金曜日

き・つ・ね


 ん――。

 なんか下が騒がしい。


 まだベッドに入ったまま、梨湖は目を擦っていた。


「梨湖様っ!」

 派手にドアが開いた途端、脚に重みを感じる。


「飛び乗るなっ!」


 無法地帯か、この家は!?

と、勝手にベッドの上に乗ってくる冴木を振り落とそうとしたが、止められる。


 冴木は真剣な顔で、梨湖の両腕を掴んで言った。


「梨湖様……板倉が死んだ」

「――え?」




 状況を告げ、軽く打ち合わせたあとで、冴木は帰っていった。


 制服に着替えた梨湖は下に降りて、母親に訴える。


「ママー、もう、勝手に冴木……さん、部屋に入れないでよ」


 あら、いいじゃないの、と都の母は笑っている。


「婚約者なんだし」

 そんなもんか? と思いながら、朝食の席についた。


 都の父は最近、忙しい合間を縫って、ちゃんと一緒に朝食を食べてくれる。


 病み上がりの娘を気遣ってのことのようだった。


「都。ママ、今日も遅くなるから。

 晩御飯、冴木さんがお暇なようだったら、ぜひご一緒にってお願いしてあるから」


 知らなかったが、都の母親は有名なチェリストらしい。

 それで家を空けることが多いのだ。


 都はチェロはやらないが、ピアノが弾けるらしく、いつ弾いてみろと言われるかと、びくびくしていた。


 ピアノは早い段階で投げ出していたからだ。


 結構長く続けていたのは梨人の方で。今でもかなり弾けるはずだった。


 それにしても、こうやって強引なまでに、冴木との仲を勧めようとするのは、何故なのだろう。


 幾らいい縁談にしても、都はまだ高校生だ。


 些か強引過ぎる気がしていた。


 梨湖は焼き立てのパンを千切りながら、家族を窺う。


 一見、明るく穏やかな都の家庭に、時折、垣間見える亀裂。


 両親は、都に遠慮がちに接しているように見えた。


 可愛がってくれてはいるのだが、何処か距離を置いている節がある。


 まあ、それはそれとして、今は自分のやるべきことをやらなければ、と梨湖は都の顔を作って微笑んだ。


「ねえ、ママ。空のおべんと箱、ひとつ頂戴」

 



 言われた場所に行くと、まだ現場は雑然としていた。

 いつものあの公園の裏の通りだ。


 幸い、近隣の学校の登下校路からは離れているが、それでも公園越しに見えるので、みんな覗き込んで行っている。


 警察が居る現場側に歩いていくと、冴木は見知った所轄の刑事と話していた。


 その少し年配の刑事、松田と目が合ったので、頭を下げる。


 松田は戸惑うような顔をしながらも下げ返してきた。

 それに気づいた冴木が、こちらを見る。


 よう、と、さも驚いた風に手を上げて見せた。


 手招きする冴木に、

「いいの?」

と言いながら、ギリギリ入って問題なさそうなところまで行く。


 冴木が松田を振り返っていった。


「ああ、紹介しとこうか。別に援交とかじゃないぞ。

 家同士で決めた俺の許婚だ」


 決めたのお前だろ、と思いながらも、そうしておいた方が話の通りがよさそうなので、

「児島都です」

と梨湖はそれに逆らわずに、微笑む。


 あ、どうも、と照れたように頭を掻きながら、松田は言った。


「いや、びっくりしました」

「若いからか?」


「それもですが、ちょっと、あの子に似てますね。鏑木梨湖――」


 本人だよ、中身は……。


「親に決められたっていったら、ちょっと、やな感じですけど。

 いいですね、美人で」

と松田は冴木に向かって笑いかけている。


 だろ? と言ったあとで、冴木はこちらに向き直り、訊いた。


「で、なにしに来たんだ?」


「あ、あのね。近くに来てるって聞いたから、お弁当、持って来たの」

と梨湖は可愛らしい包みに入れたお弁当を示して見せる。


 松田は微笑ましげに見ながら、少し遠慮するように離れて行った。


「おい、梨湖様」

 そちらを窺いながら、少し小声で冴木が訊いてくる。


「弁当箱の中身はなんだ」


「パンだよ、パン」

「パン?」


「クリームパンだ。

 私、好きなんだよ、此処の。


 二個入ったから、二個入れておいてやったぞ」

と、ちょっと恩着せがましく言いながら、弁当箱を振ってみせると、冴木は顔をしかめて言った。


「オマエ、一生嫁行けねえ……」


 行く予定もない、と冴木の手にそれを押し付ける。


 元々、此処に長居するための小道具だ。


 中身など必要ないのに入れてやったんだから、ありがたいと思え、と思っていた。


 本来この事件に、冴木は関係ない。


 たまたま、自分が関わっていた連続殺人事件のあった通りの近くで、事件があったから覗きに来た、という設定なので、そこに関係ない梨湖まで長居するには、何某かの小細工が必要だろうと思ったのだ。


「……何か見えるか?」


 弁当を手に、声を落とした冴木が、血溜まりの跡を見ながら問う。


「板倉、居るな――。


 無言だ。


 こいつ、自分が死んだこと、わかってるのかな?」


「ナイフで心臓を一突き。ショック死に近いような状態だったらしいから、どうかな?」


 冴木は梨湖の視線を追い、公園の茂みの方に目を凝らす。


 今の彼に、板倉の姿が見えているのかいないのか、梨湖にもわからなかった。


 ぼんやりとした人影。


 俯きがちで蒼褪めたその顔に、連続婦女暴行犯だというのに、なんだか憐れを感じてしまう。


 そんな自分を戒めながら、板倉の姿に集中した。


 そのとき、ふっと、何かに引かれたように、板倉がこちらを向いた。


 あの蛇のような眼が、まるで自分の置かれた状況がわからないように、おどおどし始める。


 彼は縋るように梨湖を見つめたあとで、薄いその唇を微かに動かした。


『き・つ・ね――』


「きつね?」

 思わずそう声に出して言ったとき、ちょうど近くを警官のひとりが横切った。怪訝そうな顔で振り返る。


 莫迦、と冴木が梨湖の靴を蹴った。


「狐がどうした?」

と押さえた声で訊いてくる。


 やはり、今の冴木には、聞こえないらしかった。


「板倉が『狐』って言ってる……」


「また狐か……!」

と冴木は吐き捨てるように言った。


 コックリさんに始まったあの一連の事件を思い出しているのだろう。








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