれない。


 なんと言っても、あの梨湖の母親だ。多少の力は持っているのではないだろうか。


 今の自分のチャチな術など、本当はかかっていなくて、かかっているフリをしてくれているだけなのかも……。


 梨人は電気もつけずに月明かりで廊下を進み、左手にある部屋に入った。


 今にも梨湖が振り返り、なんだ、いきなり入ってくんなよ、と言い出しそうだった。


 思わず梨人は口許に笑みを浮かべる。


 梨湖――。


 だが、見つめたそこには、持ち主を失った机があるだけだった。


 窓からあの住宅街の道を見下ろしたあとで、机の横のベッドに腰掛ける。


 しばらく窓からの風に当たっていたが、未だに調子が完全ではない身体は重く、ベッドに横たわる。


 ふと顔を横に向けると、枕カバーに頬が当たった。


 梨湖の使っていたシャンプーの残り香がまだ、そこにある。


 ……女々しいな。


 自分を戒めるようにそう呟き、天井を見つめる。


 あの日見た、白い天井。


 目の前には長い梨湖の黒髪が鼻先まで垂れ下がり、揺れていた。


 白い小さな梨湖の顔がすぐそこにあって、困ったように自分を見つめている。


 今も彼女がそこに居るような気がして、つい手を伸ばしてしまう。


 だが、もちろん空を切ったその手に、むなしさを覚え、すぐにおろした。


 いや、むなしかったのは、記憶の中のその手が自分のものではなかったからか――?


 今になって思い返してみると、正直、何処までが冴木康介で、何処までが自分だったのかわからない。


 冴木の記憶の中には、すべてが残っているはずだ。


 あいつは、梨湖をどう思っているのだろう?


 少なくとも、あいつは梨湖のためにすべてを捨てた。


 ――それだけが真実だ。


 目を閉じると、まだ微かに蝉の声が響いていた。








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