『――ココハ、ドコ?』
矢島は少し離れた物陰から宮迫を見ていた。
よくあいつ、こんなとこに一人で立ってるよ。
わしと違って、いろんなもんが見えてんだろうによ。
相手は生きている人間ではないのだから、こうして隠れることに意味はない。
宮迫もただ集中するために下がっておけと言っただけだ。
それなのに、まだ微かに昼間の熱を宿すブロック塀に張り付いているのは、単に怖いからだった。
淡い色のスーツを着た宮迫の姿が、ぼんやり闇に浮かんで見える。
それをジイッと見ていたとき、真横に人の気配を感じた。
女が立っていた。
細い肩から、クリーム色のカーディガンが半分脱げ落ちている。
それより問題なのは、頭が割れていることだろう。
左側頭部から滴る血が乱れた髪を伝っている。
白い肌で、結構奇麗な顔をしているために、余計壮絶だった。
『――ココハ、ドコ?』
女は赤い口を開いてそう問うた。
妙に女の顔が間近に見える。
女は、もう一度繰り返した。
『――ココハ、ドコ?』
矢島は声も出ない。
その場にへたり込む。
はっきりとした霊を見たのは、これが初めてだった。
『――ココハ、ドコ?』
矢島は、そのまま砂混じりのアスファルトに両手をついて後ずさる。
ところが何処まで下がっても、ぼんやり立ったままの女の顔が、何故か眼前いっぱいに見えるのだ。
せめて、身体があの生暖かいブロック塀に触れることが出来たなら。
そしたら、正気に返れそうな気がしたのだが、背中の向こうには、いつまで経っても、何もない。
ただ、スカッと頼りない、空虚な空間が広がっているだけだった。
下がっている向きがブロック塀とは違うらしい。
そのうち、視界いっぱいに広がった女の顔は、壊れたように繰り返し始めた。
『――ココハ、ドコ?』
『――ココハ、ドコ?』
『――ココハ、ドコ?』
『――ココハ、ドコ?』
『――ココハ、ドコ?』
『――ココハ、ドコ?』
『――ココハ、ドコ?』
『――ココハ、ドコ?』
『――ココハ、ドコ?』
『――ココハ、ドコ?』
『――ココハ、ドコ?』
『――ココハ、ドコ?』
『――ココハ、ドコ?』
『――ココハ、ドコ?』
『――ココハ、ドコ?』
『――ココハ、ドコ?』
『――ココハ、ドコ?』
『――ココハ、ドコ?』
『――ココハ、ドコ?』
『――ココハ、ドコ?』
『――ココハ、ドコ?』
一定の調子で繰り返される言葉に、気がおかしくなりそうだった。
なんとか押し開けた唇から、掠れた声を絞り出す。
「さ~……こ……」
だが、自分の出した声の情けなさに矢島は愕然とした。
現職警官がこんなことでビビッててはいかん! となんとか腹に力を入れる。
「み、や……さこ~……」
微かに、だが、確かに声のトーンが上がった。
しかし、呼んだ名前の主は現れない。
向こうに集中しているからだろうか。
今現れてくれたら、抱きついてキスしたい気分なのに、とかえって宮迫が逃げ出しそうなことを考えていた。
それでも来ない彼に、自分でなんとかするしかないと、パチンコ代貸してと妻にせびるときよりも切実に訴える。
「……頼む~っ。
成仏してくれ~っ!」
そのとき、鋭い声が闇に飛んだ。
「駄目です!
矢島さんっ、成仏させちゃ!」
なんと宮迫は側に立ち、こちらを平然と見下ろしていたのだ。
自分は結界でも張っているのか、女は宮迫には気づかない。
「せっかく出てきてくれたのに、そのまま上げてしまっては駄目です。
質問してください」
「鬼っ!」
と矢島は座り込んだまま、月に照らされた宮迫の白い顔を見上げて叫んだ。
「こいつ……斉藤怜奈か?」
「違います」
一応側にしゃがんでくれた宮迫が言う。
「よく見てください。
この服装、覚えがあるでしょう?」
肩に触れた宮迫の手から、ほっとするような温かさが広がる。
悪いものがつかないよう、力を送り込んでくれていたのだと後で知った。
「そういえば最近見たな」
血に染まったクリーム色のカーディガン。
こんなに顔は原形を留めてはいなかったが。
「この間、辻で殺されていた女性です」
宮迫は手を離し、立ち上がる。
「どうしたわけか、矢島さんに縋ってきちゃったみたいですね」
ふーん、と宮迫は普通の人間を見るように、彼女を観察していたが、
「あー、矢島さんが、彼女のお父さんに似ているからだそうです」
と言った。
「普通に会話すんなよ、おい」
「会話はしてませんよ。
彼女の背後に見えた光景を読んだだけ」
ふっと宮迫は溜息を漏らす。
「板倉の背後もこれだけ読めればいいんですが。
それでも。
うーん、死の瞬間がやっぱり見えてきませんね。
まだ混乱してるのかな?」
最後の語りかけは彼女に向かって言ったもので、まるで小児科の先生のようでもあった。
「思い出してご覧」
と宮迫は優しく彼女に言う。
梨湖にでも照れがあってか、そこまでではないのに。
「それは君が死んだときの状態かい?」
霊は少し惑うような顔をした。
少なくとも、これは自分たちが見つけたときの遺体の状態とは全く違う。
「打ったのは―― 頭の左側だけ?」
そう言うと、彼女は少し考えてから、探るような視線で己れの左脚を見る。
急にそこに擦れたような痣が浮かび上がった。
「そう、そこをぶつけたの。
それは頭を打つよりも前?」
しばらくして、女の膝丈のスカートの右側が何かに打ち付けられたように変色する。
その次の瞬間、宮迫は左側頭部を押さえてしゃがみ込んだ。
女はそれにも気づかないように、ぼんやりと、何か思いだそうとするように、宙を睨んでいる。
「宮迫っ!」
駆け寄ると、宮迫は頭を押さえたまま呟いた。
「……ガードレール」
「え?」
「ガードレールが見える。
一回ガードレールにぶつかって、回転するように、草むらに飛んだ」
矢島さん、と痛そうな顔をしたまま、目だけを上げる。
「彼女の傷、確認してください」
見ると、ばっくり割れていた頭は普通に戻っている。
乱れた髪が消えたせいで、つるりとした奇麗な肌と、整った顔立ちが露になっていた。
「早く傷を確認して! 左側頭部です!」
怒鳴られた矢島は慌てて、女の許に行く。
宮迫の剣幕に、もう怖いなどとは言っていられなかった。
そっと上から覗き込む。
すると、頭は割れていない代わりに、ぼっこりと頭蓋骨が陥没していた。
「頭打ってるみたいだ。
それ以外の外傷は左膝と右腰。
それと、ああ、腕に擦過傷が少々」
宮迫はそれを聞きながら立ち上がる。
「跳ね飛ばされて、ガードレールにぶつかり、少し草むらを転がったんでしょう。
そのときの傷です」
「え――?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます